『グレート・ギャツビー』村上春樹訳2019-07-06

2019-07-06 當山日出夫(とうやまひでお)

グレート・ギャツビー

スコット・フィッツジェラルド.村上春樹(訳).『グレート・ギャツビー』(村上春樹 翻訳ライブラリー).中央公論新社.2006
http://www.chuko.co.jp/tanko/2006/11/403504.html

続きである。
やまもも書斎記 2019年7月5日
『ロング・グッドバイ』村上春樹訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/05/9111495

以前にとりあげた、内田樹の『もういちど村上春樹にご用心』のなかに次のようなことが書いてある。それは……本には二種類ある、ということである。

「教養主義的読書というのは、とにかく、「冊数をこなす」ということが主要な目的であるので、「ちびちびと舐めるように読む」というようなことはふつう起こらない。(中略)/いつのまにか「とにかく一刻も早く読み終える」ために読む本と、「できるだけ読み終わらずにずるずるとその世界にとどまっていたい」本の世界の書物が二分された。」(pp.64-65)

このような観点において、『グレート・ギャツビー』は、冊数をこなすために読む本ではない。今の私にはそうである。

若いころ、とにかく冊数をこなすために手当たり次第に読んでいったなかに、たしかこの本もあった……『華麗なるギャツビー』のタイトルだったろうか……が、今では、もう忘れてしまっている本である。だが、村上春樹の小説を、長編、短編と読んで来て、次に翻訳を読もうとして、この本を手にした。この本は、なるべくゆっくりと、その作品世界のなかにひたっていたい本である。

この翻訳の巻末には、「翻訳者として、小説家として――訳者あとがき」がある。そこには、村上春樹が影響をうけた文学作品として、この『グレート・ギャツビー』のほかに、『カラマーゾフの兄弟』と『ロング・グッドバイ』があるとしてある。そして、強いてさらに一冊をえらぶとすれば『グレート・ギャツビー』であるともある。この意味において、村上春樹の文学を理解するうえで、必須の小説ということになるだろう。

ただ、このようなことを抜きにして読んでも、面白い。いや、面白いというのとはちょっと違う。波瀾万丈の大活劇の作品ではない。二〇世紀初頭のアメリカ東海岸における一夏のできごとを、基本的に、語り手の目からつづった作品である。そこにあるのは、ある時代の、土地の、人びとの、なんともいえない雰囲気、としかいいようのないものを感じる。

アメリカにもこんな時代を描いた、こんな文学があったのか、というのが正直な感想でもある。この作品は、『ロング・グッドバイ』に続けて読んだ。翻訳者としての村上春樹の仕事を、「舐めるように」読んでいきたいと思う。特にこの作品は、再読、再々読としておきたい作品である。

追記 2019-07-11
この続きは、
やまもも書斎記 2019年7月11日
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』村上春樹訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/11/9127150

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