『麒麟がくる』あれこれ「光秀、西へ」2020-01-21

2020-01-21 當山日出夫(とうやまひでお)

『麒麟がくる』第一回「光秀、西へ」
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/1.html

トラブルがあったせいなのだが、今年の大河ドラマはスタートが少しおくれて、一九日の放送からとなった。そのせいもあってか、NHKがさかんに番組の宣伝をしていた。そのため、放送が始まるまでに、主な登場人物のことなど、いつの間にか憶えてしまった。

ともあれ、今回の大河ドラマの主人公は、明智光秀である。ということは、本能寺の変のところまで描くことになるのだろう。本能寺の変で信長が死ぬことになるはずだが、それで「麒麟」が来たことになるのだろうか、ふと今からそんなことを思ってみる。

ただ、このドラマの最終的な着地点はまだ決まっていないらしい。どのような本能寺の変を描くことになるのか、これが楽しみである。

第一回の放送を見たところで感想など書けば次の二点ぐらいだろうか。

第一は、やはり、従来のステレオタイプをなぞった戦国時代ドラマになっていること。

これは悪いと思っているのではない。このようなドラマの作り方がある、という一つの見方であることを、確認しておきたいのである。

ドラマのスタートは、野盗の襲撃から村人……その村人の仕事は、水田の稲作のようである……を守ること。この設定、どうしても、黒澤明の『七人の侍』を思ってしまう。水田で稲作をする無力な農民と、それを守る武士……この設定は、こういう歴史観なのだろうと思って見ていた。

第二は、堺の街の繁栄と京の荒廃。

実際の当時の京の街がどうであったか、これは歴史的にいろいろ言えそうだが、ドラマでは、商業で栄える堺の街と、戦乱で荒廃した京都を対照的に描いていた。この京の地において、覇権を確立することこそが、このドラマのテーマである「麒麟」に他ならないであろう。そして、その京において起こったのが、本能寺の変である。

以上の二点が見ていて思ったことなどである。

さらに書いておくならば、このドラマにNHKは力をいれてつくっていると感じる。特に、後半の京の街での火事のシーンなどは、撮影がたいへんだったろうと思うが、リアルな描写であった。

国語学、日本語学の観点から見るならば……このドラマでは、特に地方の方言は出てこないようだ。武士においても、極端な武士ことばとでもいうべき役割語をつかっていない。また、庶民という設定の登場人物でも、普通のことばをつかうようになっている。ただ、これも、これから京の公家などが登場するようになると、どうなるだろうか。

それから、余計なことかもしれないが、ドラマの最後で、ナレーション(市川海老蔵)が年号の「天文」を「てんぶん」と読んでいた。

次回は、戦国ドラマらしく合戦の場面となるようだ。これも期待して見ることにしよう。

2020年1月20日記

追記 2020-01-28
この続きは、
やまもも書斎記 2020年1月28日
『麒麟がくる』あれこれ「道三の罠」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/01/28/9207333

ソヨゴ2020-01-22

2020-01-22 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので花の写真の日。今日は花ではなく、ソヨゴ「冬青」の実である。

前回は、
やまもも書斎記 2020年1月15日
梅の冬芽
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/01/15/9202194

我が家から、少しあるいたところにある。ソヨゴは「冬青」と書く。我が家の近くに、三箇所ほど、この木のあることを確認している。そのうちの一つ、多く実をつける木を主に観察している。

初夏のころに、白っぽい小さな花を咲かせる。それが、実になって、始めは青い。秋になるころ、赤くなって、冬になると赤い実が目立つようになる。冬になっても、葉っぱは落ちない。常緑樹である。この木の実は、あまり鳥が食べないようである。実がなっても、かなり後まで残っているのが観察できる。

掲載の写真は、昨年の秋から冬にかけてのころに写しておいたものである。まだ、実の色に少し青みが残っているのが見てとれる。

この木に、また花の咲くころには、花の写真を撮りたいと思っている。

ソヨゴ

ソヨゴ

ソヨゴ

ソヨゴ

ソヨゴ

ソヨゴ

ソヨゴ

Nikon D500
AF-S DX Micro NIKKOR 85mm f/3.5G ED VR

2020年1月20日記

追記 2020-01-29
この続きは、
やまもも書斎記 2020年1月29日
センリョウ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/01/29/9207722

