『村上春樹を読みつくす』小山鉄郎2019-07-01

2019-07-01 當山日出夫(とうやまひでお)

村上春樹を読みつくす

小山鉄郎.『村上春樹を読みつくす』(講談社現代新書).講談社.2010
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000210557

続きである。
やまもも書斎記 2019年6月29日
『村上春樹は、むずかしい』加藤典洋
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/29/9092980

著者(小山鉄郎)は、共同通信の記者。それが、二〇〇八年から、「風の歌 村上春樹の物語世界」と題して、地方紙に連載した。この本は、それを基本にまとめたものである。

文芸評論、文学研究という立場からのものではなく、通信社記者として、新聞の読者に村上春樹の作品を紹介するという立場が、基本にある。また、この連載を書くにあたって、村上春樹にも直接インタビューなどしている。

この本の読みどころは、次の二点だろうか。

第一には、村上春樹文学が、広く社会に受け入れられていることの分析。いやそうではなく、そのように分析可能なものとして、村上春樹の作品が書かれていることを確認できると言ったほうがいいだろうか。

この本では、村上春樹の作品……『1Q84』までになるのだが……を対象にして、様々な解釈を提示している。異界は無論のこと、中国であり、ベトナム戦争であり、学生運動であり、音楽であり……およそ村上春樹の作品を論じるにあたって、キーとなりそうな概念や物事について、多彩な蘊蓄を披露してくれている。

これは、実に読んでいて楽しい。これまで、この本で取り上げられている村上春樹の作品(長編、短篇)を読んだ後で、この本を読むと、なるほど、あの作品のあの箇所は、こんなふうに解釈できるのか、と思わず納得するところが多くある。(ただ、部分的には、ちょっと牽強付会かなという気がしないでもないが。)

第二には、この本を書くにあたって、通信社の記者として村上春樹にインタビューしている、そのときの村上春樹のことばが、書きとどめられていることである。これは、おそらく、今後の村上春樹研究において貴重な証言になるにちがいない。

まあ、作者自身が、自分の作品のことについてどう言っているかは、テクスト論の立場からは、いろいろ意見があるかもしれないが。

以上の二点が、この本を読んで感じるところである。

新聞記事ということで書かれた本である。文学研究として書かれたものではない。この意味では気楽に読んでいい本だと思う。しかし、何故、村上春樹の作品が、このように広く世界の人びとに受容されているのか、ということを考えるには、いろんなヒントを提供してくれる本だと思う。

追記 2019-07-04
この続きは、
やまもも書斎記 2019年7月4日
『世界は村上春樹をどう読むか』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/04/9111158

『いだてん』あれこれ「時代は変る』2019-07-02

2019-07-02 當山日出夫(とうやまひでお)

『いだてん』2019年6月30日、第25回「時代は変る」
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/025/

前回は、
やまもも書斎記 2019年6月25日
『いだてん』あれこれ「種まく人」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/25/9091499

今回から、第二部である。見ていて感じることは、なんだかんだとてんこもりにして、ドタバタとスピード感で、一気に見せてしまったというところであろうか。

第二部は、田畑政治が主人公である。一般には、名前が知られていない。だからこそであろうか、かなり自由に、田畑政治とその周辺の人物を描いていたように思える。ただ、時代考証としては、大正から昭和にかけての流れをふまえたものにはなっていたようだが。

たとえば、元号の「光文」事件。今では、毎日新聞の誤報ということになっているが、このあたりのことも、田畑政治の周囲のエピソードとして、たくみにおりこんであった。

また、前編の金栗四三の時からの話しの流れも、伏線を回収してあって、脚本のうまさを感じさせた。特に、浜松での田畑政治と志ん生のかかわりが、ここに出てきていた。

ところで、この回を見ていて思ったことであるが、三浦梧楼が出てきていた。普通の日本の歴史で、三浦梧楼の名前が登場するとするならば、閔妃暗殺事件においてであろう。無論、ドラマでは、そのようなことは一切触れていなかった。大物政治家という立場であった。

オリンピックと金の問題、これも、まさに来年の2020東京オリンピックにおいて大きな問題となっていることだが、ここは、高橋是清の英断ということで決着させていた。関東大震災から、昭和初期の不況の時代である。この時代に、オリンピックに参加することの意義を、(前編の四三の時から登場している)嘉納治五郎が語っていたのが印象深い。

