ピラカンサ2019-12-11

2019-12-11 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので花の写真の日。今日は、花ではなく実。ピラカンサの赤い実である。

前回は、
やまもも書斎記 2019年12月4日
桜の紅葉
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/04/9184799

カタカナで書くと「ピラカンサ」あるいは「ピラカンサス」と言う。和名では、「トキワサンザシ」となるらしい。このあたりの名称は、いろいろと用いられているようである。

我が家の近くに、三箇所ほどにこの木のあることを確認している。たぶん、ピラカンサであっているのだろうと思う。初夏に白い花を咲かせ、秋になると赤い実がいっぱいなる。

日本国語大辞典(ジャパンナレッジ)で、「ピラカンサ」を見る。この名称で項目がたててある。

バラ科トキワサンザシ属植物の総称。

とあり、さらに説明がある。しかし、残念なこと、ことばとしての用例が載っていない。これは、残念である。

また、「ときわさんざし」でも項目がある。

バラ科の常緑低木。ヨーロッパ原産で、生垣にする。

とあり、「ピラカンサ」と書いてある。だが、このことばについても、用例は載っていない。このあたりのことについては、やはり、ことばの辞典として、出典を書いておいてほしいものである。

ピラカンサ

ピラカンサ

ピラカンサ

ピラカンサ

ピラカンサ

ピラカンサ

Nikon D500
AF-S DX Micro NIKKOR 85mm f/3.5G ED VR

2019年12月9日記

追記 2019-12-18
この続きは、
やまもも書斎記 2019年12月18日
ガマズミ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/18/9190652

『行人』夏目漱石2019-12-12

2019-12-12 當山日出夫(とうやまひでお)

行人

夏目漱石.『行人』(新潮文庫).新潮社.1952(2011.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/101012/

続きである。
やまもも書斎記 2019年12月6日
『彼岸過迄』夏目漱石
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/06/9185705

はて、漱石という作家は、緻密な計画をたてた上で小説を書いていたのだろうか、ふと疑問に思うところがある。特に、この前作『彼岸過迄』と『行人』を読むと、どうもどのような結末になるか、あらかじめ計算しておいて執筆したとは、あまり感じ取れない。何となく小説を書き始めて、それが興味のおもむくままにストーリーが展開していって、気がつくと、作者としては、近代的な人間のエゴイズム……通俗的な理解かもしれないが……を、ほりさげることになってしまっていた……どうやら、こんな感じがしてならない。

「朝日新聞」の読者を相手に「小説」を書く。その技量において、漱石は卓絶したものをもっていた。小説の結末を決めていなくても、ペンのおもむくままに書いていって、それが「小説」として読めるものになっている。自分の小説家としての技量に自信があってのことなのかもしれない。

以上のようなことを思って見るのは、この『行人』という小説も、どうも、はじまり……二郎が大阪に旅行するところ……からはじまって、その家の人びとが出てきて、最後には、兄の一郎の内面の苦悩するこころのうちを、Hさんからの手紙で語らせる……この筋のはこびが、はじめから、このように計画して書いたとするならば、どうにも行き当たりばったりでストーリーがすすんでいくように思われてしかたがないからである。

あるいは、こうも言えようか……漱石は、「小説」を書くことによって、この「小説」では兄の一郎を登場させることによって、書きながら近代的な人間のエゴイズムを、発見していったのである、と。

そして、『彼岸過迄』『行人』を書いてしまって、これらの「小説」を書くことによって、近代的な個人という問題につきあたった漱石は、次には、正面からそのテーマで作品を書くようになる。それが次の『こころ』以下の作品になる。

それから、この『行人』は、Hさんの手紙で終わっている。このような終わり方というか、小説の構成は、次の『こころ』でも用いられることになる。先生からの手紙である。

手紙、書簡、それも言文一致体……「ですます体」の文体で書かれた……このような日本語文が、その当時、明治の終わりから大正の始めにかけて、一般的に確立していないと、この小説はなりたたない。ここから先は、日本語史の分野における、近代的な文章の成立プロセスと密接な関係のある議論になる。(今の私としては、ここから先に踏み込んで、周辺の資料を見るだけのちからがない。このような問題点につらなるということを、書いておくにとどめる。)「ですます体」書簡文で、人間の心理描写をこころみる、このことに成功したのが、この『行人』であり、『こころ』であるのだろうと思っている。

