『海辺のカフカ』(上)村上春樹2019-04-11

2019-04-11 當山日出夫(とうやまひでお)

海辺のカフカ(上)

村上春樹.『海辺のカフカ』(上)(新潮文庫).新潮社.2005 (新潮社.2002)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100154/

『1Q84』『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』につづけて読んだ。だいたい、年をさかのぼって読んでいることになる。

やまもも書斎記 2019年4月9日
『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/09/9057420

この作品、上巻を読んだかぎりの印象をひとことでいえば……芸術的感銘、としかいいようがない。作品のストーリーは、ある意味で荒唐無稽とさえいえる。旅に出たひとりの少年、戦争中におこった山中での不可解な事件、何故か猫のことばがわかる人間……ありえないようなこれらのストーリーを追っていくなかで、ふと作品世界の中に没入して読みふけっている自分に気付く。そこにあるのは、文学的な何かでしかない。

おそらく、現代において、村上春樹は、芸術としての文学が書ける数少ない作家の一人であることを確信する。その作品は、芸術である。

だから、その作品がわかるためには、文学的感性、芸術的想像力とでもいうべきものが必要になる。でなければ、この作品は、ただの空想の話しにすぎない。

そして、村上春樹の人間理解は深い。ある意味で希有なヒューマニストと言ってもいいのかもしれない。

ふと思って村上春樹の作品を読んでいるのだが、ここにきて、彼が、ノーベル文学賞候補になっている理由が理解できたような気がする。芸術としての文学的普遍性が、その作品にはある。

次は、下巻である。どのような村上春樹の世界が展開することになるか、楽しみに読むことにしよう。

追記 2019-04-12
この続きは、
やまもも書斎記 2019年4月12日
『海辺のカフカ』(下)村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/12/9058693

『海辺のカフカ』(下)村上春樹2019-04-12

2019-04-12 當山日出夫(とうやまひでお)

海辺のカフカ(下)

村上春樹.『海辺のカフカ』(下)(新潮文庫).新潮社.2005 (新潮社.2002)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100155/

続きである。
やまもも書斎記 2019年4月11日
『海辺のカフカ』(上)村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/11/9058266

『海辺のカフカ』を下巻まで読み通して、深い文学的感銘をおぼえる。

だが、ストーリーは、ある意味では荒唐無稽である。しかし、これは、時空のゆがんだ村上春樹の物語世界である。この物語世界は、村上春樹のプリズムをとおして、ゆがめられて、この世の文章として定着してある。しかし、そのもとをたどっていけば、ある究極の一点、それは、世界の始原とでもいうべき一点に収斂していく。

『海辺のカフカ』を読んだ印象をのべれば、上記のようになる。

ただ、リアルな小説として読んだのでは、この作品はつまらない。ありえないようなストーリーの展開なのだが、それを読むなかで、思わずに物語世界の中に没入して読みふけるような感覚がある。この感覚を感じない人にとっては、ただわけのわからない小説ということになるのかもしれない。

なるほど、村上春樹がノーベル文学賞の候補になるだけのことはある、そう感じさせる作品である。この作品は、ある種の世界性、普遍性がある。一見すると不整合に見えるこの世界のできごとは、視点を変えることで、ネガがポジになるように反転して見える。いや、それ以上に、キュビズムの絵画のように、いくつかの視点が交錯しめくるめく反転する物語が、全体として、一つの究極の姿をその背後に描き出す。それは何か……それは、もはやことばでは表現できないものであるとしかいいようがないのかもしれない。しかし、そのことばにはならないものに、あくまでもことばで構築する物語として、その始原にせまっていく。

おそらく、文学というものが芸術であるとするならば、村上春樹は、芸術としての文学の書ける希有な作家であることはまちがいない。

追記 2019-04-13
この続きは、
やまもも書斎記 2019年4月13日
『アフターダーク』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/13/9059054

『アフターダーク』村上春樹2019-04-13

2019-04-13 當山日出夫(とうやまひでお)

