『それから』夏目漱石 ― 2019-11-23
2019-11-23 當山日出夫(とうやまひでお)
夏目漱石.『それから』(新潮文庫).新潮社.1948(2010.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/101005/
続きである。
やまもも書斎記 2019年11月21日
『三四郎』夏目漱石
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/21/9179519
この本も読みなおすのは、何回目になるだろうか。これまで何度も読んできている。また、その一部分が、高校の時の国語の教科書に掲載になっていたのを憶えている。代助が、平岡の家に行って議論する場面である。
今回、読みなおしてみて、この小説が、こんなに面白い作品であったのか、認識をあらたにした。無論、全体のストーリーの概要も、結果として、三千代をめぐってどうなるかも知っている。しかし、その結果がわかっていながら、本を読むページをめくるのがもどかしいぐらいに、本に読みふけってしまった。読みながら、主人公(代助)のこころのうちによりそって、三千代に傾いていく心理に共感してしまう。
『それから』というタイトルは、『三四郎』の「それから」という意味なのだろう。つまり、三千代は、美禰子をうけて登場してきている女性である。そして、それが、次の『門』のお米につづく。
読んで思ったことであるが、この小説は、始終、代助の視点から描かれている。そして、それは、成功しているだろう。これまでの漱石の作品において、作中人物の心理描写にふかく入り込んだものは、あまりうまく書けていないように感じるところがある。まあ、『坊っちゃん』『草枕』などは、作中人物の視点で描いてあるが、その心理の奥の懊悩というところまでは、踏み込んでいない。
この作品では、作者(漱石)は、代助のこころの奥深くまで入り込んで、その三千代への思い、自分のおかれた立場、これからのこと、さまざまな煩悶を細かに描写している。
その一方で、この小説の事件の当事者である、三千代についてはどうだろうか。読んでいって、その心理、こころのうちが、よくわからないところがある。ある意味で、代助に気持ちを打ち明けられて、こころがなびく。非常に受け身的である。その一方で、そうと決まれば、覚悟を決めて、代助にすべてを託している。非常に芯の強いところを感じさせる。
くっきりとしたイメージのある女性なのだが、そのこころのうちを、漱石は、描いていないと言っていいかもしれない。あくまでも、代助の視点に映ずる形でしか、三千代のこころは描かれていない。
これは、『こころ』まで続くと思う。そして、『明暗』になって、女性の登場人物のこころのうちを描くようになる。が、これは、未完で終わる。
この作品で描いている代助のような、いわゆる「高等遊民」とでもいうべき階層は、社会のごく少数でしかない。例外的と言っていいだろう。しかし、そのような、例外的な登場人物を主人公にしながら、今日の時代にまで読み継がれていく作品を書いた漱石は、その作家としての技量の卓絶していたことを感じざるをえない。
また、『それから』を読んでいて思ったことなのだが、漱石は、「女」とか「父」とかは描いている。しかし、「子ども」というものをあまり書いていない。無論、「子ども」の登場する作品はあるのだが、「子ども」への情愛など、「親」としての思いを描いていることはかなり少ないように思う。『門』などにちょっと出てきたりする。無論、『彼岸過迄』にも子どものことはでてくる。そこでは、子どもの死を描いている。また『道草』では子どもの誕生のシーンがある。それは知ってはいるが、大きな話の筋としてではないと思える。あるいは、これは、日本の近代文学全体を通じて、大きな傾向として、言えることなのかもしれないが。
漱石において「父」がどのような存在であったか、また、「子」とは何であったか、おそらく、漱石研究の分野では、十分に議論がなされていることだろうと思う。が、私としては、自分の目で読んでみて、そのような問題点があるのだろうということを、思ってみるのである。
https://www.shinchosha.co.jp/book/101005/
続きである。
やまもも書斎記 2019年11月21日
『三四郎』夏目漱石
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/21/9179519
この本も読みなおすのは、何回目になるだろうか。これまで何度も読んできている。また、その一部分が、高校の時の国語の教科書に掲載になっていたのを憶えている。代助が、平岡の家に行って議論する場面である。
今回、読みなおしてみて、この小説が、こんなに面白い作品であったのか、認識をあらたにした。無論、全体のストーリーの概要も、結果として、三千代をめぐってどうなるかも知っている。しかし、その結果がわかっていながら、本を読むページをめくるのがもどかしいぐらいに、本に読みふけってしまった。読みながら、主人公(代助)のこころのうちによりそって、三千代に傾いていく心理に共感してしまう。
『それから』というタイトルは、『三四郎』の「それから」という意味なのだろう。つまり、三千代は、美禰子をうけて登場してきている女性である。そして、それが、次の『門』のお米につづく。
読んで思ったことであるが、この小説は、始終、代助の視点から描かれている。そして、それは、成功しているだろう。これまでの漱石の作品において、作中人物の心理描写にふかく入り込んだものは、あまりうまく書けていないように感じるところがある。まあ、『坊っちゃん』『草枕』などは、作中人物の視点で描いてあるが、その心理の奥の懊悩というところまでは、踏み込んでいない。
この作品では、作者(漱石)は、代助のこころの奥深くまで入り込んで、その三千代への思い、自分のおかれた立場、これからのこと、さまざまな煩悶を細かに描写している。
その一方で、この小説の事件の当事者である、三千代についてはどうだろうか。読んでいって、その心理、こころのうちが、よくわからないところがある。ある意味で、代助に気持ちを打ち明けられて、こころがなびく。非常に受け身的である。その一方で、そうと決まれば、覚悟を決めて、代助にすべてを託している。非常に芯の強いところを感じさせる。
くっきりとしたイメージのある女性なのだが、そのこころのうちを、漱石は、描いていないと言っていいかもしれない。あくまでも、代助の視点に映ずる形でしか、三千代のこころは描かれていない。
これは、『こころ』まで続くと思う。そして、『明暗』になって、女性の登場人物のこころのうちを描くようになる。が、これは、未完で終わる。
この作品で描いている代助のような、いわゆる「高等遊民」とでもいうべき階層は、社会のごく少数でしかない。例外的と言っていいだろう。しかし、そのような、例外的な登場人物を主人公にしながら、今日の時代にまで読み継がれていく作品を書いた漱石は、その作家としての技量の卓絶していたことを感じざるをえない。
また、『それから』を読んでいて思ったことなのだが、漱石は、「女」とか「父」とかは描いている。しかし、「子ども」というものをあまり書いていない。無論、「子ども」の登場する作品はあるのだが、「子ども」への情愛など、「親」としての思いを描いていることはかなり少ないように思う。『門』などにちょっと出てきたりする。無論、『彼岸過迄』にも子どものことはでてくる。そこでは、子どもの死を描いている。また『道草』では子どもの誕生のシーンがある。それは知ってはいるが、大きな話の筋としてではないと思える。あるいは、これは、日本の近代文学全体を通じて、大きな傾向として、言えることなのかもしれないが。
漱石において「父」がどのような存在であったか、また、「子」とは何であったか、おそらく、漱石研究の分野では、十分に議論がなされていることだろうと思う。が、私としては、自分の目で読んでみて、そのような問題点があるのだろうということを、思ってみるのである。
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/23/9180287/tb
※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。
※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。