追記 2019-12-20
この続きは、
やまもも書斎記 2019年12月20日
『こころ』夏目漱石
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/20/9191512

『ビギナーズ』レイモンド・カーヴァー/村上春樹(訳)2019-12-13

2019-12-13 當山日出夫(とうやまひでお)

ビギナーズ

レイモンド・カーヴァー.村上春樹(訳).『ビギナーズ』(村上春樹 翻訳ライブラリー).中央公論新社.2010
http://www.chuko.co.jp/tanko/2010/03/403531.html

続きである。
やまもも書斎記 2019年12月7日
『村上ラヂオ2』村上春樹・大橋歩
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/07/9186095

やまもも書斎記 2019年11月30日
『愛について語るときに我々の語ること』レイモンド・カーヴァー/村上春樹(訳)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/30/9183071

ひとまず説明するならば、『愛について語るときに我々の語ること』という作品集は、実は、編集者による大幅な改変(削除)をうけていた。それを、元の原稿にもどして、改めて作品集として刊行したもの、ということになる。このあたりの経緯については、この本に詳しく説明がある。

ただ、読んでみての感想めいたものを書くとするならば……レイモンド・カーヴァーは、その作品について、「ミニマリスト」と言われることを嫌ったらしい。そうだろうと思う。『愛について語るときに我々の語ること』を評して、そのように言われたとするならば、絶対に許せないにちがいない。

それほど、大きな改編がなされている。読んで、もとの作品とがらりと印象が異なる。これでは、まったく別の作品になってしまっていると言っても過言ではない。ともあれ、この『ビギナーズ』を読んで、作者(レイモンド・カーヴァー)が、どのような文学を目指していたのか、その本当のところがわかったような気がする。

たとえば、「ささやかだけれど、役にたつこと」。この作品は、いったい何がどう役にたつことになるのか、短縮、改編版の方では今一つよくわからなかったといってよい。たしかに、改編後の作品でも、それなりに文学的余韻を感じさせる作品にはなっているのだが、これは、絶対にもとの方がいいと感じる。私は、少なくとも、この『ビギナーズ』で元のかたちのものを読んで、やっとこの作品に納得がいった。ああそうか、作者(レイモンド・カーヴァー)は、このようなことを、この作品で語りたかったのか、理解できたような気がする。

また、文学研究の立場からみても、このような作品の改編ということが、作品、作家にとってどのような意味のあることなのか、考えることができよう。この意味では、復元版とでもいうべきこの『ビギナーズ』を、同じく村上春樹の翻訳で読めるというのは、興味深いことでもある。

次の村上春樹は、またエッセイにもどって、『村上ラヂオ3』である。

追記 2020-01-11
この続きは、
やまもも書斎記 2020年1月11日
『村上ラヂオ3』村上春樹・大橋歩
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/01/11/9200606

『おしん』あれこれ(その一〇)2019-12-14

2019-12-14 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2019年11月18日
『おしん』あれこれ(その九)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/18/9178325

このドラマについては、以前の再放送のとき、全部見て知っているのだが、そのなかで、どうしてもふにおちない、あるいは、ちょっと疑問に感じるところがある。それは、竜三の自決である。

終戦の玉音放送の後、竜三は家を出る。そして、人知れず離れた山のなかで一人死をえらぶことになる。

はたして、竜三は、そこまで思い詰めるほどのことをしてきたのだろうか。たしかに、軍需工場の経営にはたずさわっていた。また、隣組の組長もしていた。この意味では、戦争に加担していたといってもいえなくなくはない。