『きのね 上』宮尾登美子2020-01-23

2020-01-23 當山日出夫(とうやまひでお)

きのね(上)

宮尾登美子.『きのね 上』(新潮文庫).新潮社.1999(朝日新聞社.1990)
https://www.shinchosha.co.jp/book/129310/

私の今の生活では、歌舞伎というものを劇場で見ることがない。そもそも、外出を基本的にしない。映画もほとんどみない。この意味で、この小説の舞台としている、歌舞伎の家……梨園ともいうべきか……のことについては、ほとんど予備知識がない。かろうじて、この小説が、市川團十郎をモデルにしていることぐらいしか、理解がおよばない。

しかし、小説として読んで実に面白い。宮尾登美子の小説世界のなかにどっぷりとひたりこんでしまうような印象がある。

宮尾登美子は女性を主人公とした小説を多く書いている。だが、その主人公は、決して幸福な生活を送っているというわけではない。苦労の多い、あるいは、虐げられたといってもよいような境遇のなかで、自分の生きる場所を探している。

そして、より興味深いことは、このような不幸な境遇にある女性を描いていて、かならずしも、善良そのものには書いていないことである。登場人物のこころの奥底のひだにわけいっていくのだが、そこにはなにかしら薄黒い影のようなものがある。あるいはあえていえば、邪悪な何か、とでもいっていいだろうか。

それは、場合によっては嫉妬とでもいうべき感情かもしれない。また、自分のおかれた境遇に対する恨みつらみの感情かもしれない。

一方で、このようなこころの影のようなものを含みながら、同時に、自分の生活に充足し、希望を感じさせるところもある。このところの、心理描写の奥行きと幅が、宮尾登美子の作品の魅力になっていることはたしかだろう。

ふと思って、『櫂』から宮尾登美子の作品を読みなおしてきているのだが、すでに読んだ作品を再度読みなおしてみたくなっている。『序の舞』とか『一絃の琴』とか、若いときに、本が出たときに読んだものである。自分がこの年齢になってから読みなおすとどう感じるだろうか。

ともあれ、つづけて、文庫本の下巻を読むことにしよう。

2019年12月28日記

追記 2020-01-24
この続きは、
やまもも書斎記 2020年1月24日
『きのね 下』宮尾登美子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/01/24/9205709

『きのね 下』宮尾登美子2020-01-24

2020-01-24 當山日出夫(とうやまひでお)

きのね(下)

宮尾登美子.『きのね 下』(新潮文庫).新潮社.1999(朝日新聞社.1990)
https://www.shinchosha.co.jp/book/129311/

続きである。
やまもも書斎記 2020年1月24日
『きのね 上』宮尾登美子

この小説の単行本が、一九九〇年。ということは、小説に登場する、その後の第十二代市川團十郎がまだ存命のときということになる。

私は歌舞伎の分野のことには疎いので、この小説が、どれほど実際にあったできごと、あるいは、歌舞伎役者の世界のことを、描いているのか見極めることがむずかしい。だが、読んで、その小説の世界のなかにひたっていくことを感じる。

下巻まで読んで感じるところは、次の二点だろうか。

第一には、人間の邪悪なこころである。

邪悪といってはいいすぎになるのかもしれないが、どんなに清らかなこころのように見えても、そのこころの奥底には、何かしら影がある。それは、場合によっては、嫉妬であるかもしれないし、あるいは、悔悟の念であるのかもしれない。また、時としては、それが、暴力的なかたちをとって現れることもあるだろう。

その人間のこころの奥底にある影のようなものを、宮尾登美子は、実に丹念に描く。小説の主人公、光乃によりそってこの小説は進行するのであるが、光乃のこころのうちは、揺れうごいている。ときに聖書を読みこころのなぐさめにするときもあるが、場合によっては、役者の妻としての立場がどうあるべきか、悩むこともある。 

一方、光乃が、ついには結婚することになる夫の雪雄(玄十郎)も、また、芸にかけては一流であったかもしれないが、家庭の人としては、常によい夫であったとも限らない。そこは、芸人としての生活がある。