アフターダーク

村上春樹.『アフターダーク』(講談社文庫).講談社.2006 (講談社.2004)
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000204238

『海辺のカフカ』につづけて読んだ。

やまもも書斎記 2019年4月11日
『海辺のカフカ』(上)村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/11/9058266

やまもも書斎記 2019年4月12日
「海辺のカフカ」(下)村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/12/9058693

この小説は、浮遊する視点の物語である。

深夜のファミレスからスタートする。そして、その夜明けまでの各種のできごとが、さまざまな視点から語られる。その視点に一貫性は無いように感じられる。これを、私は、視点が浮遊していると感じて読んだ。

普通、一般に小説というのは、物語る視点は固定されているものである。時に、それが、いくつか入れ替わることはあっても、基本的に揺れることはない。

だが、この小説の視点は、あたかも鏡に映った像のように、時として、視点が交錯する。そして、一箇所にとどまることがない。この世界を宙空にただよって、あるいは近づき、あるいは遠のきしながら、複数の登場人物の間をゆれうごく。

それから、この作品でも出てくるのが「眠り」。人が眠っている時間とは、その人にとって何であるのだろうか。村上春樹の作品には、これまで読んだものにおいても、「眠り」と「夢」が出てきている。おそらく、村上春樹作品を読み解くキーになるのが、「眠り」であり「夢」であることは理解される。

村上春樹の作品を、ほぼ年代をさかのぼって、長編を読んでいっている。次に読もうとおもっているのは、『スプートニクの恋人』。

追記 2019-04-15
この続きは、
やまもも書斎記 2019年4月15日
『スプートニクの恋人』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/15/9059902

『なつぞら』あれこれ「なつよ、夢の扉を開け」2019-04-14

2019-04-14 當山日出夫(とうやまひでお)

『なつぞら』第2週「なつよ、夢の扉を開け」
https://www.nhk.or.jp/natsuzora/story/02/

前回は、
やまもも書斎記 2019年4月7日
『なつぞら』あれこれ「なつよ、ここが十勝だ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/07/9056497

前回にひきつづき、この週も開拓者の物語であった。

戦争中に、北海道開拓のためにやってきたクラスメートの山田家の人びと。天陽君とその家族。その開拓の苦労は並大抵のものではない。それを、助けてやってくれと、なつはじいさん(泰樹、草刈正雄)に頼む。それを、泰樹は受け入れることになる。

それから、なつは、学校の映画会で漫画映画を見ることになる。このドラマは、将来、アニメーターとして育っていくなつの姿を描くことになるはずである。なつとアニメとの出会いである。

ドラマで映っていたのは、ポパイだった。作中では、ディズニーということばも出てきていたが、はたして、なつは今後ディズニーの映画を見ることがあるのだろうか。そういえば、ミッキーの登場した『ファンタジア』は、第二次大戦の前に作られた映画ではなかったろうか。これは、私も見た記憶があるのだが、どこでどのようにして見たのかはもう忘れてしまっている。

ところで、ちょっと今から気になっていることがある。このドラマは北海道の開拓の物語であるとして、これは、立場を変えてみるなば、先住民であるアイヌの人びとからすれば、侵略の歴史にほかならない。ドラマの中で描かれる北海道の自然は、雄大で牧歌的で美しい。しかし、この自然の背景にある、近代の北海道の歴史というものをこのドラマは、これからどのような視点で描いていくことになるのだろうか。

ともあれ、次週から大きくなったなつの登場である。楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-04-21
この続きは、
やまもも書斎記 2019年4月21日
『なつぞら』あれこれ「なつよ、これが青春だ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/21/9062344

『スプートニクの恋人』村上春樹2019-04-15

2019-04-15 當山日出夫(とうやまひでお)

スプートニクの恋人

村上春樹.『スプートニクの恋人』(講談社文庫).講談社.2001 (講談社.1999)
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000202189

『アフターダーク』の次に読んだ。だんだん、さかのぼって読んでいる。

やまもも書斎記 2019年4月13日
『アフターダーク』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/13/9059054