このドラマ、後半においては、水泳が中心になるようだ。オリンピックの水泳といえば、「前畑、がんばれ」であり、古橋廣之進を思い浮かべる。だが、ここに代表されるような、かつて世界で水泳のトップであった日本の、その後の凋落が、1964年の東京オリンピックでもあったのだが。

志ん生については、落語(火焔太鼓)と、ドラマの展開を、おりまぜて描いて見せていた。このあたりの作り方は、前編にも見られたことであるが、なかなかうまいと感じさせた。

これから、人見絹枝の活躍があり、また、「民族の祭典」になるはずである。このあたりをどう描くか、楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-07-09
この続きは、
やまもも書斎記 2018年7月9日
『いだてん』あれこれ「明日なき暴走」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/09/9124847

ナンテンの花2019-07-03

2019-07-03 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので花の写真。今日はナンテン「南天」の花である。

前回は、
やまもも書斎記 2019年6月26日
青もみじ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/26/9091857

ナンテン「南天」の花は、去年も写している。

やまもも書斎記 2018年8月9日
ナンテンの花
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/09/8937389

例年、六月ごろ、初夏のころに白い花をつける。今年も、もう、この花は終わってしまっている。説明は、去年のブログに書いたので、くりかえさない。

写真に撮ろうと思うと、意外とむずかしい花である。とにかく小さいので、マクロレンズでおもいっきり大きく写しても、DX(APS-C)サイズで、どうにかおさまるかどうか、ということになる。また、花がいろんな方向に向かって咲くので、どの花に焦点をあわせるか、構図でこまることになる。それに、ナンテンの木の枝は、少しの風にもゆらぐ。風の吹かないときをねらってみるのだが、天気がよくて、風があまり無いときというのは、なかなかないものである。

今年は、105ミリのマイクロで可能な限り寄って写してみることにした。写真に撮ってディスプレイで大きな画像を見て、ようやく花の形状に納得がいくといったところである。それほどまでに実物の花は小さい。

これから、この花の後に青い実ができる。それが赤くなると冬である。ナンテンの木を見ていると季節の移り変わりを感じる。

ナンテンの花

ナンテンの花

ナンテンの花

ナンテンの花

ナンテンの花

ナンテンの花

Nikon D500
AF-S VR Micro-Nikkor 105mm f/2.8G IF-ED

追記 2019-07-10
この続きは、
やまもも書斎記 2019年7月10日
雨のしずく
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/10/9126697

『世界は村上春樹をどう読むか』2019-07-04

2019-07-04 當山日出夫(とうやまひでお)

世界は村上春樹をどう読むか

国際交流基金(企画)、柴田元幸・沼野充義・藤井省三・四方田犬彦(編).『世界は村上春樹をどう読むか』(文春文庫).文藝春秋.2009 (文藝春秋.2006)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167753894

続きである。
やまもも書斎記 2019年7月1日
『村上春樹を読みつくす』小山鉄郎
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/01/9110038

2006年におこなわれた、村上春樹をめぐる国際シンポジウム、ワークショップを書籍化したものである。参加者は、主に、世界各国の村上春樹の作品の翻訳者である。2006年の開催であるから、その時点における最新の作品というと『海辺のカフカ』ということになる。

この本から、いろいろなことを読みとることができよう。二つばかりあげておく。

第一には、村上春樹が世界中で読まれていることの確認である。今、村上春樹ほど世界中に翻訳され、そして、ベストセラーになっている作家は他にいないようだ。このことは、日本のなかにいて読んでいるだけではわからない。むしろ、外国に出かけて行って、現地の書店などを見ることによってはっきりわかるものである。

第二には、村上春樹の作品が読まれている理由として、「日本的」か、そうでないか……このような問いかけが無意味な状況にあることである。谷崎潤一郎や川端康成などは、きわめて「日本的」な作家として外国で読まれている(これは、納得できることである)。だが、村上春樹の人気において、「日本的」ということは、さほど意味がないように感じられる。しかし、同時に、村上春樹の作品は、まごうことなき日本の文学として読まれている。

以上の二点ぐらいが、この本を通して理解されることだろうか。

他に私の興味、関心をひいたところとしては、登壇した各国の翻訳者に、その翻訳本の装丁について語ってもらっているところ。私が外国の文学の翻訳を読むとき、原書がどのような装丁で出版されていたものなのか、あまり気にすることがなかった。日本においては、主に出版社がそれを決めてしまうもののようだ。

