『いだてん』あれこれ「ヴィーナスの誕生」2019-06-11

2019-06-11 當山日出夫(とうやまひでお)

『いだてん~東京オリムピック噺~』2019年6月9日、第22回「ヴィーナスの誕生」
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/022/

前回は、
やまもも書斎記 2019年6月4日
『いだてん』あれこれ「櫻の園」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/04/9080773

人見絹枝が魅力的であった。

この回もまた女子スポーツのこと。今から一〇〇年ほど前のこと、大正時代である。そう簡単に女子スポーツに理解があったというわけではない。ここのところを、さほど深刻にならずに、どちらかといえばコミカルな感じで描いていた。

当事者が大真面目になればなるほど、傍目にはどこかしら滑稽に見えたりもする。しかも、四三はあいかわらずの熊本方言である。熊本方言で一生懸命になればなるほど、見ている側としては、どこかしら冷めた目で見てしまうところがある。

この回から人見絹枝が登場してきている。女性として初のオリンピックのメダリストである。ただ、私の知識としては、ただ、最初のメダリストとして名前は知ってはいるが、どのような人物像であったか、詳しくは知らない。その人見絹枝をどのように描くか、関心を持って見ていた。人見絹枝をどのように描くか、これもまた、日本の近代におけるスポーツの歴史を描くうえでは重要なポイントになるにちがいない。

その人見絹枝の人間的な魅力を、菅原小春がうまく演じていたように思う。

ところで、一方の志ん生の話し。今回のストーリーでは、まったくオリンピックにからんだ場面はなかったが、しかし、これはこれで、面白いドラマの展開になってきていると感じる。若い落語家の放逸な生活と哀愁とでもいうべきものが、うまく出せていたと思う。

次回は、関東大震災の話しになるようだ。関東大震災は、『おしん』(BSで再放送中)でも出てくる。ここをどのように描くことになるのか、楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-06-18
この続きは、
やまもも書斎記 2019年6月18日
『いだてん』あれこれ「大地」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/18/9088745

セイヨウイボタノキ2019-06-12

2019-06-12 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日は花の写真。今日はセイヨウイボタノキである。

前回は、
やまもも書斎記 2019年6月5日
ネジキ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/05/9081230

この花は去年も写している。
やまもも書斎記 2018年7月4日
セイヨウイボタノキ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/07/04/8908790

我が家の駐車場の垣根に植えてある木である。去年、名前をしらべてみて、セイヨウイボタノキであることを知った。今年は、花の咲く前から楽しみにして待っていた。五月の下旬ごろに花が満開になったろうか。並んで花を咲かせるシモツケ(あるいは、コデマリかと思うが)の花が終わってから、花をつける。

非常に香りがつよい。花が咲いてくると、甘い香りが駐車場に出るとただよってくる。

今年は、どちらかといえば図鑑的な写し方で撮ってみた。花の写真はいろいろ写し方があると思うが、できれば図鑑的な写し方をとこころがけている。どの花であるのか、その特徴をとらえた写し方とでもいおうか。そのためには、その花の特徴となることがら……花びらの数とか、形、雄しべ、雌しべの数、葉の形や付き方……このようなことが分かるように写すことになる。これはこれで、かなり難しい。

しかし、花の写真としてなんとか見られるものであることと、図鑑的に花の特徴をとらえることとは、なんとか両立することだろうと思っている。これからも、身の周りの草花や樹木などの写真を撮っていきたいと思う。

ところで、先週に掲載したネジキであるが、それから、何カ所かで花が咲いているのを見つけた。歩いていて、足下に、ちょっと大きめの米粒のような白い花が落ちているのを見て、上を見てみるとネジキの花が咲いている。我が家の周囲のかなりにこの木の花があることがわかった。

セイヨウイボタノキ

セイヨウイボタノキ

セイヨウイボタノキ

セイヨウイボタノキ

セイヨウイボタノキ

セイヨウイボタノキ

Nikon D500
AF-S VR Micro-Nikkor 105mm f/2.8G IF-ED

追記 2019-06-19
この続きは、
やまもも書斎記 2019年6月19日
ノイバラ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/19/9089142

『レキシントンの幽霊』村上春樹2019-06-13

2019-06-13 當山日出夫(とうやまひでお)

レキシントンの幽霊

村上春樹.『レキシントンの幽霊』(文春文庫).文藝春秋.1999 (文藝春秋.1996)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167502034

続きである。
やまもも書斎記 2019年6月10日
『TVピープル』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/10/9083904

