新潮日本古典集成『源氏物語』(八) ― 2020-01-13
2020-01-13 當山日出夫(とうやまひでお)

石田穣二・清水好子(校注).『源氏物語』(八)新潮日本古典集成(新装版).新潮社.2014
https://www.shinchosha.co.jp/book/620825/
続きである。
やまもも書斎記 2020年1月6日
新潮日本古典集成『源氏物語』(七)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/01/06/9198739
この本を前回読んだときのことは、
やまもも書斎記 2019年3月2日
『源氏物語』(八)新潮日本古典集成
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/02/9042336
※以下の文章は、昨年(2019)のうち、夏の間に、書いておいたものである。
最後の八冊目には「浮舟」から「夢浮橋」をおさめる。
今年になって二回目の『源氏物語』通読である。読み始めたきっかけは、『源氏物語』と「文字」ということを考えてみようということであった。『源氏物語』の世界のなかで、「文字」あるいは「書く」ということは、どのような意味があるのか、自分でテキストを読みながら考えてみたいと思った。
そう思って読んで見ると、たしかに『源氏物語』は、「書く」ということと密接に関連してなりたっている。特に最後の「夢浮橋」において、薫の使いとして小君が、消息を、出家してしまった浮舟のところにもっていくことで、話が終わっている。以前に読んだときには、このような問題意識をもたずに読んできたせいもあるのだが、消息(書簡)を持って行くことが、物語の展開のうえで重要な意味を持っていることに気付かずに過ごしてきてしまった。
また、「宇治十帖」になってからもそうなのであるが、登場人物たちは、頻繁に手紙のやりとりをしている。歌が出てくるときには、どんな紙に、どんな筆跡で書いたのか、詳細に説明がある。たぶん、このような説明のない歌のやりとりの方が少ないかもしれない。
さらに、書いたもの(書簡)が無い場合、口頭でつたえるような場合には、そうであったことのむね、断り書きがある。つまりこれは、基本が、書いたものをわたすということが前提になっている記述と思われる。
ところで、「宇治十帖」であるが、本編とは同じ作者なのであろうか、あるいは、別作者なのであろうか。古来より、様々に説があるところである。今、思うことを書いてみるならば、同じ人間が書いたとするならば、それは、かなり本編とは筆致が異なっている。逆に、別の人間が書いたとするならば、本編ほどの作品を書く、それ以上の物語の筆力がなければ、「宇治十帖」は書けないだろう。どちらにも傾きかねる、微妙な印象を持つことになる。
ただ、そうはいいながらも、「宇治十帖」もまた、先行する昔物語や説話の世界があって成立していることは感じ取れる。失踪した浮舟が発見されるあたりは、観音霊験譚であろうし、また、「宇治十帖」の主要なモチーフになっている、二人の男性(薫・匂宮)に言い寄られて身をなげてしまう女性(浮舟)という設定も、先行する話があってこそ書けたものだろう。この意味においては、『源氏物語』の物語世界は、説話の世界とつらなるところがある。
後期の講義の準備と思って読んでみた『源氏物語』であるが、もう老後の読書である。ただ、楽しみのために本のページを繰ることになってしまうところがある。これは、これでいいのだろう。もはや『源氏物語』で論文を書こうという気もない。しかし、まだ、『源氏物語』であれば、現代の校注本で、さほど難儀することなく読める、このような読書をつづけていきたいものである。
https://www.shinchosha.co.jp/book/620825/
続きである。
やまもも書斎記 2020年1月6日
新潮日本古典集成『源氏物語』(七)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/01/06/9198739
この本を前回読んだときのことは、
やまもも書斎記 2019年3月2日
『源氏物語』(八)新潮日本古典集成
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/02/9042336
※以下の文章は、昨年(2019)のうち、夏の間に、書いておいたものである。
最後の八冊目には「浮舟」から「夢浮橋」をおさめる。
今年になって二回目の『源氏物語』通読である。読み始めたきっかけは、『源氏物語』と「文字」ということを考えてみようということであった。『源氏物語』の世界のなかで、「文字」あるいは「書く」ということは、どのような意味があるのか、自分でテキストを読みながら考えてみたいと思った。
そう思って読んで見ると、たしかに『源氏物語』は、「書く」ということと密接に関連してなりたっている。特に最後の「夢浮橋」において、薫の使いとして小君が、消息を、出家してしまった浮舟のところにもっていくことで、話が終わっている。以前に読んだときには、このような問題意識をもたずに読んできたせいもあるのだが、消息(書簡)を持って行くことが、物語の展開のうえで重要な意味を持っていることに気付かずに過ごしてきてしまった。
また、「宇治十帖」になってからもそうなのであるが、登場人物たちは、頻繁に手紙のやりとりをしている。歌が出てくるときには、どんな紙に、どんな筆跡で書いたのか、詳細に説明がある。たぶん、このような説明のない歌のやりとりの方が少ないかもしれない。
さらに、書いたもの(書簡)が無い場合、口頭でつたえるような場合には、そうであったことのむね、断り書きがある。つまりこれは、基本が、書いたものをわたすということが前提になっている記述と思われる。
ところで、「宇治十帖」であるが、本編とは同じ作者なのであろうか、あるいは、別作者なのであろうか。古来より、様々に説があるところである。今、思うことを書いてみるならば、同じ人間が書いたとするならば、それは、かなり本編とは筆致が異なっている。逆に、別の人間が書いたとするならば、本編ほどの作品を書く、それ以上の物語の筆力がなければ、「宇治十帖」は書けないだろう。どちらにも傾きかねる、微妙な印象を持つことになる。
ただ、そうはいいながらも、「宇治十帖」もまた、先行する昔物語や説話の世界があって成立していることは感じ取れる。失踪した浮舟が発見されるあたりは、観音霊験譚であろうし、また、「宇治十帖」の主要なモチーフになっている、二人の男性(薫・匂宮)に言い寄られて身をなげてしまう女性(浮舟)という設定も、先行する話があってこそ書けたものだろう。この意味においては、『源氏物語』の物語世界は、説話の世界とつらなるところがある。
後期の講義の準備と思って読んでみた『源氏物語』であるが、もう老後の読書である。ただ、楽しみのために本のページを繰ることになってしまうところがある。これは、これでいいのだろう。もはや『源氏物語』で論文を書こうという気もない。しかし、まだ、『源氏物語』であれば、現代の校注本で、さほど難儀することなく読める、このような読書をつづけていきたいものである。
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