『吾輩は猫である』夏目漱石2019-11-04

2019-11-04 當山日出夫(とうやまひでお)

吾輩は猫である

夏目漱石.『吾輩は猫である』(新潮文庫).新潮社.1961(2003.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/101001/

続きである。
やまもも書斎記 2019年11月1日
『虞美人草』夏目漱石
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/01/9171497

漱石の作品を読んでいくことにして(新潮文庫版で)、『吾輩は猫である』を手にした。この作品を通読するのは、何度目になるだろうか。これまで、数年おきぐらいには、漱石の主な作品をよみなおしてきていた。『吾輩は猫である』を読んで……『草枕』などはとばして……『三四郎』からはじまる長編を読む、こんなふうにして読んできた。

『猫』は、若いとき、最も多く読んだ本のうちのひとつである。昔の、その当時の、岩波版の「全集」で、何回読みかえしたことだろうか。大学受験があって、気分の鬱屈したとき、ただ読めた作品が『猫』であった、ということである。それは、おそらくは、その当時の作者(漱石)の心境、大学の教師をしながら気分転換に筆をとった小説……その背景にある「神経衰弱」の精神状態に、共鳴するものを感じてのことであったかと、今になって思う。

今回、『猫』を読んでみて感じるところを記しておくならば、次の二点。

第一に、これはまさに「落語」である、ということ。

『猫』のことを「落語」と評したのだ誰であったか忘れてしまったが、これは言い得て妙であると思う。「猫」が人間のことばをつかう、このような荒唐無稽とでもいうべき発想が、まさに「落語」的であるといえるだろう。こう思って読むからなのかもしれないが、『猫』は「落語」である、と強く感じるところがある。

第二に、詩情。

「落語」であるといいながら、読んで行くと、随所に、詩情を感じる風景、景物の描写がある。ただ、諧謔のみではなく、詩情をふくんだ文章であることに気付く。

以上の二点、「落語」と「詩情」これが、微妙なバランスのうえになりたっているのが、『猫』である。

そして、この『猫』を書いて、あくまでも「猫」視点をつらぬいていた作者が、途中で、作中人物の心中に入り込むことになる。終わりの方、第九章の「読心術」の箇所である。ここで、作中人物の心理を描くことの面白さに気付いてしまった作者は、これ以上『猫』を連作しなくなることになる。近代的な小説家としての夏目漱石の誕生である。(たぶん、こんなことは、漱石研究の分野においては、常識的に言われていることだろうと思うが。)

また、「文明批評家」としての漱石の面目躍如たる作品であることも、言うまでもないことだろう。この『猫』を読むと、漱石の作品のすべての出発点であることが確認されることになる。

さらに書けばであるが……『猫』の中で、女学生ことばをつかう登場人物がでてくる。「てよだわ」ことばである。後の作品では、『三四郎』の美禰子、よし子、『それから』の三千代、『門』のお米、『こころ』の奥さん、などがそうである。この女学生ことばをつかう女性というのは、漱石の作品を理解するうえで重要なキーになるだろう。女学生ことばをつかう人物造形が意味をもつものとしてあると考える。その目で、『猫』を読んで見ると、まず、女学生ことばをつかっているのは、三毛である。天璋院さまの~~に飼われている雌猫である。それから、苦沙弥先生の姪の雪江。設定として女学生であるということだから、これはむしろ自然なのかもしれない。このような視点、日本語学的に言うならば、「役割語」の効果とでもいうべきところが、この『猫』の中には、随所に見ることができる。

さて、次に読もうと思っている漱石の作品は『坊っちゃん』である。これも久しぶりに読むことになる。

追記 2019-11-07
この続きは、
やまもも書斎記 2019年11月7日
『坊っちゃん』夏目漱石
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/07/9173811