第二には、老いと病である。

病気をあつかった小説は多くある。そのなかにあって、宮尾登美子という作家は、老いとか病とかを、非常に冷静に、あるいは、冷酷なまでに、見つめるとことろがある。この作品においても、最後は、雪雄も病にたおれ、光乃自身も、病気で亡くなる。このあたりは、伝記的な事実に即して書いてあるのだろうと思うが、読んで行って、おもわずに読みふけってしまう。(このあたりのことは、自分の身の上におこったことと引き比べてというところもあるのだが。)

以上の二点が、この小説を読んで感じるところなどである。

たぶん、歌舞伎について造詣のある人が読むならば、この小説は、ぐっと面白い作品であるにちがいない。残念ながら、私には、それだけの知識がない。とはいえ、上下巻をほぼ一気に読んでしまった。特に下巻がいい。晴れて妻となることができ、夫(雪雄)も、玄十郎を襲名する。このあたりの、歌舞伎役者の世界における、主人公の光乃の視点から、細やかにえがかれる。そして、さまざまに揺れうごく光乃のこころのうちに共感しながら読むことになる。

だが、光乃の生涯は、ある意味では忍従の一生であったのかもしれない。決して、近代という社会のなかで自立した生き方をしたというわけではない。夫があり、歌舞伎の家があり、そのなかで生きた生涯であった。あるいは、もう、このような人生を描いた小説というのは、はやらない時代をむかえているのかもしれない。今の若い人たちは、この小説をどう読むだろうか。

2019年12月29日記

『頼むから静かにしてくれ Ⅰ』レイモンド・カーヴァー/村上春樹(訳)2020-01-25

2020-01-25 當山日出夫(とうやまひでお)

頼むから静かにしてくれ(1)

レイモンド・カーヴァー.村上春樹(訳).『頼むから静かにしてくれ Ⅰ』(村上春樹 翻訳ライブラリー).中央公論新社.2006
http://www.chuko.co.jp/tanko/2006/01/403495.html

続きである。
やまもも書斎記 2020年1月11日
『村上ラヂオ3』村上春樹・大橋歩
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/01/11/9200606

ようやく春休み、というわけでもないが、後期の授業が終わったので、レイモンド・カーヴァーの作品を手にした。村上春樹訳である。この『頼むから静かにしてくれ』は、レイモンド・カーヴァーの最初の作品集とのこと。これを、二分冊にして刊行してある。

まずは、第一冊目からである。レイモンド・カーヴァーという作家は、アメリカの二〇世紀後半、七〇年代あたりを中心として、その社会の日常生活のなかにある、不条理、不安、やるせなさ、とでもいうべきものを、あざやかなタッチで描いた作家ということになる。(ただ、このように思って読むのは、村上春樹の解説にひかれてということもあるかもしれないが。)

ここしばらく、村上春樹からも、また、その翻訳作品からもすこし遠ざかっていた。だが、ちょっと時間が空いたが、この作品を手にして、まさに、レイモンド・カーヴァーの文学世界のなかに引き込まれるような感覚になる。

「Ⅰ」を読んで気にいったのは、「60エーカー」。ふとヘミングウェイを思い浮かべて読んでしまった。解説によると、やはりこの作品は、異色の作品であるとのこと。そして、レイモンド・カーヴァーは、この作品のような方向性には、結局向かうことがなかった。

(同じことを繰り返し書くことになるが)たぶん、村上春樹が訳していなければ、私は、レイモンド・カーヴァーの作品を読まずに過ごしていたかもしれない。訳者で、本を選んで読むというのも、一つの方法であろうとは思う。

つづけて、「Ⅱ」を読むことにする。

2020年1月23日記

追記 2020-02-01
この続きは、
やまもも書斎記 2020年2月1日
『頼むから静かにしてくれ Ⅱ』レイモンド・カーヴァー/村上春樹(訳)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/02/01/9208924

『スカーレット』あれこれ「熱くなる瞬間」2020-01-26

2020-01-26 當山日出夫(とうやまひでお)

『スカーレット』第16週「熱くなる瞬間」
https://www.nhk.or.jp/scarlet/story/index16_200120.html

前回は、
やまもも書斎記 2020年1月19日
『スカーレット』あれこれ「優しさが交差して」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/01/19/9203726