この短編集は、1999年に出ている。あとがきによれば、『七番目の男』『レキシントンの幽霊』は、『ねじまき鳥クロニクル』のあとで書かれた。それ以外の作品、『綠色の獣』『沈黙』『氷男』『トニー滝谷』、これらの作品は、『ダンス・ダンス・ダンス』『TVピープル』の後で書かれた。

そして、『めくらやなぎと、眠る女』は、『めくらやなぎと眠る女』の改稿版である(短縮版)。また、その他の作品も、単行本収録にあたって手をいれてある旨がしるしてある。

村上春樹の作品論、作家論を考えようとするならば、これらのテキストを、逐一読み比べて、その異同について考える必要がある。

だが、現代文学を専門とするわけではなく、ただ楽しみとして村上春樹の作品を読んでいこうと思っている立場としては、そのようなことは理解したうえで、この作品集を読むことになる。

ここまで、村上春樹の作品を読んできて、ここにいたって、寓意とでもいうべきものを感じるようになった。作品にただよう詩情……散文詩とでもいえるような……でもなく、最後になにかしらオチのあるような話しでもなく、物語全体として、何かを表していると感じる。一般的にいってしまうならば、寓意のある物語として理解されるということになる。

たぶん、村上春樹の文学を考えるうえで、『ねじまき鳥クロニクル』や『海辺のカフカ』あたりが、重要な転換点になっているであろうことは、これまで、長編を読んできて感じるところである。初期の作品にあった散文詩的な叙情性から、寓意のある物語への変化とでもいえるだろうか。私には、そのように理解される。

では、村上春樹は、その寓意によって、何を表現しようとしているのか……短篇の方が、長編よりも、難解な感じがしてならない。読んで決して難しいという感じる作品ではないのだが、しかし、では、何を語りかける作品なのか、ことばにしようとすると、どうにもならない。とはいえ、そこには、村上春樹ならではの文学の魅力がある。

ところで、『めくらやなぎと、眠る女』であるが、単行本(また、その文庫本)において、新旧二つのテキストを、同時に刊行してある、これは、珍しい事例になるだろう。文学研究の分野において、このようなテキストをどうあつかうか、考えるか、これはこれで興味がある。

次は、『神の子どもたちはみな踊る』である。

追記 2019-06-14
この続きは、
やまもも書斎記 2019年6月14日
『神の子どもたちはみな踊る』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/14/9086543

『神の子どもたちはみな踊る』村上春樹2019-06-14

2019-06-14 當山日出夫(とうやまひでお)

神の子どもたちはみな踊る

村上春樹.『神の子どもたちはみな踊る』(新潮文庫).新潮社.2002 (新潮社.2000)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100150/

続きである。
やまもも書斎記
『レキシントンの幽霊』村上春樹 2019年6月13日
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/13/9085919

文学的想像力……この世界におこったできごとを「文学」として把握する洞察力とでもいえるだろうか、この作品には、何よりもこのことを強く感じる。

収録作品の初出は、1999年。連作『地震のあとで』その一~その六、として発表されたもの。「地震」は、1955年の、神戸の地震である。

この地震のあった時のことは、私は、まだかなり鮮明に記憶している。一月一七日、朝、地震で目が覚めた。幸いなことに、我が家においては被害はなかった。その日から、数日は、テレビを見て過ごしていた。

この震災について、いくつもの文学作品やノンフィクションがあるだろう。その中で、小説、文学として、この震災を描いた作品として、この『神のこどもたちはみな踊る』は、傑出していると思う。

だが、直接、震災の描写があるというのではない。どの作品にも、どこかで、ふと言及されるだけなのだが、どの作品においても、その震災があったことが、ストーリーの展開のうえでキーになるように書かれている。

震災のとき、この世に生きる人びとに何がおこったのか……それを、文学的に表現するとなると、このような表現の仕方もあるのか、そう感じさせる。これは、震災文学といってもいいだろう。(このように規定されることを、作者は、否定するかもしれないが。)

収録されている作品のなかで、一番印象にのこるのは、『かえるくん、東京を救う』である。なんとも奇妙な物語なのだが、読み始めて、その物語世界の中に入ってしまう自分に気付く。そして、読後、この作品が、震災を描いた作品に他ならないことを、あらためて感じる。

ともあれ、文学的想像力というものが、震災のようなできごとをどう描くことができるか、この点において、きわめてすぐれた文学的達成をはたしている。おそらく、村上春樹の長編では描くことのなかった世界がここにはある。

次は、『東京綺譚集』である。

追記 2019-06-15
この続きは、
やまもも書斎記 2019年6月15日
『東京綺譚集』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/15/9087095

『東京綺譚集』村上春樹2019-06-15

2019-06-15 當山日出夫(とうやまひでお)

