『いだてん』あれこれ「百年の孤独」2019-03-19

2019-03-19 當山日出夫(とうやまひでお)

『いだてん~東京オリムピック噺~』2019年3月17日、第11回「百年の孤独」
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/011/

前回は、
やまもも書斎記 2019年3月12日
『いだてん』あれこれ「真夏の夜の夢」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/12/9046269

オリンピックへの参加は、プレッシャーがつきものである。そのことを否定はしていない。しかし、それを乗り越えるものとして、オリンピックに参加することの充足感を描いた回であった。弥彦は、短距離走で惨敗する。だが、そこには、自己充足があった。負けて悔いはなかった。

日本で初のオリンピック出場、それをナショナリズムを感じさせない描写になっている。「NIPPON」も日の丸も出てくるのだが、それを相対化して見せているのは、このドラマの脚本と演出の巧さということになるのだろう。

橘家円喬(志ん生の師匠)は言っていた……なんで好き好んでストックホルムまで行って、かけっこをするのか、と。

四三は、ストックホルムについても、熊本方言のままである。JAPANではなく、日本であることを主張しているのだが、そのことばは、いわゆる標準的な日本語(共通語)になってはいない。この四三の、熊本に対するパトリオティズム(愛郷心)、リージョナリズム(地方主義)が、日本という国についてのナショナリズムを相対化していることになる。

ただ、このドラマを見ていて感じることは……オリンピックの理念……参加することに意義がある……を強く語れば語るほど、現在の、商業主義的な、また、メダル至上主義的な、オリンピックのあり方に対する批判となっていることである。あるいは、まだ、ストックホルムの段階だからこそ、オリンピックについての精神を高らかに語ることができるといえるのかもしれない。

これが、この次の時代、例えば、人見絹枝とか、前畑秀子とかが出てくる時代になれば、国家というもののプレッシャーは、大きくなりこそすれ、純粋に競技に参加することに意義があるという理念は、難しいものになるのかもしれない。日本で最初のオリンピック参加だからこそ、ただひたすらに参加することに意義がある、との理念を語ることができているようにも思える。

オリンピックへの参加は、必然的に日本という国を背負ったものになる。そこには、プレッシャーがある。しかし、それがあるとしても、一人の人間として、オリンピック競技に参加することに意義がある、このことを語って見せたのが、今回のドラマであるといえるだろう。

次週は、いよいよマラソンになるようだ。楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-03-26
この続きは、
やまもも書斎記 2019年3月26日
『いだてん』あれこれ「太陽がいっぱい」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/26/9051551