これまでいくつかの村上春樹の作品(長編)を読んで来て、その特徴というべきものがつかめてきたような気がする。

第一には、散文詩、とでもいえばいいだろうか。あるシーンに、あるいは、全編にただよっている詩情である。

この『スプートニクの恋人』は、主に三人の登場人物である。ぼく、すみれ、ミュウ、この三人である。この三人をめぐる奇妙な恋の物語。そして、すみれの失踪。全体にわたってストーリーの展開の面白さがあるという作品ではない。主な三人の登場人物の不思議な関係がじっくりと描かれる。そして、場面はギリシャに移る。そのギリシャでの事件も謎に満ちているというよりも、ただ不可思議な事件が起こる……謎の失踪。

消えたすみれはどこにいったのか……向こう側の世界にである。

第二には、こちらの世界と向こうの世界、二つの世界が鏡像のように交錯する、奇妙な作品世界、とでもいおうか。といって、怪奇とかいうのではない。ただ、こちらの日常の世界が反転して、向こうの世界に、ふとはいりこんでしまう、そんな感じである。

この世界が反転する感覚、これこそ村上春樹文学の本質につながるものだろう。そして、この世界と向こうの世界をつなぐ回路になっているのが、夢である。村上春樹の文学は、夢の文学であるともいえるだろうか。

この次に読もうとおもっているのは、『国境の南、太陽の西』である。

追記 2019-04-18
この続きは、
やまもも書斎記 2019年4月18日
『国境の南、太陽の西』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/18/9061185

『いだてん』あれこれ「新世界」2019-04-16

2019-04-16 當山日出夫(とうやまひでお)

『いだてん』2019年4月14日、第14回「新世界」
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/014/

前回は、
やまもも書斎記 2019年4月2日
『いだてん』あれこれ「復活」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/02/9054483

時代は、大正時代になる。四三は、ストックホルムから帰ってくる。

この回からの登場人物で、注目されるのは二階堂トクヨ(寺島しのぶ)である。東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)の先生である。彼女は、なぜ、ストックホルムで負けたのか、強く問いただしていた。

このトクヨの台詞、それから、四三の語っていることなど、そのことばを表面的にうけとるならば、まさにスポーツナショナリズムである。だが、ドラマを見ていてそのような印象はない。そのように考える人びともいたであろうことは理解できるとしても、どこか冷めたような目でみている印象を感じる。

これは一つには、二階堂トクヨにせよ、嘉納治五郎にせよ、この当時の日本のスポーツにかかわった人間たちを、大真面目に描いているせいだろう。えてして、ひとは、大真面目になればなるほど、どこかしら滑稽さをおびてくるものである。

そして、ここにいたっても、四三の熊本方言は抜けていない。高等師範学校を卒業すれば、その将来は教師ということになるだろう。それが、いつまでも熊本方言のままであっていいはずはない。しかし、ドラマでは、四三に熊本方言を語らせている。これは、日本というナショナリズムを相対的な視点から見るものとしての、熊本という地方の視点、リージョナリズム、とでもいえるだろうか。熊本という視点を持ち込むことによって、スポーツと日本の国とが直接結びついてしまうことを回避しているようにも見てとれる。

見ていると、天狗倶楽部ももう終わりのようである。これは、明治という時代だからうまれたものであったとすべきなのであろう。時代が大正にうつり、新しい「国民」の体育ということが現実のものになっていく時代において、明治の有閑階級の遊びとでもいうべきスポーツは、消え去っていくことになる。

ところで、NHKの大河ドラマで、近代を描くことはめずらしい。しかも、大正の時代を描くことは、これまでほとんどなかったかと思う。ちょうど今、日本は、平成の時代が終わって、次の令和の時代をむかえようとしている。その時に、今から一世紀ほど前のこと、大正時代をどう描いてみせるか、これはこれとして楽しみに見ることにしよう。

それから、私には、落語家・志ん生の部分が今一つ面白く感じられない。が、これも、大正という時代から昭和という時代を描くにあたっては、重要な役割をはたすことになるのだろうと思って見ている。

