『ロング・グッドバイ』村上春樹訳2019-07-05

2019-07-05 當山日出夫(とうやまひでお)

ロング・グッドバイ

レイモンド・チャンドラー.村上春樹(訳).『ロング・グッドバイ』(ハヤカワ・ミステリ文庫).早川書房.2010 (早川書房.2007)
http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/40711.html

続きである。
やまもも書斎記 2019年7月4日
『世界は村上春樹をどう読むか』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/04/9111158

村上春樹の小説(長編、短編)を読んで、それから、村上春樹について書かれたものをいくつか読んで、その次に読むことにしたのが翻訳である。

村上春樹は、小説家であると同時に翻訳家……主にアメリカ現代文学についてということになるのだろうが……である。その代表的作品として、まずは、『ロング・グッドバイ』を読んだ。

この作品、『長いお別れ』のタイトルで、清水俊二訳で、同じ早川書房で文庫で出ている。今でも、こちらの訳も売っている。この古い訳の方は、昔に読んだだろうか、もう忘れてしまっている。若い頃、手当たり次第に、早川書房や東京創元社のミステリを読みあさっていたことがある。

今回は、村上春樹の訳ということを、意識しながら読んだ。

読んで感じるところは、次の二点であろうか。

第一に、無駄のないそぎ落とした視点の設定。いわゆるハードボイルドである。一人称「私」の視点から、すべてが描写される。西欧近代文学において獲得したといっていいであろう「神の視点」からは描かれていない。あくまでも「私」の目で見て感じるところが描写してある。この意味では、まことにシャープなするどい描写であるといってよいだろう。

第二に、これは、上述のこととは矛盾するようなことかもしれないが、その一方で、微に入り細をうがった描写の饒舌さである。「私」の視点から描いている。その「私」が、途中でストーリーの横道に入っていくところでも、実にきめ細やかな描写が見られる。

以上の二点が読みながら思ったところである。これは、この本の、「訳者あとがき 準古典小説としての『ロング・グッドバイ』」において、村上春樹自身が書いて指摘しているところでもある。

このようなこと、村上春樹の小説と読み比べるような意識をもちながら読んだのであるが、それよりも何よりも、この作品は、ミステリとして一級の作品である。まず、このことを言っておかなければならないだろう。(ここでいうミステリの完成度というのは、読み終わったときに感じる読後感としてである。)

そして、ミステリとしての『ロング・グッドバイ』(あるいは『長いお別れ』)を、日本において継承したことになるのが、原寮である。チャンドラーから、村上春樹へとつながる文学の系譜を考えることができる。と同時に、原寮につながるミステリの流れもある。

このようなことを、読み終えて思ってみる。この『ロング・グッドバイ』は、今の時代においては、村上春樹の言うとおり、「古典」と言っていいだろう。他の村上春樹の翻訳を読んでいくとして、また、後でもどって読み返したい作品である。

次に読もうと思っているのは、『グレート・ギャツビー』である。

追記 2019-07-06
この続きは、
やまもも書斎記 2019年7月6日
『グレート・ギャツビー』村上春樹訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/06/9111813

追記 2019-07-13
やまもも書斎記 2019年7月13日
『さよなら、愛しい人』村上春樹訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/13/9127906

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