『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(下)村上春樹2019-05-03

2019-05-03 當山日出夫(とうやまひでお)

世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド(下)

村上春樹.『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(下)(新潮文庫).新潮社.2010 (新潮社.1985)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100158/

続きである。
やまもも書斎記 2019年5月2日
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(上)村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/05/02/9067225

なんと奇妙な小説なのだろうか……これが、読み終わっての偽らざる感想である。しかし、そうでありながら、読後感としては、ある種の文学的感銘というべきものがある。

「世界の終り」の物語と、「ハードボイルド・ワンダーランド」の物語は、結局、直接は交わることなく、それぞれに終わりを迎える。強いて接点となるべきものとしては、一角獣の頭骨ということになる。これは、いったい何を象徴しているのだろうか。夢、だろうか。

読み終えて感じることであるが、この二つの物語、それも、異世界の物語とでもいうべきものを語ってきて、最後に、それぞれにきわめて印象的で抒情的でもある結末で終わっている。この小説が、これまで語ってきたことはいったいなんだったのだろうか。

わかりやすく解釈するならば、地底世界、水をわたる、地下鉄……これらは、この世界と別の世界・異世界との「境界」をとおりぬけることを意味する、このように理解できるだろう。また、壁に閉ざされた空間も、外の世界に対して別世界・異世界であるにちがいない。

結局、最後に残るものは、「私」の意識である。あるいは、「僕」の気持ちである。「この世界」を成り立たせているものは、意識であり、あるいは、意志であるのかもしれない。異世界の物語というものを語りながら、最後には、自己の意識の世界の中に回帰している。その意識の反転したものが夢の世界ということになるのだろうか。

そして、終末をむかえていることを意識しながら、そこどこなく、心を安んじるなにかを感じさせる。この最後の安心感とでもいうべきものは何を意味しているのだろうか。世界の終わりが、今そこにあるということが分かっていながら、心が落ち着いていられる、何かしら奇妙な感覚がある。

おそらく、二〇世紀、昭和という時代の日本の文学の達成点が、この小説世界にはあるのだろうとは感じるところである。おそらくそれは、この世界を構築している人間の意識、それによって構築される世界、それは虚構のものかもしれないし、また、その反転したものとしての夢の世界かもしれない。意識と夢というのが、村上春樹の文学の根底にあることは理解できようか。

追記 2019-05-04
この続きは、
やまもも書斎記 2019年5月4日
『風の歌を聴け』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/05/04/9068083