追記 2019-04-23
この続きは、
やまもも書斎記 2019年4月23日
『いだてん』あれこれ「あゝ結婚」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/23/9063288

スノーフレーク2019-04-17

2019-04-17 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日は花の写真。今日は、スノーフレークである。

前回は、
やまもも書斎記 2019年4月10日

http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/10/9057854

桜の花はもう散ってしまった。山吹の花がそろそろ咲きそうである。

写したのは、スノーフレーク。和名としては、「鈴蘭水仙」がつかわれるらしい。我が家の池のほとりに咲いている。この季節ならではの花である。

この花、以前から咲いていたはずであるが、気にとめることなく過ぎてしまっていた。身の周りの草花などの写真を撮るようになってから、この花が咲いていることに気付いた。去年のことになる。これは、高さ三〇センチほどの草で、小さい二センチほどの白い花を咲かせる。綠色の斑点があるのが特徴である。

使っているカメラは、D7500である。D500は今は修理中。カメラの機能に不備はないのだが、写した写真を見ると、一部に黒っぽい影がある。どの写真にも、同じ位置にある。たぶん、センサーが汚れているのであろう。ニコンのHPから、ピックアップ修理を頼んだ。宅急便で、配送用梱包資材を贈ってくる。それにカメラをいれて、取りに来てもらって発送。たぶん、一週間ぐらいで帰ってくるだろう。その間、以前につかっていたD7500を使うことにした。基本的に同じセンサーを搭載している機種であるし、以前に使っていたものだから、違和感なく使っている。

山吹

山吹

山吹

山吹

山吹

Nikon D7500
AF-S VR Micro-Nikkor 105mm f/2.8G IF-ED

追記 2019-04-24
この続きは、
やまもも書斎記 2019年4月24日
八重桜

『国境の南、太陽の西』村上春樹2019-04-18

2019-04-18 當山日出夫(とうやまひでお)

国境の南、太陽の西

村上春樹.『国境の南、太陽の西』(講談社文庫).講談社.1995 (講談社.1992)
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000197175

『スプートニクの恋人』につづけて読んだ。

やまもも書斎記 2019年4月15日
『スプートニクの恋人』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/15/9059902

読後感をひとことで言えば……雨とジャズの似合う小説、とでもなるだろうか。そして、雨とジャズには、孤独がよりそっている。

特に波瀾万丈のストーリーがあるというのではない。ごく普通の人生をおくっている主人公。その子どものときのころから、成長して、何人かの女性とめぐりあい、やがて、ジャズ・クラブを経営するようになる。そこにあらわれる、幼なじみの女性。再会と別離。

この小説を読みながら感じるのは、他の村上春樹作品と同様に、日常生活が反転したところにある逆像の深淵とでもいうべき感覚だろうか。いま生きている日常は、ひょっとすると架空のものなのかもしれないという不安がよぎる。ふと別の世界に反転してしまったのではないかというような、奇妙な感覚。

これまで、『1Q84』から、概ねさかのぼるかたちで村上春樹作品の長編を読んできて、この作品には、特に「孤独」を感じる。現代的で、どことなく抒情的であり、また、乾いた感じのする「孤独」である。

この作品が書かれたのは、1992年。東西冷戦の終わりのころである。そのころの世相はどんなだったろうか、と思い起こしてみる。作中、70年安保のことがすこしだけでてくる。それも、主人公の関心をひかなかった、当時の時代の一コマとしてである。この小説は、きわめて非政治的である。

読みながら、ふと主人公の気持ちに共感して、作品世界の中にはいっていく感じがする。日常の生活の裏側にある、ふとした不安のようなもの、それは、主人公の「孤独」な感情と言っていいだろうか。また、再会することになった相手の女性も、なにがしかの「孤独」をかかえて生きているように読める。

現代社会の孤独感を、雨とジャズを背景に、抒情的に描いた作品であると読んだのであるが、どうであろうか。

追記 2019-04-19
この続きは、
やまもも書斎記 2019年4月19日
『ねじまき鳥クロニクル』(第1部)村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/19/9061574

