今年読んだ本のことなど(二〇一九)2019-12-31

2019-12-31 當山日出夫(とうやまひでお)

今年(二〇一九)に読ん本のことなど書いてみたい。

これまでもそうであったが、「古典」を読みたいと思ってすごした。大学で教える仕事は整理して、週に一回か二回。残りの時間は、本を読んですごす。でなければ、カメラを持って散歩に出ることにしている。基本的に家にいる。

今年(二〇一九)で読んだ本となると、やはり、村上春樹だろう。これもふと思い立って読み始めた。『騎士団長殺し』が文庫本で刊行になったのをきっかけにして、村上春樹の作品を全部読んでみようと思った。長編からはじめて、短篇集、日本で普通に手にはいる本は全部読むことができただろうか。残るのは、エッセイとか翻訳。これは、すこしペースをおとして、他の本を読むかたわらで、順次読んでいっている。

翻訳についていえば、もし村上春樹が訳していなければ、手にすることがなかったであろう作品がいくつもある。これは、村上春樹訳ということで本を選んで読んでいったことによるものであるが、これはよかったと思っている。レイモンド・カーヴァーの作品など、現代アメリカ文学の作品は、村上春樹の訳があるから読んでみたようなものである。

村上春樹が、ノーベル文学賞を取ることになるかどうか、それはわからない。だが、読んで、確かに村上春樹の作品が、世界の人びとに読まれていることの理由が、わかったような気がした。文学作品としての普遍性をもった作品であることは確かである。

日本の古典では、『源氏物語』を読んだ。新潮の日本古典集成版(八冊)である。これは、二回読むことができた。二月ごろ、ふと思って読み始めた。辞書、文法書はあえて見ない、という方針で読んだ。特に文法論などを専門にしているというのではないので、ここはわりきりである。校注本の注釈だけをたよりに読んでみた。

なるほど、これが文学というものなのか、という印象を新たにした。読んでいって、思わず作品世界のなかにひたりこんでしまって、読みふけっている自分に気付くことがあった。このような読み方は、もう自分で『源氏物語』で論文を書いてみようという気がなくなってしまった、ということもあってのことかもしれない。論文を書くためではなく、ただひたすら読書の楽しみのために読んでみたくなっている。

これは、二回読むことができた。秋からの同志社大学大学院の講義の準備と思って、『源氏物語』をさらに読んでみた。秋からの講義では、文字のことを話す予定にしてあった。夏休みの間に読んだ。『源氏物語』のなかで、文字にことばを書くということが、どのように書かれているのか、ということに興味があったからである。これも、先行研究をさがせば書いた論文などあるにちがいないが、それを見るよりも、自分自身の目でテキストを読んで確認して、考えてみたいと思ったのである。

それから、日本の古典では、『平家物語』(岩波文庫版、四冊)がある。「運命」の物語であることを強く感じた。『平家物語』に「運命」を読みとっていたのは、古くは、石母田正あたりの仕事がある。岩波新書の『平家物語』である。

また、『今昔物語集』を、新日本古典大系本で読んだ。五冊。『今昔物語集』は、若いとき、山田忠雄先生のもとで、国語学を勉強していたとき、旧版の日本古典大系本で読んだものである。全部のページを繰ったことはあるのだが、最初から順番に読むということはなかった。今回は、ただひたすら最初から順番にページを繰ることで読んでみた。

『源氏物語』『平家物語』『今昔物語集』、これらの作品は、若いころに読んでいる。ひととおりページは繰っている。だが、その読書は国語学の勉強のために読んだという傾向がつよい。が、これも、今になって、この年になって、ただひたすら読書のたのしみのために、最初から順番にページを繰るということで、読んでみたものである。いや、そのように本を読みたくなってきたのである。

夏休みには、これはここ数年のことであるが、井筒俊彦を読んだ。今年になって、岩波文庫でいくつか刊行になった。『意識と本質』(これは以前から刊行になっている)、それに『意味の深みへ』『コスモスとアンチコスモス』などである。「全集」(慶應義塾大学出版会)、「著作集」(中央公論社)、これらも持っている。これから、井筒俊彦も、折りにふれて読みかえしてみたいとおもっている。

秋にかけては、夏目漱石の作品を、新潮文庫版で出ているものを全部読むことができた。岩波版の「全集」も二セット持っているのだが、ここはわりきって、新潮文庫の新しい版で読むことにした。漱石の微妙なことばの用法に気付くところがあった。特に女性の呼称が興味深い。また、女学生ことば、てよだわことばを話す女性像というものが、漱石の作品のなかで重要な位置をしめることを確認することにもなった。この意味では、最後の遺作の『明暗』の清子が、どんなことばをつかう女性であるのか、ここが書かれずに終わってしまっていることは、つくづく残念な気がしている。

それから、読んだものとしては、ドストエフスキーがある。光文社古典新訳文庫で、『白痴』(亀山郁夫訳)が完結したので、これをふくめて、長編の『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』『悪霊』、それから、いくつかの短篇など読んでみた。ドストエフスキーも、さらにこれから読みかえしてみたいと思っている。

また、『アンナ・カレーニナ』(トルストイ)を光文社古典新訳文庫(望月哲男訳、四冊)で読んだ。以前に新潮文庫版で読んだのであるが、新しい訳で読んでみることにした。一九世紀のロシア文学において、小説という芸術の到達点を示す作品であると感じるところがあった。

さて、来年はどれだけ本が読めるであろうか。「古典」それもひろく人文学にかかわる「文学」を読んでいきたいと思う。

2019年12月31日記