東京綺譚集

村上春樹.『東京綺譚集』(新潮文庫).新潮社.2007 (新潮社.2005)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100156/

続きである。
やまもも書斎記
『神のこどもたちはみな踊る』 2019-06-14
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/14/9086543

これは、二十一世紀の日本文学の最高の作品ではないだろうか。

おさめてあるのは、何かしら奇妙な物語である。だが、怪異譚という類ではない。ちょっと不思議な話しである。そのちょっと変わった話しのなかに、読んでいて思わず引きずり込まれるような印象がある。

文学的感銘というのともちょっと違う。しかし、何か、心に残るものがある。たぶん、この日常の世界を、ちょっと視点をずらしてみたときにたちあらわれる別の顔、とでもいうことができるだろうか。

村上春樹は、長編作品においては、異界の物語を多く書いている。この作品には、異界というべきものは出てこない。しかし、今の世界が、ふとしたひょうしに反転して、ポジの世界がネガになる、それを経過したものとして、元のポジの世界が再構築される、このように言うこともできるかもしれない。

これまで、村上春樹の作品を、長編、短篇と読んで来て……この『東京綺譚集』において、その文学的達成の頂点にあると感じる。が、のこり『女のいな男たち』がある。これを続いて読むことにしよう。

追記 2019-06-17
この続きは、
やまもも書斎記 2019年6月17日
『女のいない男たち』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/17/9088040

『なつぞら』あれこれ「なつよ、アニメーターは君だ」2019-06-16

2019-06-16 當山日出夫(とうやまひでお)

『なつぞら』第11週「なつよ、アニメーターは君だ」
https://www.nhk.or.jp/natsuzora/story/11/

前回は、
やまもも書斎記 2019年6月9日
『なつぞら』あれこれ「なつよ、絵に命を与えよ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/09/9083230

なつやようやくアニメーターになることができた。

この週で描いていたのは、アニメーション映画『白蛇姫』の「メイキング」であったと思う。これから、なつが働くことになるであろうアニメーションの世界が、どのようにしてなりたっているのか……作業の分業、仕事の手順など……また、その当時におけるアンメーション映画とは、人びとの生活、歴史、社会のなかでどのような位置づけになるのか、このあたりのことを、描いていたように思う。

その『白蛇姫』は、『白蛇伝』をもとにしているようだ。私は『白蛇伝』を見た記憶がある。いったいどこでどのようにしてとなると、さっぱり憶えてはいないのだが。

出来上がった映画に、声を吹き込むシーンがあった。今でこそ、「声優」というのは、社会的に認識された存在になっている。だが、アニメーション映画の初期のころ、あるいは、外国のテレビドラマの日本語版の放送において、日本語の声を担当する「声優」は、そんなに知られた仕事ではなかった。

そういえば……昔は、アメリカ制のテレビドラマの日本語吹き替え版というのが多くあった。私の記憶しているところでは、『コンバット』がそうであり、それから、『奥様は魔女』などがあった。(これらは、ドラマの現在……昭和三〇年代はじめ……からすると、もう少し後のことになるはずだが。)

ところで、なつは、アニメーションの天才なのだろうか。まったく無能ということでもないようだが、際だった才能があるようでもない。が、若いなりに天性の何かがあるようである。そして、田舎娘である(東京に出てきて一年以上になるが、まだ北海道方言で話している)。また、人間的な成熟としては、未熟ということになる。まだ若いのである。

このあたり……才能があり、努力家であり、若い田舎娘であり……このあたりの微妙なところを、広瀬すずが、うまく演じているように思える。

次週、なつは本格的にアニメーション映画制作の現場で働くことになるらしい。また、妹の千遙のことがどうなるか、これも気になる。楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-06-23
この続きは、
やまもも書斎記 2019年6月23日
『なつぞら』あれこれ「なつよ、千遥のためにつくれ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/23/9090697

『女のいない男たち』村上春樹2019-06-17

2019-06-17 當山日出夫(とうやまひでお)

女のいない男たち

村上春樹.『女のいない男たち』(文春文庫).文藝春秋.2016 (文藝春秋.2014)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167907082

続きである。
やまもも書斎記
『東京綺譚集』村上春樹 2019年6月15日
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/15/9087095

村上春樹の作品、短編集としては、一番あたらしい作品ということになる。ここに、日本の文学の二一世紀の達成を見る……というのは、大げさではないと思う。それほどまでに、収録されている作品の完成度は高い。