海外ミステリは、読むことが多いのだが、その場合、東京創元社とか早川書房とかの、編集の方で装丁が決まる。場合によっては、日本語のタイトルも、(原題とは異なって)出版社の判断でつけることがある。

また、ことばの研究者のはしくれにいるものとしては、「翻訳」の問題について、かなり興味深い指摘がいろんなところにあった。ただ、村上春樹自身は、自分の作品の「翻訳」ということについては、かなりおおらかな態度で臨んでいるらしい。

村柿春樹の文章(日本語)は、非常に分かりやすい。しかし、読んでいると、このままでは外国語に訳すのは難しいのではないだろうか、と感じるところがあったりもする。しかし、そのようなところは、各国の翻訳者が、それなりの工夫をして翻訳をしている、その手のうちのようなものが、紹介されていて、このあたりは、非常に興味深く読んだところである。

ともあれ、村上春樹が、世界的に読まれるようになったのは、おおむねベルリンの壁の崩壊に象徴される世界の激変の後である。それをはさんで、喪失感、虚脱感というべき感覚がひろがる。これを、私なりにいえば、分かりやすかった大きな物語の終焉である。そして、そこにぴったりと合わさってきたのが、村上春樹の文学であったということなのだろう。その村上春樹の文学作品は、異界、影、夢、鏡……といった、文化人類学、民俗学などにおいて、普遍的に、より根源的に語られることの多い記号(私は、このことばを使うのはあまり好きではないのだが)で、より大きく深い人間の物語を提示している、このように理解している。(とりあえず、今のところの私の村上春樹理解はこんなところである。)

さて、次は村上春樹の翻訳を読むことにする。まずは、『ロング・グッドバイ』である。

追記 2019-07-05
この続きは、
やまもも書斎記 2019年7月5日
『ロング・グッドバイ』村上春樹訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/05/9111495

『ロング・グッドバイ』村上春樹訳2019-07-05

2019-07-05 當山日出夫(とうやまひでお)

ロング・グッドバイ

レイモンド・チャンドラー.村上春樹(訳).『ロング・グッドバイ』(ハヤカワ・ミステリ文庫).早川書房.2010 (早川書房.2007)
http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/40711.html

続きである。
やまもも書斎記 2019年7月4日
『世界は村上春樹をどう読むか』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/04/9111158

村上春樹の小説(長編、短編)を読んで、それから、村上春樹について書かれたものをいくつか読んで、その次に読むことにしたのが翻訳である。

村上春樹は、小説家であると同時に翻訳家……主にアメリカ現代文学についてということになるのだろうが……である。その代表的作品として、まずは、『ロング・グッドバイ』を読んだ。

この作品、『長いお別れ』のタイトルで、清水俊二訳で、同じ早川書房で文庫で出ている。今でも、こちらの訳も売っている。この古い訳の方は、昔に読んだだろうか、もう忘れてしまっている。若い頃、手当たり次第に、早川書房や東京創元社のミステリを読みあさっていたことがある。

今回は、村上春樹の訳ということを、意識しながら読んだ。

読んで感じるところは、次の二点であろうか。

第一に、無駄のないそぎ落とした視点の設定。いわゆるハードボイルドである。一人称「私」の視点から、すべてが描写される。西欧近代文学において獲得したといっていいであろう「神の視点」からは描かれていない。あくまでも「私」の目で見て感じるところが描写してある。この意味では、まことにシャープなするどい描写であるといってよいだろう。

第二に、これは、上述のこととは矛盾するようなことかもしれないが、その一方で、微に入り細をうがった描写の饒舌さである。「私」の視点から描いている。その「私」が、途中でストーリーの横道に入っていくところでも、実にきめ細やかな描写が見られる。

以上の二点が読みながら思ったところである。これは、この本の、「訳者あとがき 準古典小説としての『ロング・グッドバイ』」において、村上春樹自身が書いて指摘しているところでもある。

このようなこと、村上春樹の小説と読み比べるような意識をもちながら読んだのであるが、それよりも何よりも、この作品は、ミステリとして一級の作品である。まず、このことを言っておかなければならないだろう。(ここでいうミステリの完成度というのは、読み終わったときに感じる読後感としてである。)

そして、ミステリとしての『ロング・グッドバイ』(あるいは『長いお別れ』)を、日本において継承したことになるのが、原寮である。チャンドラーから、村上春樹へとつながる文学の系譜を考えることができる。と同時に、原寮につながるミステリの流れもある。

