『いだてん』あれこれ「ベルリンの壁」2019-04-30

2019-04-30 當山日出夫(とうやまひでお)

『いだてん~東京オリムピック噺~』2019年4月28日、第16回「ベルリンの壁」
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/016/

前回は、
やまもも書斎記 2019年4月23日
『いだてん』あれこれ「あゝ結婚」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/23/9063288

四三はベルリンのオリンピックに参加することができなかった。第一次世界大戦のために、大会そのものが開かれることがなかった。

だが、これは歴史上の事実として既に分かっていたことでもある。その後の再度のベルリンの大会が、まさに「民族の祭典」としてナチスのもとに開催されることになるはずである。

結果的にベルリンに行けなかった四三であるが、とにかくオリンピックを目指して頑張っている。故郷からやってきた妻のスヤも、追い返してしまう。一途にオリンピックをめざす。

だが、そこには、ナショナリズムの悲壮感のようなものはない。これは、描き方として、あまりに純粋に生真面目にオリンピックを目指す姿だからなのだろう。大真面目になればなるほど、逆にはたから見れば、ある意味での滑稽さを感じるものである。ここのところを、うまくこのドラマでは描いていたように思える。

また、ベルリンへの出場がかなわなかった四三は、たしかにみじめであったかもしれない。が、そのみじめさを相対化してしまっているのが、大竹しのぶ(スヤの義母)。たかがオリンピックと思っている。その発想が、逆に、四三をすくっている。

オリンピックは、嘉納治五郎の言うような理想だけでは、実際に運営されない。第一次世界大戦のために中止になったベルリンもそうだが、その後の「民族の祭典」、また、幻の東京オリンピック(昭和15年)も、国際情勢のなかで考えるべきものになってくるにちがいない。昭和39年の東京オリンピックも、ある意味できわめて政治的な色彩をおびている。

国際情勢の荒波のなかで、ひたむきにスポーツにはげむ若者の姿を、これからこのドラマは描いていくことになるのであろうか。

ところで、一方の志ん生の方であるが、浜松で師匠の死を知る。そこで一念発起して、芸の道に精進しようとするのだが……このあたりの描写、確かに、そのひたむきさはなんとなく伝わってくるものの、はっきりいって、今一つ面白くは感じられない(私には)。このあたり、志ん生師匠の若き日の姿としては、どうなんだろうか。落語に造詣のある人がみれば、これはこれで面白い描き方になっているのかもしれないとは思ってみるのだが。

次回は、オリンピック出場が適わなかった四三のその後のことのようである。楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-05-07
この続きは、
やまもも書斎記 2019年5月7日
『いだてん』あれこれ「いつも2人で」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/05/07/9069425

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