しかし、この程度のことであるならば、その当時の多くの日本国民のしていたことである。ことさら、竜三がきわだって軍国主義的であったということはない。

さらにいえば、竜三が死んだのは、玉音放送の後ではあるが、日本が正式に降伏文書に調印した日……九月二日……よりも前のことである。連合軍の進駐もまだはじまっていない。無論、東京裁判があって、それによって、戦前、戦中の日本について裁きが始まる、そのはるか以前のことである。

なぜ、竜三は死ななければならなかったのだろうか。以前にこのドラマを見たときに疑問に思ったことであるし、今回の再放送を見ていても、やはり気になることである。

おそらくは、脚本(橋田壽賀子)においては、竜三の死ということで、戦争というものを精算してしまいたかったのかと思う。竜三一人が責任を感じて死ぬことで、それでおしんの気持ちも、ある意味で軽いものになる。

おしんにとって、竜三の死の衝撃は大きかった。また、おしん自身も、戦争のときに、それに反対しなかったことへの自責の思いもある。しかし、竜三の死によって、その自責の念も、払拭されてしまったかとも思われる。

そのまま、戦後をむかえ、新しい時代になっていったとして、おしんは、戦争に反対しなかった自分を責める気持ちから逃れることはできないであろう。特に、子どもの雄を死なせてしまったことの思いが、残るにちがない。このような思いをひきずったままでは、新しい時代を生きるおしんを描くことはできない。

これらの思いをいったんたちきって、新しい時代を生きていくおしんを描くためには、竜三の死というものが必要であったのではないだろうか。このようにでも考えないと、なぜ竜三が死ななければならなかったのか、理解がおよばない。

以上は、あくまでも私が見て思ったことである。人によっては、また別の解釈をすることになるかもしれないと思う。が、私の思ったこととして書きとめておくことにしたい。

追記 2020-03-02
この続きは、
やまもも書斎記 2020年3月2日
『おしん』あれこれ(その一一)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/03/02/9219799

『スカーレット』あれこれ「夢は一緒に」2019-12-15

2019-12-15 當山日出夫(とうやまひでお)

『スカーレット』第11週「夢は一緒に」
https://www.nhk.or.jp/scarlet/story/index11_191209.html

続きである。
やまもも書斎記 2019年12月8日
『スカーレット』あれこれ「好きという気持ち」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/08/9186516

この週で大きく物語は展開することになる。

第一に、八郎との恋。

喜美子は、父親の常治に八郎のことを認めてもらおうとする。何度でも八郎がいえをおとずれる。あるとき、ふと常治の気持ちが、八郎にかたむく。自分自身もかつては、妻のマツと駆け落ちして一緒になった。その過去を思い出して、喜美子との仲がうまくいってくれるように願う。結局、陶芸展に入賞したら、二人を許すということになったようだ。

このあたりの、父親の屈折した感情を、うまく表現していたように思う。なかなか素直に二人の言うことを聞いてやれない、父親のどうにもならな気持ちがうまく出ていたように思う。

第二、陶芸。

本格的に、喜美子は陶芸の道に入り込んでいくことになる。その師匠は、恋人である八郎でもある。二人の仲がちかづくことと、喜美子が陶芸の世界に徐々に入り込んで行くことが、平行して、うまくからみあって描かれていた。

そして、このドラマは、喜美子という女性の物語であると同時に、陶芸という世界がどのようなものであるのか、その魅力と難しさをも、伝えていると感じる。単に技術と知識だけではうまくいかない。感性が必要である。はたして、これから喜美子には、陶芸家としての感性が開けていくのであろうか。

以上の二点が、この週を見て思ったことなどである。

ところで、脇役であるが、照子(大島優子)が、いい感じである。これからに期待したい女優の一人ということができようか。

次週、喜美子はさらに陶芸の道に進むことになるようだ。また、ちや子さんも登場するらしい。楽しみに見ることにしよう。

2019年12月14日記

追記 2019-12-22
この続きは、
やまもも書斎記 2019年12月22日
『スカーレット』あれこれ「幸せへの大きな一歩」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/22/9192346