この週で喜美子は、陶芸家への道を歩み始めることになる。

工房の電気窯が故障する。これをきっかけに、喜美子は薪をたく穴窯をつくることを思いつく。昔、山でひろった陶器のかけらの色を出したいという気持ちになる。このあたりの流れは、自然に描かれていたようだが……しかし、まだ、喜美子は、コンテストに入賞したということもない。まだ陶芸家としては知られていない。それが、穴窯で陶芸の方向に進むというのは、ちょっと無理があるかな、という感じがしないでもない。だが、このあたりのことを、夫の八郎との協力関係の構築ということで、うまく情感を込めて描いていたように思う。

穴窯はできたものの、目標の一二〇〇度までなかなか温度があがらない。無事に喜美子は作品を作ることができるだろうか。

一方、喜美子の家族のこと、妹の百合子のこと、信作とのこと、それから、照子とのことなど、地元の信楽の人びととの生活を、こまやかに、印象的に描いてあったと思う。

ところで、弟子の三津は、喜美子と八郎の夫婦にとってどのような存在になっていくのであろうか。新しい窯のなかで燃える炎は、あたかも喜美子の心のうちの嫉妬心が燃え上がっているかのごとくであった。

次週、大阪の大久保さんも再登場のようである。喜美子は無事に陶芸家の道を歩むことができるだろうか。どのような展開になるか楽しみに見ることにしよう。

2020年1月25日記

追記 2020-02-02
この続きは、
やまもも書斎記 2020年2月2日
『スカーレット』あれこれ「涙のち晴れ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/02/02/9209362

『太平記』岩波文庫(二)2020-01-27

2020-01-27 當山日出夫(とうやまひでお)

太平記(2)

兵藤裕己(校注).『太平記』(二)(岩波文庫).岩波書店.2014
https://www.iwanami.co.jp/book/b245753.html

続きである。
やまもも書斎記 2020年1月20日
『太平記』岩波文庫(一)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/01/20/9204142

『太平記』を読んでおきたいと思って読み始めたのだが、第一冊目(岩波文庫)を読んだのが、昨年(二〇一九)の暮れのこと。それから、一ヶ月以上たってしまった。その間、宮尾登美子の本など読んだりしているうちに、今になってしまった。(宮尾登美子は、今も読んでいるところである。)

この二冊目は、集中的に読んだというのではないので、はっきりいって、物語のストーリーがすんなり頭にはいるということがなかった。各巻には、その概要が書いてあるので、それを読んでから本文を読んでいる。だから、まったく途方にくれるということはなかったのであるが、しかし、この岩波文庫本のように親切に、その巻の概要を書いておいてくれなければ、いったい誰が誰に対して何をして、どのような歴史の流れがあってという、大局的な理解が及ばなかったにちがいない。

ようやく、この年度の大学の講義も終わったので、これからは、『太平記』の残りを集中的に読んでみようかと思っている。

第二冊目を読んだ印象としては……いったい、この物語の登場人物たちは、いったい何のために行動しているのであろうか、という素朴な疑問がある。

第一に、忠義のためには、あまりにもあっけなく、あっさりと自害してしまう。そんなに簡単に死んでしまわなくてもいいのにと思うようなところで、死んでしまう。

第二に、これは、上記のことと相反することなのだが、すぐに降参してしまう。作中の用語では、「降人」と書いてある。

以上の二つ、自らの命をかけて忠義をつらぬくところと、逆に、あっさりと降参してしてしまうところと、どうも、このあたりが、読んでいてもどかしい。いったい、これらの登場人物はいったい何を考えて戦っているのだろうか、わけがわからなくなる。

これも、歴史の方の知識をふまえて、歴史的にどのような立場の人間がどのように行動しているのか、はっきり認識できて読むならば、あるいは面白いとことなのかもしれないと思って見る。ここは、とりあえず、全巻(六冊)を通読してから、改めて『太平記』関連の本を読んで、さらに、再度、『太平記』にもどって読みなおしてみたいと思っている。

