『文鳥・夢十夜』夏目漱石2019-11-14

2019-11-14 當山日出夫(とうやまひでお)

文鳥・夢十夜

夏目漱石.『文鳥・夢十夜』(新潮文庫).新潮社.1976(2002.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/101018/

続きである。
やまもも書斎記 2019年11月9日
『倫敦塔・幻影の盾』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/09/9174436

ここには、漱石の小品をおさめる。あるいは、エッセイと言ってもいいかもしれない。小説というよりは、随筆とでも言った方がいいだろうか。が、ともあれ、これを読むと漱石がすぐれた「エッセイスト」であったことが分かる。

次の作品を収録している。
「文鳥」
「夢十夜」
「永日小品」
「思い出す事など」
「ケーベル先生」
「変な音」
「手紙」

読んで印象に残るのは、「文鳥」。ふとしたことから飼うことになった文鳥のことが、淡々とした筆致でつづられる。そこに、過去の淡い記憶が重なって、なんともいえない叙情性を感じさせる。

「夢十夜」。この作品が、漱石理解のうえで重要な位置を占める作品であることは、承知しているつもりでいる。ただ、夢の話がつづく。小説というのとはちょっと違う雰囲気がある。が、随筆でもない。奇妙な印象が残る作品である。しかし、読後感としては、漱石という作家の深奥にふれたような印象がある。

「思い出す事など」。いわゆる修善寺の大患の前後のことを記している。漱石は、危篤状態におちいっている。あるいは、一度死んだとでも言ってもいいかもしれない。その病気のこと、その前後の宿のこと、病院のことなど、冷静に語っている。

一度死にかけた体験を、このように冷静な、しかし、どこか温かみのある文章で、つづることのできた漱石は、あるいは、このような文章を書くことによって、自分の生死を、深くみつめているように感じる。そして、この作品中には、多くの漢詩・俳句が出てくる。生死の間をさまよう体験をした漱石をささえていたのは、前近代からの文学的伝統である、漢詩文や俳諧の世界であったのだろうか。だが、それを書いている漱石の目は、近代人のものである。

修善寺の大患が、漱石の文学にとってどのような意味があるのか……このところが、今どのように考えられているのか、近年の漱石研究にうとい私は知らないのだが、ここ収められている文章を読むと、後年の漱石が、ある意味では、人間を達観視しているようなところがあるかと、思ってしまうところがある。人間のエゴイズムを描くためには、一度自分が、自分自身のエゴイズム……それは「生」の根源にかかわる……を、とことん掘り下げて、通過したところの視点をおく必要がある。漱石の文学を理解するためには、重要な意味のある作品であると思う。

さて、ようやく、これまであまり読んできていなかった漱石作品を読んで、次は、長編小説である。『坑夫』を読むことにする。

この続きは、
やまもも書斎記 2019年11月16日
『坑夫』夏目漱石
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/16/9177506