このようなことを、読み終えて思ってみる。この『ロング・グッドバイ』は、今の時代においては、村上春樹の言うとおり、「古典」と言っていいだろう。他の村上春樹の翻訳を読んでいくとして、また、後でもどって読み返したい作品である。

次に読もうと思っているのは、『グレート・ギャツビー』である。

追記 2019-07-06
この続きは、
やまもも書斎記 2019年7月6日
『グレート・ギャツビー』村上春樹訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/06/9111813

追記 2019-07-13
やまもも書斎記 2019年7月13日
『さよなら、愛しい人』村上春樹訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/13/9127906

『グレート・ギャツビー』村上春樹訳2019-07-06

2019-07-06 當山日出夫(とうやまひでお)

グレート・ギャツビー

スコット・フィッツジェラルド.村上春樹(訳).『グレート・ギャツビー』(村上春樹 翻訳ライブラリー).中央公論新社.2006
http://www.chuko.co.jp/tanko/2006/11/403504.html

続きである。
やまもも書斎記 2019年7月5日
『ロング・グッドバイ』村上春樹訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/05/9111495

以前にとりあげた、内田樹の『もういちど村上春樹にご用心』のなかに次のようなことが書いてある。それは……本には二種類ある、ということである。

「教養主義的読書というのは、とにかく、「冊数をこなす」ということが主要な目的であるので、「ちびちびと舐めるように読む」というようなことはふつう起こらない。(中略)/いつのまにか「とにかく一刻も早く読み終える」ために読む本と、「できるだけ読み終わらずにずるずるとその世界にとどまっていたい」本の世界の書物が二分された。」(pp.64-65)

このような観点において、『グレート・ギャツビー』は、冊数をこなすために読む本ではない。今の私にはそうである。

若いころ、とにかく冊数をこなすために手当たり次第に読んでいったなかに、たしかこの本もあった……『華麗なるギャツビー』のタイトルだったろうか……が、今では、もう忘れてしまっている本である。だが、村上春樹の小説を、長編、短編と読んで来て、次に翻訳を読もうとして、この本を手にした。この本は、なるべくゆっくりと、その作品世界のなかにひたっていたい本である。

この翻訳の巻末には、「翻訳者として、小説家として――訳者あとがき」がある。そこには、村上春樹が影響をうけた文学作品として、この『グレート・ギャツビー』のほかに、『カラマーゾフの兄弟』と『ロング・グッドバイ』があるとしてある。そして、強いてさらに一冊をえらぶとすれば『グレート・ギャツビー』であるともある。この意味において、村上春樹の文学を理解するうえで、必須の小説ということになるだろう。

ただ、このようなことを抜きにして読んでも、面白い。いや、面白いというのとはちょっと違う。波瀾万丈の大活劇の作品ではない。二〇世紀初頭のアメリカ東海岸における一夏のできごとを、基本的に、語り手の目からつづった作品である。そこにあるのは、ある時代の、土地の、人びとの、なんともいえない雰囲気、としかいいようのないものを感じる。

アメリカにもこんな時代を描いた、こんな文学があったのか、というのが正直な感想でもある。この作品は、『ロング・グッドバイ』に続けて読んだ。翻訳者としての村上春樹の仕事を、「舐めるように」読んでいきたいと思う。特にこの作品は、再読、再々読としておきたい作品である。

追記 2019-07-11
この続きは、
やまもも書斎記 2019年7月11日
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』村上春樹訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/11/9127150

『なつぞら』あれこれ「なつよ、十勝さ戻って来い」2019-07-07

2019-07-07 當山日出夫(とうやまひでお)

『なつぞら』第14週「なつよ、十勝さ戻って来い」
https://www.nhk.or.jp/natsuzora/story/14/

前回は、
やまもも書斎記 2019年6月30日
『なつぞら』あれこれ「なつよ、『雪月』が大ピンチ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/30/9097465

この週は妹の千遥のことが描かれていた。遂になつと千遥は会わずに終わってしまった。

北海道の柴田家にあらわれた少女は、千遥だった。幼いときに家出して後、今は、置屋のお酌をしているという。一人前になるまえの芸者である。その千遥に縁談がある。その縁談をうけるためには、かつての自分の過去……戦災孤児であったこと……を精算しなければならない。知らせを聞いたなつと咲太郎は、北海道にかけつけるが、その前に千遥はすがたを消してしまっていた。

