『道草』夏目漱石2019-12-21

2019-12-21 當山日出夫(とうやまひでお)

道草

夏目漱石.『道草』(新潮文庫).新潮社.1951(2011.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/101014/

続きである。
やまもも書斎記 2019年12月20日
『こころ』夏目漱石
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/20/9191512

この作品も何度か読みかえしている。だが、はっきりいって、私はこの作品が苦手である。嫌いというのではないが、何かしら作品の世界の中にはいっていって読みふけるということがない。とはいえ、今回、新潮文庫版で漱石の作品を順番に読んできて、思うことなど書いてみると、次の二点ぐらいだろうか。

第一には、これは、敗れ去るものの物語ではないだろうか、ということ。

健三は、外国留学を終えて日本に帰ってきたという設定になっている。このあたりは、漱石の自伝的な要素をふくんだ書き方なのだろう。つまり、西洋の本当の近代というものを体験してきた人間ということになる。その健三が、日本の家族とうまくいかない。それのみならず、かつての育ての親から、金の無心をせまられる。健三は、家庭の中で、また、社会、いやこの場合は、世間とでもいった方がいいかもしれない、その中で孤立をふかめていく。

漱石の作品の場合、成功する、勝利するという人物が主人公になることはない。何かしら、社会からの敗残者という側面をもっている。敗残者が極端なら、少なくとも、社会に背を向けている人間である。『坊っちゃん』も敗北する人間の物語であり、『門』などもそうだろう。

この『道草』においても、健三は、結局は、家庭から、また、社会から取り越される人物として描かれている。それを象徴するのは、この作品の最後のシーンだろうと思う。

第二には、この作品になって、登場人物、特に女性のことばがかわってきている、ということ。

『三四郎』からはじまる長編作品においては、女学生ことばをつかう女性が重要な位置をしめてきている。美禰子であり、三千代であり、あるいは、『こころ』の奥さんであり、である。しかし、この女学生ことばをつかう女性は、ほとんど小説のメインのところに顔を出さない。あくまでも、男性の目から見た目で描かれている。

しかし、『道草』になると、その女性のこころのうちを描くようになっている。そして、これは、次の『明暗』にもひきつがれていく。漱石の作品における、女学生ことばをつかう女性、使わない女性、このような視点から見ると、『道草』は、一つの転機になっている作品であると感じるところがある。(たぶん、このようなことは、漱石研究の分野では、すでに誰かが言っていることだろうと思うのだが。)

以上の二点が、『道草』を読んで思うことなどである。

一般的には、『道草』は自伝的な小説ということになっている。だが、しかし、自伝からは最も遠いところに位置する作品であるのかもしれない。この作品では、漱石は、主人公の健三をつきはなした視点から描いている。

『猫』の苦沙弥先生は、なにかしら漱石自身を投影したところを感じる。しかし、この『道草』には、そのようなとことは感じない。ここでは、漱石は、留学帰りの主人公が、日本の因習的な社会のなかでどう生きていかざるをえないか、その有様と苦悩を描いている。ある意味では、もはや、それまでの作品にみられたような、人間のこころのうちを探偵していくことの興味を超えたとことに視点を定めている。

次は、『明暗』である。これも数ヶ月前に読んだ作品であるが、順番に読んで来て、さらに続けて読むことにする。

2019年12月13日記

この続きは、
やまもも書斎記 2019年12月26日
『明暗』夏目漱石
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/26/9193866

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