特に私がいいと感じたのは「木野」。どうということのない物語の展開なのだが、読み始めて、村上春樹の小説世界にひたっていくことに気付く。おそらく、短編小説という形式でもって、一つの文学的世界を構築する、その究極の到達点のひとつであるように思える。

ここまで、ある日ふと思い立って、『1Q84』からスタートして、村上春樹の長編作品、それから、短篇作品を読んできた。普通に手にはいる文庫本で読めるものは、読み切っただろうか。読んで見て感じることは、村上春樹は、短篇小説がいいということ。世評としては、長編小説の方が話題になるようだが、文学的な密度の高さという点では、短編小説にその才を発揮している。類い希なる小説の書き手である。

おそらくは、小説という形式の文学で世界に通用する普遍性を獲得していると言っていいのだろう。村上春樹の小説には、よく音楽、特に、ジャズが登場する。ジャズもまた、その歴史をさかのぼればアメリカのローカルな音楽であったのかもしれない。しかし、今に残っている演奏……それは、LPレコードであったり、今ではCDになったりであるが……は、世界に通用する普遍性を獲得している。そのような演奏が残っている。

小説という文学の形式で、普遍的な何かを表現しうるとするならば、まさに村上春樹は、それを達成している。日本語という、世界の中で見ればローカルな言語で書かれた小説であるが、それは世界に通用する普遍的な何かとなり得ている。

ともあれ、文学を読む楽しみというようなものがあるとするならば、村上春樹の小説作品を読んでいくなかに、それはあると言えるだろう。私が、今年になってから読んだものであげるとするならば、『源氏物語』がある。村上春樹と『源氏物語』を同列に論じようとは思わないが、しかし、文学を読むことの楽しみとでも言うべきものにおいては、ともに共通するところがある。文学という芸術が、何かしらの普遍性にまで達しているとするならば、その点において、共通するところがある。

追記 2019-06-20
この続きは、
やまもも書斎記 2019年6月20日
『アンダーグラウンド』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/20/9089596

『いだてん』あれこれ「大地」2019-06-18

2019-06-18 當山日出夫(とうやまひでお)

『いだてん』2019年6月16日、第23回「大地」
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/023/

前回は、
やまもも書斎記 2019年6月11日
『いだてん』あれこれ「ヴィーナスの誕生」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/11/9084788

この回で描いていたのは、関東大震災。

脚本の宮藤官九郎は、以前、NHK朝ドラの『あまちゃん』(2013年)で、東日本大震災の被災を描いている。その宮藤官九郎とNHKが、関東大震災をどのように描くのか、ここのところが見どころであった。

『あまちゃん』では、ジオラマでもって、間接的な表現にとどめていた、被害(主に津波による)を表現してた。関東大震災は、地震と、それからその後におこった火災が、多大な被害をもたらすことになった(これは、歴史的に知られたことだろう)。この関東大震災を、『いだてん』では、かなりリアルな描写で描いていた。

四三も、また、志ん生(孝蔵)も、地震の被害にあう。だが、その震災への視線の向け方が、微妙にちがっている。四三の方では、被害にあった人びとの安否を気遣う心を描いていた。しかし、志ん生(孝蔵)の方は、どこか冷めた目で震災の様子を見ていたように思える。所詮、この世の無常とはこのようなものかと、達観したようなところを感じさせた。そして、酒に酔っている。刹那的であり、虚無的でもある。

四三の視点において微視的に、一方で、志ん生(孝蔵)の視点において巨視的に、震災を見ることによって、その災害と人びとの心のあり方をダイナミックに表現することに成功していたと言っていいのではないだろうか。

複数の視点を導入することで、関東大震災を、リアルに、かつ、俯瞰的に描いていたと言うことができるだろう。

ところで、見ていてちょっと気になったこと。震災の後、様々な流言飛語がとびかって、自警団が組織されるに到ったことは、歴史的な知識であろう。ここまではいいとしても、その描写のなかで「朝鮮人」ということばをドラマではつかっていなかった。ここのところは、かなり配慮した表現になっていると感じた。

それから、このところにきて、五りん(晩年の志ん生の弟子)の生いたちが、持っていた写真によって語られていた。「フィクション」としての『いだてん』というドラマにおいて可能になったポイントであろう。

次回は、震災のその後を描くことになるようだ。楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-06-25
この続きは、
やまもも書斎記 2019年6月25日
『いだてん』あれこれ「種まく人」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/25/9091499

ノイバラ2019-06-19

2019-06-19 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日は花の写真。今日は、ノイバラ「野茨」である。

前回は、
やまもも書斎記 2019年6月12日
セイヨウイボタノキ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/12/9085304

