『我らが少女A』高村薫 ― 2019-09-07
2019-09-07 當山日出夫(とうやまひでお)
高村薫.『我らが少女A』.毎日新聞出版.2019
http://mainichibooks.com/books/novel-critic/post-679.html
著者(高村薫)は、この作品で何を書きたかったのだろうか、読んでみて今一つはっきりしないと感じる。たてまえ上としては、久々の合田雄一郎シリーズということなのだが、実際に読んでみて、登場人物のなかでその役割は、決して大きくはない。
ただ、読んで思ったことなど書いておくならば、次の二点であろうか。
第一には、「少女A」のこと。
一二年前におきた事件。その重要人物としてうかびあがったある女性。そのきっかけになったのは、彼女もまた、ある事件に遭遇したせいなのだが……まあ、このあたりは、常識的な設定の話の運び。興味深いのは、その女性をめぐって、幾人かの登場人物の視点から描写があるのだが、ある時点で、その女性は「少女A」と匿名化される。普通、匿名化されれば人目にはあまりふれないと思うのだが、この場合ちょっと事情が違う。SNSにおいて、ハッシュタグをつけた「少女A」がうまれてしまう。そのことによって、またたくまに、情報が拡散してしまう。
ここには、SNSの世界における、匿名化と、同時に、情報の拡散と、二つのことがおこっている。まさに、現代社会のある一側面を描いていると言っていいだろう。
第二には、SNS的視点である。
登場人物の視点を切り替えながら、ストーリーを展開していく……これは、小説の技法として普通だと思う。が、これまでの高村薫の作品は、どちらかといえば、視点人物を固定しておいて、その視点から、じっくりと出来事を描写していくというスタイルであったように思う。
SNSの世界には、中心となる視点がない。強いて言えば、それを見ている、あるいは、参画している自分自身の視点しかない。だが、その自分自身の視点も、人のかずだけある。TL(タイムライン)には、これが正しいということがない。それぞれにTLを見ているにすぎない。そして、その総和は、ビッグデータと言うべきものになる。
この作品を読んでいくと、SNSのTL的視点の切り替え、このように理解されると、私は感じて読んだ。頻繁に登場人物の視点が切り替わっていく。一つ一つのTLで見るものは、出来事のごく一部にすぎない。しかし、ある出来事にについて、複数のTLが錯綜するとき、そこから、事件の新たな様相が浮かびあがってくる。
しかし、そこにあるのは、近代文学が手にいれたと考えるべき「神の視点」では、もはやありえない。別次元の、新たな何かになる。(だが、この作品で、高村薫は、その別次元の何かまで描くことはしていない。)
以上の二点が、この本を読んで感じたところである。
ところで、この作品、新聞連載がもとになっているのだが、その連載において、毎回、挿絵画家が交替するという手法をとったとある。これもまた、見ようによっては、TL視点の切り替えのアナロジーと言えるのかもしれない。
高村薫は、貪欲に現代社会を描く作家だと思っている。この作品において、描きたかったのは、SNS的世界観とでも言うことができるだろうか。作中には、オンラインゲームも登場する。だが、基本的に「神の視点」にもとづく、近代の小説という枠組みにおいて、この試みが成功したかどうかは、また別の評価を考えなければならないと思う。
http://mainichibooks.com/books/novel-critic/post-679.html
著者(高村薫)は、この作品で何を書きたかったのだろうか、読んでみて今一つはっきりしないと感じる。たてまえ上としては、久々の合田雄一郎シリーズということなのだが、実際に読んでみて、登場人物のなかでその役割は、決して大きくはない。
ただ、読んで思ったことなど書いておくならば、次の二点であろうか。
第一には、「少女A」のこと。
一二年前におきた事件。その重要人物としてうかびあがったある女性。そのきっかけになったのは、彼女もまた、ある事件に遭遇したせいなのだが……まあ、このあたりは、常識的な設定の話の運び。興味深いのは、その女性をめぐって、幾人かの登場人物の視点から描写があるのだが、ある時点で、その女性は「少女A」と匿名化される。普通、匿名化されれば人目にはあまりふれないと思うのだが、この場合ちょっと事情が違う。SNSにおいて、ハッシュタグをつけた「少女A」がうまれてしまう。そのことによって、またたくまに、情報が拡散してしまう。
ここには、SNSの世界における、匿名化と、同時に、情報の拡散と、二つのことがおこっている。まさに、現代社会のある一側面を描いていると言っていいだろう。
第二には、SNS的視点である。
登場人物の視点を切り替えながら、ストーリーを展開していく……これは、小説の技法として普通だと思う。が、これまでの高村薫の作品は、どちらかといえば、視点人物を固定しておいて、その視点から、じっくりと出来事を描写していくというスタイルであったように思う。
SNSの世界には、中心となる視点がない。強いて言えば、それを見ている、あるいは、参画している自分自身の視点しかない。だが、その自分自身の視点も、人のかずだけある。TL(タイムライン)には、これが正しいということがない。それぞれにTLを見ているにすぎない。そして、その総和は、ビッグデータと言うべきものになる。
この作品を読んでいくと、SNSのTL的視点の切り替え、このように理解されると、私は感じて読んだ。頻繁に登場人物の視点が切り替わっていく。一つ一つのTLで見るものは、出来事のごく一部にすぎない。しかし、ある出来事にについて、複数のTLが錯綜するとき、そこから、事件の新たな様相が浮かびあがってくる。
しかし、そこにあるのは、近代文学が手にいれたと考えるべき「神の視点」では、もはやありえない。別次元の、新たな何かになる。(だが、この作品で、高村薫は、その別次元の何かまで描くことはしていない。)
以上の二点が、この本を読んで感じたところである。
ところで、この作品、新聞連載がもとになっているのだが、その連載において、毎回、挿絵画家が交替するという手法をとったとある。これもまた、見ようによっては、TL視点の切り替えのアナロジーと言えるのかもしれない。
高村薫は、貪欲に現代社会を描く作家だと思っている。この作品において、描きたかったのは、SNS的世界観とでも言うことができるだろうか。作中には、オンラインゲームも登場する。だが、基本的に「神の視点」にもとづく、近代の小説という枠組みにおいて、この試みが成功したかどうかは、また別の評価を考えなければならないと思う。
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