ちくま日本文学「堀辰雄」 ― 2019-08-15
2019-08-15 當山日出夫(とうやまひでお)
堀辰雄.『堀辰雄』(ちくま日本文学「堀辰雄」).筑摩書房.2009
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480425690/
続きである。
やまもも書斎記 2019年8月12日
『菜穂子』堀辰雄
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/08/12/9140039
『風立ちぬ』を読もうと思って買った本である。
やまもも書斎記 2019年7月22日
『風立ちぬ』堀辰雄
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/22/9131853
『風立ちぬ』以外の作品も、読んでおくことにした。収録作品は、新潮文庫とはあまり重複していない。
読んで感じるところを書けば次の二点になるだろうか。
第一は、プルーストとの関係である。
たとえば、この本の年譜を見ると、昭和六年(二七才)の時の項目には、
「病床でプルーストを愛読」
とある。
近代文学研究にうとい私としては、堀辰雄とプルーストがどのように研究されているのか知らない。しかし、堀辰雄の作品のいくつかは、たしかにプルーストを意識していると感じさせるものがある。あるいは、ちくま日本文学のこの堀辰雄の巻は、そのように編集してあるともいえる。
特に、『幼年時代』にそれを強く感じる。自分の幼いときのことを回想して、文学的に表現する、これはあきらかにプルーストの影響だろう。そう思って読んでみると、はたして書いてあることが、本当のことなのかどうなのか、ちょっとあやしくなってくる。いや、このような言い方は正しくないのであろう。文学的に回想される幼いときの思い出、たとえそれが虚構をふくむものであったとしても、作者の意識のうちにあっては、確固たる文学的事実ということで理解しなければならないだろう。
第二には、堀辰雄の精神の強固さである。
高原のサナトリウムを舞台にした小説……このような見方をしてしまうと、堀辰雄を見誤ることになる。堀辰雄の文学は、デモーニッシュである。表面的には、幼いときの思い出を書いたり、信州の風景を書いたり、一見すると、やわな印象がある。しかし、その精神の根底にあるものは、人間のこころの奥深いところにある深淵を感じさせるところがある。すくなくとも、私には、堀辰雄の文学はそのように読める。
以上の二点が、ちくま日本文学の「堀辰雄」の巻を通読して感じるところである。
さらに書くとするならば、日本の王朝文学への造詣の深さが指摘できようか。『姨捨』『曠野』など、平安文学に題材をとった作品を読んでみると、非常にたしかな目で『源氏物語』などの平安文学を読みこんでいることが感じ取れる。その平安文学の理解の深さは、芥川龍之介より、よほど深いものがあると感じさせる。近代の日本文学において、平安時代文学に題材をとった作品として、堀辰雄の作品は、さらに再評価される価値があると思う。
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480425690/
続きである。
やまもも書斎記 2019年8月12日
『菜穂子』堀辰雄
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/08/12/9140039
『風立ちぬ』を読もうと思って買った本である。
やまもも書斎記 2019年7月22日
『風立ちぬ』堀辰雄
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/22/9131853
『風立ちぬ』以外の作品も、読んでおくことにした。収録作品は、新潮文庫とはあまり重複していない。
読んで感じるところを書けば次の二点になるだろうか。
第一は、プルーストとの関係である。
たとえば、この本の年譜を見ると、昭和六年(二七才)の時の項目には、
「病床でプルーストを愛読」
とある。
近代文学研究にうとい私としては、堀辰雄とプルーストがどのように研究されているのか知らない。しかし、堀辰雄の作品のいくつかは、たしかにプルーストを意識していると感じさせるものがある。あるいは、ちくま日本文学のこの堀辰雄の巻は、そのように編集してあるともいえる。
特に、『幼年時代』にそれを強く感じる。自分の幼いときのことを回想して、文学的に表現する、これはあきらかにプルーストの影響だろう。そう思って読んでみると、はたして書いてあることが、本当のことなのかどうなのか、ちょっとあやしくなってくる。いや、このような言い方は正しくないのであろう。文学的に回想される幼いときの思い出、たとえそれが虚構をふくむものであったとしても、作者の意識のうちにあっては、確固たる文学的事実ということで理解しなければならないだろう。
第二には、堀辰雄の精神の強固さである。
高原のサナトリウムを舞台にした小説……このような見方をしてしまうと、堀辰雄を見誤ることになる。堀辰雄の文学は、デモーニッシュである。表面的には、幼いときの思い出を書いたり、信州の風景を書いたり、一見すると、やわな印象がある。しかし、その精神の根底にあるものは、人間のこころの奥深いところにある深淵を感じさせるところがある。すくなくとも、私には、堀辰雄の文学はそのように読める。
以上の二点が、ちくま日本文学の「堀辰雄」の巻を通読して感じるところである。
さらに書くとするならば、日本の王朝文学への造詣の深さが指摘できようか。『姨捨』『曠野』など、平安文学に題材をとった作品を読んでみると、非常にたしかな目で『源氏物語』などの平安文学を読みこんでいることが感じ取れる。その平安文学の理解の深さは、芥川龍之介より、よほど深いものがあると感じさせる。近代の日本文学において、平安時代文学に題材をとった作品として、堀辰雄の作品は、さらに再評価される価値があると思う。
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