新潮日本古典集成『源氏物語』(四)2019-12-16

2019-12-16 當山日出夫(とうやまひでお)


石田穣二・清水好子(校注).『源氏物語』(四)新潮日本古典集成(新装版).新潮社.2014
https://www.shinchosha.co.jp/book/620821/

続きである。
やまもも書斎記 2019年12月9日
新潮日本古典集成『源氏物語』(三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/09/9186983

この本の前回は、
やまもも書斎記 2019年2月23日
『源氏物語』(四)新潮日本古典集成
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/23/9039568

新潮版で四冊目になる。「初音」から「藤裏葉」までをおさめる。

読んで思うことを書いておくと、次の二点になるだろうか。

第一には、玉鬘との関係である。

玉鬘は、夕顔の娘である。夕顔は、六条御息所の生き霊にとりころされてしまう。そのあたりのことは「夕顔」の巻に書いてあった。その娘(父親は頭の中将)が、都にでてきて光源氏のもとに身を寄せる。その玉鬘と、源氏とはどういう関係になるのだろうか。そうとはっきり書いてあるわけではないのだが、どうもあやしい。

母親(もう亡くなってしまっているが)と、その娘の両方に関係するのは、いささか不倫めく。このまま話が複雑な関係になってしまうのかと思いきや、突然に、玉鬘は髭黒の大将と一緒になってしまう。この髭黒の大将の一件、特に、その北の方の乱心ぶりは、いかにも唐突である。

『源氏物語』の成立論として、玉鬘系の物語が後から挿入されたとしても、それにしても、この髭黒の大将のことで終わってしまうのは、どうにも不可解な印象を持つ。たぶん、これは、後から書き足した玉鬘の物語を、強引に終わらせてしまうために仕方なく、このようなストーリーの展開になったのではなかろうかと思ってしまう。

嫉妬に狂った妻が夫に灰をあびせかける……これは創作というよりも、このような話が、説話として流布していたものを、とりこんだと感じるところがある。

第二は、特に「梅枝」にでてくる仮名についての記述。

今回は、特に、『源氏物語』と「文字」ということに関心を持って読んでいる。その目で見て、「梅枝」の仮名論議の部分は興味深い。「女手」は「仮名」なのであるが、しかし、「仮名」の一般をさす語ではなかったようである。「仮名」のなかでも、特にそれらしい書きぶりを称して「女手」といったと読み取れる。また、「仮名」とは別の文字として「草(そう)」があることになる。

以上の二点が、新潮版第四冊目を読んで思うことである。

それにしても思うが、もし玉鬘と髭黒の大将が結ばれるということなく、そのまま玉鬘が光源氏のもとで生きていくとしたら、どんな物語の展開があっただろうか。ここで紫の上は、どのように心を悩ませることになるのか、ここは想像してみるとかなり興味深い。

次は、いよいよ「若菜」の巻になる。『源氏物語』でもっとも中心的な部分である。

追記 2019-12-23
この続きは、
やまもも書斎記 2019年12月23日
新潮日本古典集成『源氏物語』(五)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/23/9192818

『いだてん』あれこれ「時間よ止まれ」2019-12-17

2019-12-17 當山日出夫(とうやまひでお)

『いだてん~東京オリムピック噺~』最終回「時間よ止まれ」
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/047/

前回は、
やまもも書斎記 2019年12月10日
『いだてん』あれこれ「炎のランナー」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/10/9187465

終わった。これまで見てきて思うことなど、書いてみたい。

このドラマの主人公は、誰なのだろうか。一般的な見方をするならば、金栗四三であり、田畑政治である。それに、志ん生がいる。だが、ひょっとすると、嘉納治五郎であったのかもしれない。しかし、最終回まで見て思うことは、このドラマは、これらの登場人物が入り交じっての群像劇ではなかったか、ということである。

とにかく、登場人物の視点が、複数にまたがっている。だが、その一方で、焦点が、オリンピックという一点に集中してもいる。この意味では、オリンピックをめぐる人びとのおりなす壮大な人間ドラマであったというべきだろうか。

