『春燈』宮尾登美子 ― 2020-01-10
2020-01-10 當山日出夫(とうやまひでお)

宮尾登美子.『春燈』(新潮文庫).新潮社.1991(2007.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/129305/
続きである。
やまもも書斎記 2020年1月9日
『櫂』宮尾登美子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/01/09/9199891
上記の本の書誌を書いて、HPを検索してみたのだが、新潮社のHPには、「置屋の娘に生まれた綾子の青春時代。」と書いてある。これはおかしい。父の岩伍の商売は、芸妓娼妓紹介業である。別のことばでいえば、女衒である。置屋ではない。
新潮社のHPが間違うぐらいだから……すでに、この芸妓娼妓紹介業というものが、すたれて久しいというべきであろう。
その父の職業についての、反発、嫌悪という感情。そして、同時にある、土佐で知らぬ人のない岩伍の家の娘としての誇り、自尊心……このアンビバレントな感情のゆれうごきを、実に見事にこの小説は描き出している。
時代背景は、昭和になって日中戦争がはじまったころから、太平洋戦争の開戦、そして、徐々に戦局が不利になり、生活が逼迫していく時代である。この時代に、本来なら多感な思春期をむかえるであろう少女……綾子……は、ある意味でかたくなである。家の稼業が芸妓娼妓紹介業ということをどうしても意識してしまう。あるいは、その親の影響が常につきまとう生活を、心底嫌ってもいる。だが、同時に、きまま、わがままな娘でもある。ただ、勉強はできる。
勉強はできるといっても、小学校を出てから、第一高女の試験に落ちてしまう。これは、ひょっとして、家の稼業のせいか、綾子はこのことを悔やむ。学校でも、生徒のなかで人望があり、成績もいいのだが、教師との関係はどうもうまくいかない。
最終的には、女学校を終えて、国民学校の代用教員ということで、山間の僻地の学校に赴任することになる。が、ここでも、親の影響を感じる生活がつづく。そこにおこった結婚話。綾子は、自由になるため、親の岩伍から今度こそ離れるために、結婚を決意することになる。
作品の発表順からいうと、この『春燈』は、次の『朱夏』より後になって書かれている。私は、『朱夏』は読んだと憶えているのだが、この『春燈』は、今回がはじめてである。無論、これは、『櫂』からつづく、自伝的作品の系譜につらなる。
『櫂』につづけて、この『春燈』を読んだ。『櫂』は、母親(本当の生みの母ではないが)の喜和の視点で描かれていた。『春燈』になると、視点が完全にきりかわって、娘の綾子になる。ところどころ、内容的には重複する記述がある。これは、自伝的作品を、視点を切り替えて書くということからくるものである。
それにしても、『春燈』を読んで思う、よく作者(宮尾登美子)は、このような作品を書いたものであると。自伝的作品ということで、どうしても、読者は綾子に宮尾登美子のイメージを重ねて読んでしまうことになる。それを承知のうえで、ここまで、主人公の綾子のこころのうち、それも非常に錯綜し、アンビバレントな性格の複雑な人物を、克明に描きだしたことに感服する。
あるいは、つづく『朱夏』を書き得たからこそ、さかのぼって綾子の生いたちを描くことができたのかもしれない。また、『岩伍覚え書』のような作品を書いて(これは、私も読んでいる)、父の職業について、歴史的、社会的に、位置づけることができたから、その娘の綾子の視点で、その成長について語ることができたのかとも思う。
続けて『朱夏』である。これは、確か、本が出たときに買って読んでいる。新しい文庫本で、再度読んでみることにしたい。
2019年12月21日記
https://www.shinchosha.co.jp/book/129305/
続きである。
やまもも書斎記 2020年1月9日
『櫂』宮尾登美子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/01/09/9199891
上記の本の書誌を書いて、HPを検索してみたのだが、新潮社のHPには、「置屋の娘に生まれた綾子の青春時代。」と書いてある。これはおかしい。父の岩伍の商売は、芸妓娼妓紹介業である。別のことばでいえば、女衒である。置屋ではない。
新潮社のHPが間違うぐらいだから……すでに、この芸妓娼妓紹介業というものが、すたれて久しいというべきであろう。
その父の職業についての、反発、嫌悪という感情。そして、同時にある、土佐で知らぬ人のない岩伍の家の娘としての誇り、自尊心……このアンビバレントな感情のゆれうごきを、実に見事にこの小説は描き出している。
時代背景は、昭和になって日中戦争がはじまったころから、太平洋戦争の開戦、そして、徐々に戦局が不利になり、生活が逼迫していく時代である。この時代に、本来なら多感な思春期をむかえるであろう少女……綾子……は、ある意味でかたくなである。家の稼業が芸妓娼妓紹介業ということをどうしても意識してしまう。あるいは、その親の影響が常につきまとう生活を、心底嫌ってもいる。だが、同時に、きまま、わがままな娘でもある。ただ、勉強はできる。
勉強はできるといっても、小学校を出てから、第一高女の試験に落ちてしまう。これは、ひょっとして、家の稼業のせいか、綾子はこのことを悔やむ。学校でも、生徒のなかで人望があり、成績もいいのだが、教師との関係はどうもうまくいかない。
最終的には、女学校を終えて、国民学校の代用教員ということで、山間の僻地の学校に赴任することになる。が、ここでも、親の影響を感じる生活がつづく。そこにおこった結婚話。綾子は、自由になるため、親の岩伍から今度こそ離れるために、結婚を決意することになる。
作品の発表順からいうと、この『春燈』は、次の『朱夏』より後になって書かれている。私は、『朱夏』は読んだと憶えているのだが、この『春燈』は、今回がはじめてである。無論、これは、『櫂』からつづく、自伝的作品の系譜につらなる。
『櫂』につづけて、この『春燈』を読んだ。『櫂』は、母親(本当の生みの母ではないが)の喜和の視点で描かれていた。『春燈』になると、視点が完全にきりかわって、娘の綾子になる。ところどころ、内容的には重複する記述がある。これは、自伝的作品を、視点を切り替えて書くということからくるものである。
それにしても、『春燈』を読んで思う、よく作者(宮尾登美子)は、このような作品を書いたものであると。自伝的作品ということで、どうしても、読者は綾子に宮尾登美子のイメージを重ねて読んでしまうことになる。それを承知のうえで、ここまで、主人公の綾子のこころのうち、それも非常に錯綜し、アンビバレントな性格の複雑な人物を、克明に描きだしたことに感服する。
あるいは、つづく『朱夏』を書き得たからこそ、さかのぼって綾子の生いたちを描くことができたのかもしれない。また、『岩伍覚え書』のような作品を書いて(これは、私も読んでいる)、父の職業について、歴史的、社会的に、位置づけることができたから、その娘の綾子の視点で、その成長について語ることができたのかとも思う。
続けて『朱夏』である。これは、確か、本が出たときに買って読んでいる。新しい文庫本で、再度読んでみることにしたい。
2019年12月21日記
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