『いだてん』あれこれ「仁義なき戦い」2019-09-03

2019-09-03 當山日出夫(とうやまひでお)

『いだてん~東京オリムピック噺~』2019年9月1日、第33回「仁義なき戦い」
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/033/

前回は、
やまもも書斎記 2019年8月27日
『いだてん』あれこれ「独裁者」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/08/27/9145981

この回では、ほとんどスポーツの場面がなかった。それではなく、オリンピック招致の舞台裏にまつわるいろんなできごとであった。見どころはいくつかあると思うが、二点ばかりあげておく。

第一には、国際情勢とオリンピックである。

オリンピックは、政治とは無関係である、このような理念もある。しかし、その一方で、政治と無縁ではありえないこともまた確かなことである。

思えば、すでに描かれたロサンゼルスでの開催も、新国家であるアメリカの威信をかけてのものであったろう。そして、ベルリンは、ヒトラーの政治戦略とともに開催されることになる。それをうけての東京大会である。純粋にスポーツの祭典というわけにはいかない。

関東大震災から復興した日本……これはどこかで見たようなことばだが……それから、紀元二六〇〇年を記念しての大会、国際連盟を脱退したとはいえ、世界の「一等国」の一員であるはずの日本……このような背景ぬきに、東京での一九四〇年のオリンピックはない。

しかし、それも、そう簡単には決まらなかったようだ。このあたりは、時代考証をふまえてのものになっていると思う。オリンピック招致には、様々な国と人びとの思惑が交錯する。

これから決まるはずの東京大会(一九四〇年)も、決まったはいいものの、結局は開催されずに終わることになることはすでにわかっている。しかし、どのようないきさつで、開催に決まったのか、また、どうして開催が中止になったのか、このあたりは、非常に興味深いところがある。

第二には、何のためのオリンピックか、という問いかけである。

後に東京オリンピック(一九六四年)招致に尽力することになる田畑政治は言っていた……オリンピックとは、たかが二週間の運動会である、と。そのとおりだと思う。たかが運動会である。だが、その運動会のために、国際情勢のなかで国の思惑がある。そして、それは、現代では、オリンピックビジネスというものにまで発展していることになる。

たかが運動会ではあるが、その持つ意味は、その後、大きくなっていくばかりかもしれない。それを最も皮肉な視点からみるとするならば、まさに「おもてなし」になる。

以上の二点が、見ていて思ったことなどである。

このドラマ、ここにきて……一九四〇年の東京オリンピックを描くところになって、今のオリンピックに対する風刺とでも言うべきものを感じさせるようになってきている。オリンピックの理念と、現実の国際情勢、そのなかにあって、翻弄される選手や関係者たち。田畑政治や嘉納治五郎など、オリンピックとともに、その人生を歩んできたかのごとくである。

ドラマを見ていて、来年の二〇二〇年東京オリンピックを、そう単純には喜んで見ることをしていない、作者(脚本)の意図をどことなく感じる。参加する個々の選手は、純真にスポーツにうちこんでいるのかもしれない。だが、その招致をめぐっては、今にいたるまで、種々の疑惑が絶えることがない。

やはり、このドラマは、オリンピックというものを通じて、近代日本のある側面を描いていると言っていいだろと思う。

IOCでのやりとりを落語にして見せた場面など面白かった。次回以降、志ん生はどんなかたちでオリンピックにからんでくるだろうか。楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-09-10
この続きは、
やまもも書斎記 2019年9月10日
『いだてん』あれこれ「226」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/09/10/9151815

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
このブログの名称の平仮名4文字を記入してください。

コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/09/03/9148788/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。