ここで、私の思うことを書いておくならば……オリンピックはまさに参加することに意義がある。かつて、日本は、たった二人の選手を派遣するところからオリンピックにかかわることになる。その成績は、マラソンの金栗四三は、レースの途中で行方不明になる、三島弥彦は、棄権ということになった。だが、このようなオリンピックから、日本のオリンピックがスタートしたこと、そのことを、丁寧に描いてきたということは、意味のあることであろう。

一九六四年の東京オリンピック。このとき、確かに参加国は多かった。また、日本もいくつかのメダルを取ることができた。だが、それのみではないであろう。ドラマで登場していた、ザンビアの選手。メダルが取れたかどうかは、知らない。だが、オリンピックの閉会式が、まさに母国の独立の日であったことは印象的である。

あるいは、オリンピックに参加しても、メダルの一つもとれない選手、国の方が多いのかもしれない。だが、そこに、国を代表して参加することの意義は、確かにあるというべきだろう。

来年、二〇二〇年の東京オリンピック。メダルの行方も気にならなくはないが、しかし、その一方で、忘れてはならないのは、メダルの取れない選手の方が圧倒的に多いという事実であり、また、一つもメダルが取れなくても、ただオリンピックに参加するという国もあるだろう。私は、そのような選手、また、国に対してこそ声援をおくりたいと思う。

参加することの意義を感じられるオリンピックこそ、私は期待したい。これが、このドラマを一年間見てきて、最後に思うことである。

2019年12月16日記

追記 2019-12-24
この続きは、余談として、
やまもも書斎記 2019年12月24日
『いだてん』あれこれ(余談)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/24/9193198

ガマズミ2019-12-18

2019-12-18 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので花の写真の日。今日は、ガマズミの実である。

前回は、
やまもも書斎記 2019年12月11日
ピラカンサ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/11/9187892

たぶん、ガマズミだろうと思ってみている。初夏に白い花の咲いているのを確認している。

我が家から少しあるいたところにある。図鑑などに載っている写真は、多くの実がついているのだが、どうも私の見ているものは、そんなに多くの実をつけない。たぶん、鳥が食べてしまうのだろうと思う。(ここに掲載の写真は、まだ秋の早いうちに写しておいたものである。冬の今になって見てみると、すでに実はなくなっている。)

日本国語大辞典(ジャパンナレッジ)を見る。

スイカズラ科の落葉低木。北海道南部以南の各地、朝鮮・中国の山野に生え、庭木ともする。

とありさらに説明がある。

用例は、重訂本草綱目啓蒙(1847)、日本植物名彙(1884)にある。それから、上田敏の「海潮音」にもある。1905。

『言海』にも載っている。

がまずみ     名 樹ノ名、山野ニ多シ、高サ一丈許、葉ハ、略、圓クシテ、鋸齒アリ、大サ二寸許、深綠ニシテ、對生ス、夏、枝ノ頂ニ、五瓣ノ小白花、簇リ開クコト、傘ノ如シ、實ノ大サ、あづきノ如ク、秋、熟シテ赤ク、美シ。 莢蒾

ガマズミ

ガマズミ

ガマズミ

ガマズミ

ガマズミ

ガマズミ

Nikon D500
AF-S DX Micro NIKKOR 85mm f/3.5G ED VR

2019年12月16日記

追記 2019-12-25
この続きは、
やまもも書斎記 2019年12月25日
ハゼノキ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/25/9193563

国語語彙史研究会(123回)に行ってきた2019-12-19

2019-12-19 當山日出夫(とうやまひでお)

この前の土曜日(2019年12月14日)。国語語彙史研究会(第一二三回)が、京都大学であったので行ってきた。

ちょっと早めに家を出た。駅まで送ってもらう時間の都合である。近鉄から京阪をのりついで、出町柳まで。手頃な店で昼食をすませて、キャンパスまで。

ちょっと時間があった。喫茶店などに行ってもいいかとおもったのだが、そう寒い日でもなかったので、時計台のところの楠のところのベンチに腰掛けて、時間をすごす。iPodで音楽を聴いていた。小春日和というほどではないが、寒風が吹くという感じでもなかった。