ところで、岩波文庫の解説を読んで思うことだが、確かに、『太平記』の文章は、空虚でもあり、グロテスクでもある。しかし、国語学的、日本語学的な目で読んでみるならば、非常に面白いところがある。そして、中世の日本語における文章、あるいは、物語る論理とでもいおうか……これについては、いろいろと思うところがある。『平家物語』の文章とも違う。無論、『今昔物語集』などとも違っている。また、中世の「御伽草子」の類とも異なる。日本語の文章史という観点からは、きわめて興味深い。

岩波文庫の校注を読んで、たぶん国語学、日本語学の方面からの助言を得ているだろうことは推測できるのだが、特にどのように参照したとは明示的に書いていない。このあたり、国語学、日本語学の方面からのアプローチに、これらか期待したいところである。

2020年1月16日記

追記 2020-02-03
この続きは、
やまもも書斎記 2020年2月3日
『太平記』岩波文庫(三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/02/03/9209750

『麒麟がくる』あれこれ「道三の罠」2020-01-28

2020-01-28 當山日出夫(とうやまひでお)

『麒麟がくる』第二回「道三の罠」
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/2.html

前回は、
やまもも書斎記 2020年1月21日
『麒麟がくる』あれこれ「光秀、西へ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/01/21/9204604

今回の見どころは、次の二点であろうか。

第一に、合戦の場面。

旧来の大河ドラマで、戦国時代の合戦を描くとすると、広々とした草原を騎馬武者の軍団がつきすすむという感じだったかと憶えている。これが、近年になって変わってきているように感じる。

近年の戦国時代の合戦を描いたものとしては、『真田丸』があった。今回の『麒麟がくる』でも、幾多の合戦場面が出てくることだろうと思う。その描き方が、ある意味ではリアルになってきている。

これは、撮影機材……たぶんカメラの小型化ということがあってのことではないだろうか。小型のカメラを、縦横に駆使することができる。戦場で戦う武士たちの間を自在に動き回って撮ることができる。場合によっては、ドローンで空から撮影することもできる。このような機材の進歩ということもあって、合戦場面の描き方が、戦場における人間の表情までをも描くようになってきている、このように感じる。

合戦の場面には、これまでにない趣向も取り入れてあったようだ。石を飛ばしてみたり、火のついた俵を投げ込んでみたり、これらは、これまでのドラマの合戦シーンでは見なかったかと思う。このような合戦の描写は、それなりに時代考証を加えてのものなのであろう。

そして、光秀は、敵の首をとるときにためらうことになる。いったい何のために戦っているのか、一瞬であるが逡巡する。武士の誉れとは何か。このあたりのことが、後の本能寺の変をひきおこす伏線になっているのだろうと思って見ていた。

第二には、斎藤道三。

美濃のまむしである。戦国時代の下剋上を代表する人物だろう。そのすごみとでもういうべきものを、うまく出していたように思う。

城のうちでの、道三と守護の土岐頼純のシーン、これは圧巻の場面であったというべきであろうか。さて、最後は、茶で毒殺か……というところで終わっていたのだが、これは、次回、どのような展開になるのだろうか。

それにしても、この場面において、やはり、娘の帰蝶の存在には意味がある。ここは、NHKとしても、撮り直しということをしなければならなかったと感じる。

以上の二点が、この回を見て思ったことなどである。

それから、さらに書いてみるならば、このドラマでは、女性の登場人物が床にすわるとき、立て膝で座る演出をとっているようだ。この回の帰蝶がそうであった。(ただ、この場合、帰蝶は戦の姿であったことにあるのかもしれないが。)また、第一回でも、そのようなシーンがあったかと憶えている。

時代考証の点からいうならば、女性が、床に座るとき、いわゆる正座をするようになったのは、新しいことになるはずである。(これは、絵巻などに描かれた姿から考えることができる。)

さらに書いてみるならば、以前の『真田丸』で出てきた「国衆」ということばを、このドラマではつかっていない。このあたり、どのような戦国時代についての歴史観で描くことになるのか、興味深いところである。

2020年1月27日記

追記 2020-02-04
この続きは、
やまもも書斎記 2020年2月4日
『麒麟がくる』あれこれ「美濃の国」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/02/04/9210092