さて、このあたりの描き方をどう見るか、いろいろと意見のあるところだろうと思う。兄(咲太郎)や姉(なつ)に会わずに立ち去った千遥の判断は、ただしかったのだろうか。たぶん、これは、これでよかったということになるのだろうと思う。

確かに一面では残念な展開ではあった。しかし、もし、なつや咲太郎と会ったとして、それでどうなるというものでもないのかもしれない。いや、今ある縁談のことを考えるならば、むしろ、会わずにすませた方がお互いによかったのかもしれない。少なくとも、兄弟姉妹の三人が、それぞれ無事にいること、そして、幸せに暮らしていることが、お互いに確認できることになったのであるから。

一見すると酷なストーリーの展開のようだが、それぞれの生活のことを考えると、いい決着のつけかたであったのかと思う。

だが、千遥は、もうこのままドラマから退場ということなのだろうか。千遥は、清原果耶であった。配役として絶妙である。生き別れた兄や姉に会いたい、しかし、自分の立場も考える、その複雑な心境をうまく表現していた。できれば、このドラマの進行とともに、もう一度、千遥が出てきてほしいと思う。そして、できれば、三人がそれぞれに幸せに暮らす姿を見たいものである。(朝ドラである。不幸になる人間があってはならないと思う。)

次週は、アニメーションの世界のことに話しがもどるようだ。楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-07-14
この続きは、
やまもも書斎記 2019年7月14日
『なつぞら』あれこれ「なつよ、ワクワクが止まらない」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/14/9128322

『おしん』あれこれ(その五)2019-07-08

2019-07-08 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2019年6月8日
『おしん』あれこれ(その四)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/08/9082632

『おしん』という物語は、おしんという女性の苦労の物語……そのように理解することもできるだろう。一般的な理解としてはそうかもしれない。

だが、東京に出て、ひとりではたらいて生活するおしん、そして、竜三と結婚することになるおしん、このあたりのところを見ていると、ただ苦労の物語だけではないように思えてくる。イエから自立した近代的な女性としての姿がそこにはあるのではないだろうか。

幼いときのおしんは奉公にだされる。何のためか、それはイエのためにである。谷村のイエは、小作農とはいえ、ひとつのイエである。そのイエの維持のために、おしんは奉公に出る。

東京に出たおしんは、髪結いとして、手に職をつけて自立する。だれの支援もうけていない。自分の腕ひとつでかせいでいる。また、警察の取り調べをうけることがあっても、自分に非はないと毅然としている。

とはいえ、まだ完全に自立しているとはいえない。故郷のイエの普請のための仕送りをしなければならない。が、これも、仕送りを終えてしまえば、後は自由であるともいえよう。そのようなときに、竜三とめぐりあうことになる。故郷のイエの束縛を意識したとき……それを象徴しているのが、父親(伊東四朗)であろう……そこから飛躍してより自由になろうとする。父親が東京に出てきて、金の無心をしたとき、おしんは竜三と結婚することを決意する。これは、まさに、故郷のイエとの決別を意味している。

その父も、また、故郷のイエにしばられた生涯であったともいえる。兄も、また、小作とはいえイエとともに生きていかざるをえない。

その先の展開をすでに知っている(以前の再放送で見ている)こととしては、さらに、新たなイエ……佐賀の田倉のイエ……との壮絶な確執がおこることになるのだが。それでも、最終的に、おしんはイエから自由になる。

イエから自由になったおしんが、手にいれたものは、家族であるのかもしれない。だが、おしんの家族の物語としてドラマが展開するようになるのは、さらに先のことになる。あるいは、このドラマの現在(乙羽信子)と孫の圭(大橋吾郎)との関係は、まさに家族ならではの関係といえるかもしれない。

『おしん』というのは、近代における女性の自立のドラマとして見ることができるだろうか。

なお、テレビを見ていてちょっと気になったこと……竜三と結婚することになったおしんは、祝言をあげるということで、二人で神社に参拝する。このとき、現在の神社の参拝の作法である、二礼二拍一礼という形式をとっていなかった。このような神社の参拝の形式が定まったのは、近代になってからのこと。それまでは、かなり自由であった。(このことについては、以前に書いたことがある)。近代になってからの形式が一度成立して、その後、戦後になって忘れられて、そして、今現在、二十一世紀になってから、それが再び復活している。『おしん』のドラマが放送されたとき(1983年)、それは私の学生のころになるが、神社の参拝の作法はかなり自由であったのを憶えている。