教室は、いつも使うような会場にくらべれば、ちょっと小さかっただろうか。(後で聞くと、この日は、学校の入試行事の関係で、吉田南の教室が使えなくなったので、急遽さがして、その教室になったとのこと。)

発表は三件。歌集(八代集)の語彙の計量分析。「あたり」の研究。人間の談話行動につての研究。多彩な発表であり、いろいろと勉強になるところがあった。

終わって懇親会。これは、だいたい京大で学会があるときの定番である、門の横のレストラン。

久しぶりに会う人もいたりして、楽しい会であった。ただ、このところ、ちょっと事情があって、あまり外に出ることをしない。散歩にも出ない。そのせいか、懇親会の間、立っているだけで足がつかれてきた。以前は、こんなことはなかったのだが、我ながら年を取ったものだと感じた。

そのせいもあって、懇親会が終了したら、すぐに帰った。家に帰ったら、一〇時ごろになっていただろうか。とりあえず、風呂にはいって寝てしまった。

次回は、来年の四月に大阪大学で開催である。これも、よほど事情が無い限り出席しようと思っている。もういまさら、論文を書いたりしようとは思わないのだが、研究発表を聞いて、学界の最新動向に触れるということは続けていこうと思っている。

2019年12月16日記

『こころ』夏目漱石2019-12-20

2019-12-20 當山日出夫(とうやまひでお)

こころ

夏目漱石.『こころ』(新潮文庫).新潮社.1952(2004.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/101013/

続きである。
やまもも書斎記 2019年12月12日
『行人』夏目漱石
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/12/9188301

この作品を読むのも、何回目になるだろうか。やはり読むたびに、いろいろ思うことがある。

先生の奥さんは、いったいどう思っているのだろうか……ふとこんなことが気にかかる。最後、死を選ぶことになる先生は、その奥さんに対しては、秘密をたもとうとしている。私への手紙においても、その最後で、秘密を守ってくれるようにたのんでいる。

「私は妻には何も知らせたくないのです。妻が己の過去に対してもる記憶を、なるべく純白に保存して置いて遣りたいのが私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後でも、妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、凡て腹の中にしまって置いて下さい。」(p.327)

そして、その奥さんがどのように作中で描かれるかというと、女学生ことばをつかう人物として出てくる。つまり、『三四郎』の美禰子や、『それから』の三千代、『門』のお米……これらの女性のイメージをもっている。このような女性の造形については、漱石は、『三四郎』から一貫していると言っていいのかもしれない。

この女性のイメージが変わるのは、次の『道草』になってからである。そして、女学生ことばをつかわなくなった女性については、漱石は、そのこころのうちを描くことになる。『明暗』がそうである。

また、今回、新潮文庫版で順番に読んで来て、この作品になって、「明治」という時代を感じさせる作品であると思う。あるいは、「明治の精神」とでも言った方がいいだろうか。『猫』以来、日本の近代については、常に批判的であった漱石が、この『こころ』にあっては、「明治」という時代の精神を肯定している。偽物の文明開化を批判することはあっても、自らが生きてきた「明治」という時代の終焉を見届けた漱石にとっては、その時代を、自らの人生の上にひきうけざるをえないと考えたのかもしれない。

『こころ』が読まれていく限り、日本の近代における「明治」の持つ意味を、たえず読者に問いかけることになる、このように思ってみる。「明治」という時代は、明治天皇の時代であった。そして、近代……それがいかに西欧の偽物にすぎないとしても……を達成した時代でもあった。「明治」を経て後、漱石は、その近代のなかに生きざるをえない人間を描くことになる。続く『道草』、さらには『明暗』においては、近代の人間として生きざるをえない人びとを描くことになる。今は、このように思ってみる。

追記 2019-12-21
この続きは、
やまもも書斎記 2019年12月21日
『道草』夏目漱石
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/21/9191933