『朱夏』宮尾登美子2020-01-14

2020-01-14 當山日出夫(とうやまひでお)

朱夏

宮尾登美子.『朱夏』(新潮文庫).新潮社.1998(2006.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/129309/

続きである。
やまもも書斎記
『春燈』宮尾登美子 2020年1月10日
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/01/10/9200266

書かれた順番からいうと、この『朱夏』の方が、『春燈』より先になる。が、小説の時間のうえでは、『櫂』からはじまって、次に『春燈』、そして『朱夏』となる。今回は、小説の時間の順にしたがって読んだ。

この作品、出たときに買って読んだのを憶えている。そのころ、宮尾登美子の作品の多くを買って読んでいたものである。『序の舞』が新聞に連載されていたのも、時折読んだかと思う。

この『朱夏』であるが……作者の高知での結婚からスタートして、満州に舞台は移る。昭和二〇年のことである。その開拓村の教員の妻として、満州国に赴くことになる。そこでの生活、そして終戦、その後の難民生活を経て、日本に帰国するまでの、およそ一年半ほどのことが記される。

『朱夏』を読んで感じることは、やはり、このような体験が、かつての日本にはあったのだ、という感慨であり、また、よくこれを、「文学」として描くことができているという、感嘆のようなものである。

描かれている難民生活は、悲惨のひとことにつきると言ってよいだろう。が、ノンフィクションではなく、「小説」として、綾子という主人公の物語として描くことによって、その体験のもつ意味をかみしめることになっていると感じる。

『櫂』『春燈』と順番に読むとであるが、綾子は、その性格の強さが際立っている。高知の街で芸妓娼妓紹介業の家に生まれ育った経歴からくるのであろう、その独特の人間観が、綾子の個性と言っていいだろうか、過酷な逆境にあっても、まわりの人間から距離のある存在として、浮かびあがってくる。このような綾子の存在を、「小説」という形式において描くことは、おそらく作者(宮尾登美子)にとって、どうしようもない通過儀礼のようなものであったかとも思う。

この小説も、ある意味では明るい。どんなに悲惨な経験があったとしても、それを、作者は距離をおいてながめ、回想しているところがある。それが、ある意味で、このような重厚な作品を読みながらでも、最後は、無事に生きているだろう、その確信につながっている。

また、この作品は、日本における満州とはどのようなものであったのか、満州にわたった人びとにとって、その地は何であり、また、故郷の日本は何であったのか……について、考えさせてくれる。この意味において、この『朱夏』は、読まれ続けるべき作品であろうと思う。

2019年12月23日記

追記 2020-01-16
この続きは、
やまもも書斎記 2020年1月16日
『仁淀川』宮尾登美子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/01/16/9202540