神社の参拝のあり方は、まさに近代にになって作った伝統である。それが一度おとろえて、さらに再度復活してきているのが、今現在の姿であるのかと思う。

前近代の神社の参拝については、
やまもも書斎記 2016年6月28日
島田裕巳『「日本人の神」入門』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/06/28/8120002

追記 2019-08-24
この続きは、
やまももも書斎記 2019年8月24日
『おしん』あれれこ(その六)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/08/24/9144778

『いだてん』あれこれ「明日なき暴走」2019-07-09

2019-07-09 當山日出夫(とうやまひでお)

『いだてん』2019年7月7日、第26回「明日なき暴走」
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/026/

前回は、
やまもも書斎記 2019年7月2日
『いだてん』あれこれ「時代は変る』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/02/9110454

この回は、人見絹枝を描いていた。

見ていて思ったことなど書けば、次の二点になるだろうか。

第一に、やはり人見絹枝である。

オリンピックに出場するということだけで、国家を背負っているというプレッシャーがある。それに加えて、女性である。女性として初めて出場することになる。その意味で、二重のプレッシャーのなかに人見絹枝がいたことになる。

ドラマでは、この人見絹枝を、鮮やかに描いていたと思う。その当時、人見絹枝という人は、社会から、そう高く評価されることはなかったようだ。いや、むしろ、女だてらに、ということで批難の目で見られていたといっていいかもしれない。だが、それをも跳ね返す、女子スポーツの黎明を切り拓いた人間として、魅力的に描いていたように思う。

今でこそ、女子スポーツというのは、社会的に認められている。だが、それも、人見絹枝のような先駆者の苦労があってのことである。その生涯は短いものであったのだが、充実したものとしてあった……少なくとも、ドラマではそのように描いていた。

第二に、オリンピックと政治である。

ドラマの冒頭で、田畑政治と高橋是清との会話が印象的であった。スポーツと政治は無縁であるべきなのか、政治はスポーツを利用するべきなのであるか。その答えは、今にいたるまで出ていないといっていいかもしれない。

だが、その後のオリンピックの歴史のなかで、ベルリンの「民族の祭典」は、スポーツを政治のプロパガンダとして利用した典型ということになる。そのなかに、前畑秀子もいたことになる。

以上の二点が、見ていた思ったことなどである。

さらに付け加えるならば、スポーツと政治、参加すること意義、メダル獲得至上主義……これら、オリンピックをめぐる問題について、風刺のきいたドラマになっていると思う。近代におけるスポーツの存在とは何か、問いかけるところがあると感じる。

また、どうでもいいことかもしれないが……シベリアが大河ドラマに登場したのははじめてかもしれない。それをおいしそうにたべる人見絹枝が、印象に残っている。

次回は、いよいよ前畑秀子の本格的な登場ということになるようだ。楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-07-16
この続きは、
やまもも書斎記 2019年7月16日
『いだてん』あれこれ「替り目」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/16/9129176

雨のしずく2019-07-10

2019-07-10 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので花の写真。だが、今日は花ではなく、木の葉のしずくの写真である。

前回は、
やまもも書斎記 2019年7月3日
ナンテンの花
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/03/9110792

今年は、梅雨入りが遅かった。が、このところ雨の日が多い。雨の日ならではの写真として、庭に出て、植木などの木の葉のしずくを写真にとってみた。

このような写真をとるのは、ちょっとむずかしい。雨が降っていてもいけないし、晴れてしまってもいけない。雨が降ってやんだ直後の時間を見計らって庭に、カメラと三脚を持って出る。写すときも、風のないときを選ばないといけない。ギリギリの接写である、ちょっとした風でも木の葉がゆらぐ。

写したの、イヌマキ、コウヤマキ、それから、イロハモミジ、など我が家の庭にある植木である。雨の日には、また、雨の日なりの写真の楽しみがある。

雨のしずく

雨のしずく

雨のしずく

雨のしずく

雨のしずく

雨のしずく

Nikon D500
AF-S VR Micro-Nikkor 105mm f/2.8G IF-ED

追記 2019-07-17
この続きは、
やまもも書斎記 2019年7月17日
ムラサキシキブ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/17/9129575