センリョウ2020-01-29

2020-01-29 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので花の写真。今日は、センリョウ「千両」の実である。

前回は、
やまもも書斎記 2020年1月22日
ソヨゴ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/01/22/9204965

我が家に何ヶ所かにセンリョウ「千両」の木がある。秋から冬にかけて実をつける。これは、鳥がたべてしまう。昨年のうちはまだ実が観察できたが、年があけてしばらくすると、ほとんどなくなってしまう。今では、もうほとんど無くなっている。

この木は庭にあるので、ほぼ毎日のように目にしている。初夏のころに花をつけるのだが、これはきわめて地味な花である。それよりも、新しい芽の出るころの姿に季節を感じるといえばいいだろうか。

去年の暮れから、年明けにかけて、ほぼ毎日のように写真にとってきた花である。青かった実が赤くなってくる。その実も、鳥が食べてなくなってしまう。特に鳥よけの防護策などほどこしていないので、全部無くなってしまう。それでも、季節がめぐってくれば、また花を咲かせて実をつける。私の日常の生活にあって、季節を感じさせてくれる樹木である。

センリョウ

センリョウ

センリョウ

センリョウ

センリョウ

センリョウ

Nikon D500
AF-S VR Micro-Nikkor 105mm f/2.8G IF-ED

2020年1月28日記

追記 2020-02-05
この続きは、
やまもも書斎記 2020年2月5日
梅の花芽
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/02/05/9210409

『蔵 上』宮尾登美子2020-01-30

2020-01-30 當山日出夫(とうやまひでお)

蔵(上)

宮尾登美子.『蔵』(上)(角川文庫).角川書店.1998 (毎日新聞社.1993 中公文庫.1995)
https://www.kadokawa.co.jp/product/199999171803/

『きのね』(上・下)に続いて読んだ。

やまもも書斎記 2020年1月23日
『きのね 上』宮尾登美子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/01/23/9205377

やまもも書斎記 2020年1月24日
『きのね 下』宮尾登美子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/01/24/9205709

この作品、昭和の戦前の越後が舞台である。そのため、登場人物のせりふが越後方言で書いてある。これが、ちょっとなじみづらいところがある。

しかし、これは、まぎれもなく宮尾登美子の小説世界であると感じるところがある。

仏教用語で「生老病死」という。人間の苦の根源である。その生老病死について、克明に描いているという意味で、宮尾登美子は希有な作家かもしれない。近代文学の多くは、青春を描き、恋を描き、また、人間の自我を描いてきた。この流れのなかにあって、宮尾登美子の作品は、多くは市井の人びとの日常生活にまつわるさまざまな情感を描いている。

それは、恋もあれば、子どもが生まれる喜びもあり、また老いもあり、さらに死ということもある。これら、人間の一生にまつわる種々の感情を、余さず描いていると感じるところがある。特に、老いと死である。また、病もある。このようなことを、宮尾登美子の作品を読んで感じるようになったというのも、私自身が年をとってきたせいかとも思う。

『蔵』である。この作品は、出たときから知ってはいたが未読であった。また、TVドラマになったり、映画になったりもしているが、これは見ていない。盲目の女性のストーリーであることは知っていたが、読んでみて、ただ、視覚障害というハンディをもった女性の生涯を描いただけの作品ではないことを思う。

越後の地主であり、酒蔵でもある、家の人間模様が、実に丁寧に描いてある。家族の人間関係は複雑である。若くして死んだ妻(母)、ひとり残されることになる烈という少女。その目の病。その列の面倒を見ることになる、母の妹(佐穂)。そこにやってくる、若い後添えの妻、せき。この複雑な人間関係のなかで展開される、人びとのこころのうちの思い。そこには、かならずしも善意ばかりがあるとは限らない。そのこころの奥底には、影がある。その影の部分をふくめて、この小説は、それぞれの登場人物のこころのうちを描いていく。おたがいのこころのうちのドラマこそが、まさに宮尾登美子の作品の真骨頂であろう。

つづけて、下巻を読むことにしよう。

2019年12月30日記

追記 2020-01-31
この続きは、
やまもも書斎記 2020年1月31日
『蔵 下』宮尾登美子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/01/31/9208581