『ねじまき鳥クロニクル』(第1部)村上春樹2019-04-19

2019-04-19 當山日出夫(とうやまひでお)

ねじまき鳥クロニクル(1)

村上春樹.『ねじまき鳥クロニクル』(第1部 泥棒かささぎ編)(新潮文庫).新潮社.1997(2010.改版) (新潮社.1994)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100141/

『国境の南、太陽の西』につづけて読んだ。

やまもも書斎記 2019年4月18日
『国境の南、太陽の西』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/18/9061185

不思議な小説だなあ、というのが第一部を読んでの感想。

特に、最後の方に出てくるノモンハンでのできごと。なかんずく、井戸に落ちること。これは何を意味しているのだろうか。常識的に考えれば、井戸はこの世とあの世の通り道。境界である。あるいは、井戸におちるということで、一度、死の体験を擬似的に経るとでも解釈できるだろう。

そういえば、主人公の家の裏の路地。これも、どうやら異界への入り口のようにも解釈できる。

村上春樹の作品を読んでいると、この世界が、ふとしたことで別の世界に反転してしまうような感覚になることがある。

ともあれ、村上春樹の作品をさかのぼって読んでいるのだが、この『ねじまき鳥クロニクル』においても、村上春樹ワールドとでもいうべき感覚の中にひたることになる。1994年、平成になってからの作品である。平成という時代、それまでのリアリズムの発想ではとらえることのできない、奇妙な異次元の世界を描いているとでも言ったらいいのだろうか。その異次元の世界も、どこか特別なところにあるというのではなく、ごく普通の日常生活の裏側にある、そんな感覚である。

次の第二部を読むことにしたい。

追記 2019-04-20
この続きは、
やまもも書斎記 2019年4月20日
『ねじまき鳥クロニクル』(第2部)村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/20/9061932

『ねじまき鳥クロニクル』(第2部)村上春樹2019-04-20

2019-04-20 當山日出夫(とうやまひでお)

ねじまき鳥クロニクル(2)

村上春樹.『ねじまき鳥クロニクル』(第2部 予言する鳥編)(新潮文庫).新潮社.1997(2010.改版) (新潮社.1994)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100142/

続きである。
やまもも書斎記 2019-04-19
『ねじまき鳥クロニクル』(第1部)村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/19/9061574

この巻も、不可解な物語であるが、読みながらふと思わずにその物語世界のなかに没入していることに気付く。

思うことを書けば、次の二点になるだろうか。

第一は、井戸。

この第二部でも、第一部の終わりに出てきたように、井戸が出てくる。主人公の家の裏の路地を行ったところの家にある。その井戸の中に主人公は入り込む。そして時間をすごす。夢を見る。

もともと「井戸」というものが、ある意味では異界との境界、あるいは、異界そもものであるとも解釈できる。しかも、その異界に身をおいて、夢を見る。これは、何を意味しているのだろうか。

この世界と、別の世界が、井戸のなかで反転し、融合する。

第二に、自己の浮遊。

この世界において、自分として認識している自分は何であるのか。それは、別の世界にいる別の自分の影のようなものかもしれない。自分自身が、この世界と別の世界に分離していくような感覚におちいる。浮遊する自己とでもいえばいいだろうか。

以上の二点が、この『ねじまき鳥クロニクル』の第二部「予言する鳥編」を読んで感じるところである。

おそらく、村上春樹は、二〇世紀の終わりから、二一世紀にかけて……それは、日本の年号でいえば、平成という時代になる……において、文学的想像力で何が可能か、その極限を追求した作家であるといえるだろうか。ここには、もはや一九世紀的なリアリズムの感覚は通用しない。文学的感性とともに、この世界と異世界の間をただようだけの意識の感覚とでもいうべきものである。

次は、第三部になる。これも続けて読むことにしよう。

追記 2019-04-25
この続きは、
やまもも書斎記 2019年4月25日
『ねじまき鳥クロニクル』(第3部)村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/25/9064115