ノイバラ「野茨」の花を、我が家の近辺の何ヶ所かに見ることができる。五ヶ所ほど確認しているだろうか。

日本国語大辞典(ジャパンナレッジ)を見る。

バラ科の落葉低木。各地の原野、河原などに生える。高さ一~二メートル。枝は細くややつる状で曲がった鋭い刺を散生する。

とあり、さらに説明がある。用例は、訓蒙図彙(1666)、大和本草(1709)などに見える。近世から、「のいばら」の語があったようだ。ただ、『言海』にはのっていない。

この木の花は、写真に撮るのが難しい。まず、きれいに花が開いているものが少ない。何かしら形がいびつであったりする。白いきれいな花びらがそろっているものは希である。それに、少しの風にもゆらぐ。

家の近くのノイバラの咲いているところに、朝早く何度か足をはこんだ。夜が明けてすぐ、まだ、風の吹かない時期をみはからってである。また、散歩の時などカメラを持って行って写したものものある。これは、可能な限り早いシャッターで撮影している。

この木には実がなる。去年ふと見かけてノイバラかなと思って見ていたのだが、今ひとつ自信がなかった。今年、花の咲いているのを確認して、ノイバラだと認定できた。この花の実についても、これから、目についた折りなど、写真に撮っておきたいと思う。

ノイバラ

ノイバラ

ノイバラ

ノイバラ

ノイバラ

ノイバラ

ノイバラ

ノイバラ

Nikon D500
AF-S VR Micro-Nikkor 105mm f/2.8G IF-ED
AF-S DX Micro NIKKOR 85mm f/3.5G ED VR

追記 2019-06-26
この続きは、
やまもも書斎記 2019年6月26日
青もみじ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/26/9091857

『アンダーグラウンド』村上春樹2019-06-20

2019-06-20 當山日出夫(とうやまひでお)

アンダーグラウンド

村上春樹.『アンダーグラウンド』(講談社文庫).講談社.1999 (講談社.1997)
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000198082

続きである。
やまもも書斎記 『女のいない男たち』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/17/9088040

主な小説(長編、短編)を読み終わったので、「ノンフィクション」である、この作品を読むことにした。文庫本とはいえ、八〇〇ページに近い大冊である。しかも、基本的に二段組みになっている。読むのに、ちょっと時間がかかった。

しかし、この本は、読む価値がある。一つには、村上春樹という作家を理解するためにであり、さらには、地下鉄サリン事件について考えるために、である。

事件がおこったのは、一九九五年三月二〇日のこと。その年の一月には、神戸の震災があった。この一連のできごとは、私自身の生活には直接の影響はなかったことなのであるが、だが、これらの出来事を境にして、この世の中が変わってしまった、あるいは世の中に対する見方が変わってしまった、そのように感じるところがある。

村上春樹の作品の系譜からいえば、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ノルウェイの森』『ダンス・ダンス・ダンス』そして『ねじまき鳥クロニクル』、これらの長編小説を経てのちに、この『アンダーグラウンド』を書いていることになる。

この本の最後に「目じるしのない悪夢」を読んで、私なりに理解したところで書くならば……地下鉄サリン事件を、こちら側(つまり、犯人の側ではない、被害者の側、一般市民の側)の視点にたって、どのような「物語」として構築していくことになるのか、それを問いかけた仕事ということになるのであろう。これは、(村上春樹はこのことばをつかっていないが)文学的想像力にかかわることである。

たしかに事件はすでに起こった過去のことであり(この『アンダーグラウンド』が書かれた時点からして)、また、今この文章を私が書いている時点(二〇一九年)においては、その司法的な手続きが終了している。死刑は執行された。

だからといって、地下鉄サリン事件をどのような「物語」として語り続けていくべきなのか、ということについて課題が終了したことではない。いや、一連の司法手続きが終わってしまった今日であるからこそ、さらに、さかのぼって、われわれの「物語」としてこの事件をどう語っていくのか……無論、その視点の置き方は多様にあるべきであるが……大きな課題とすべきであろう。

村上春樹の文学を理解するうえで言うならば、「物語」を構築していくこと……文学的想像力……において、どの視点をとっているのか、そこのところを確認することにつながる。そして、それは、そうと明確に書かれているわけではないが、『騎士団長殺し』における「鎮魂」のあり方につながっていくものにちがいない。

震災という、あるいは、地下鉄サリン事件という、圧倒的な悲劇性をおびた事実の前に、文学的想像力がなにをなしうるのか、それは、村上春樹の作品を読む読者における問題であると、私は理解している。

追記 2019-06-21
この続きは、
やまもも書斎記 2019年6月21日
『アンダーグラウンド』村上春樹(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/21/9089927