『職業としての小説家』村上春樹2019-05-30

2019-05-30 當山日出夫(とうやまひでお)

職業としての小説家

村上春樹.『職業としての小説家』(新潮文庫).新潮社.2016 (スイッチ・パブリッシング.2015)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100169/

続きである。
やまもも書斎記 2019年5月27日
『騎士団長殺し』(第2部 遷ろうメタファー編)(下)村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/05/27/9077517

小説家が、自ら小説を書くことにまつわるいろんなことについて書くということは、あまり無いのかもしれない。いや、あるのかもしれないが、このように、意図的に一冊の本に、このような書名でまとめてあるというのは、珍しいだろうと思う。

小説家としての自伝のようなところもあり、また、自身の作品についての解説のようなところもある。ともあれ、村上春樹の作品を、『風の歌を聴け』から『騎士団長殺し』まで全部読んできた後で、この本を読んでみることにした。

なるほどと思ったのは、最初のころの作品では、「僕」「私」という一人称で語っていたものが、途中から三人称で語るようになってきた……その転機となったのが『海辺のカフカ』である……ことなど、今回、私が村上春樹作品を読んだように、概ね刊行の逆順で読んできた立場からすると、気付かなかった点である。

村上春樹はなぜ小説家になったのか……それはふとした思いつき、というのが悪ければ、天啓による、とでもいいだろうか。ある日、小説を書いてみたくなって小説を書き始めた。このことは、確か、別の文章でも読んだことがあるような記憶があるのだが、この『職業としての小説家』には、そのあたりの事情が、詳しく書いてある。

読みながらいくつか付箋をつけたのだが、その一つを引用しておく。

「小説家というのは、芸術家である前に、自由人であるべきです。」(p.154)

ここでは二つのメッセージを読み取れるだろう。

第一に、文字通り、小説家は自由人でなければならないこと。

第二に、この文が前提としていること、それは、小説家は芸術家である、ということ。

この第二の点が、ある意味で、現代の文学にとって、一般的に希薄、あるいは、逆に、村上春樹に特有なところかもしれない。

今、日本の文学というのは、芸術をめざしているだろうか。私には、どうもそのようには思えない。芸術というよりも、エンタテインメントであり、あるいは、思想であるように思える。この現代文学の世界において、芸術としての小説を書いているのが、村上春樹であると私は、強く思う。

そして、自由ということ。これは、ことばを変えていえば、文学的な想像力の世界を十分にはたらかせるということのように、私には理解される。

村上春樹の作品は多く翻訳されている。それが海外で広く読まれるようになったのは、ベルリンの壁の崩壊の後のことらしい。ベルリンの壁の崩壊は、やはり象徴的なできごとであったと私は記憶する。それまでの世界ががらりと変わってしまった。その後の新しい世界において、村上春樹は読まれるようになったという。このあたりにも、村上春樹の文学の持つ世界史的な意義(というのは大げさかもしれないが)……が、あるような気がする。

さて、次は、村上春樹の短編小説である。これも、読んでいくことにしたい。

追記 2019-05-31
この続きは、
やまもも書斎記 2019年5月31日
『中国行きのスロウ・ボート』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/05/31/9079085