『太平記』岩波文庫(六)2020-02-24

2020-02-24 當山日出夫(とうやまひでお)

太平記(6)

兵藤裕己(校注).『太平記』(六)(岩波文庫).岩波書店.2016
https://www.iwanami.co.jp/book/b266367.html

続きである。
やまもも書斎記 2020年2月17日
『太平記』岩波文庫(五)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/02/17/9214770

『太平記』をとにかく読んでおきたいと思って読みはじめて、ようやく読み終わった。第一冊目を読んだのは、昨年(二〇一九)のことになるが、それからすこし時間をおいて、後はほとんど連続的に読んだ。岩波文庫で六冊を読み終えて思うことなど書いてみたい。

第一には、『太平記』はこんなにも面白い物語であったかというおどろきである。若いとき、学生のころ、岩波の旧日本古典文学大系本でひもといたことはあるのだが、そのときは、どうにも退屈な話であるという印象をもったのが正直なところである。しかし、その後、もう『太平記』で論文を書いてみようという気はなくなり(といって、国語学的な興味関心がまったく無いというのではないが)、ともかく、余生の読書として通読しておきたくなって読んだ。そのような気持ちで読むと、実に面白い。

作中の登場人物が躍動していると感じるところがある。また、随所にひかれる和漢の故事のエピソードも興味深い。

第二には、しかし、読んでいて、やはりどうにも退屈だなと感じるところがある。決まり切ったパターン化された文章、紋切り型とでもいうべき人物描写、戦闘の様子、これらは、また同じような表現かなとおもって、いささかうんざりするところもある。

この二つの要素が、『太平記』にはある。

そして、『太平記』という書物について、現代の知見からいうならば、これが「歴史」であった時代がかつてあった、ということが重要かもしれない。近世において、『太平記』は広く読まれた本であった。それは、近代以降になってからも続いてきた。だが、近年、あまり文学的に読まれる作品ではなくなっているようにも思える。岩波の古典大系では、旧版には入っていたのだが、新しいのには入っていない。

新日本古典文学大系に入っていないということもあって、新しい岩波文庫版では、古本系の西源院本を底本につかって、かなり忠実な本文校訂をしているようである。だが、これも、岩波文庫という一般的な書物ということもあってか、ルビが現代仮名遣いであるし、原本の表記をたどることはできないように作ってある。これは、いささか残念な処置だという気がしてならない。同じ岩波文庫でも、『源氏物語』は、大島本を底本にして、かなり定本に忠実に本文が作ってある。

もう『太平記』で論文を書きたいという気はないのだが、それでも、いくつかのことば、表現が気になるところがあった。時代別国語大辞典の室町は買って持っている。しかし、それを引いて確認しようという気にならないで読んだ。これが、一〇年前であれば、気になることばは、辞書を見ながら読んだのだがと、思う。

『太平記』を読むというのは、次の二つの立場があるのだろう。

第一には、それが書かれた中世のことばの世界のものとして読む立場。

第二には、近世以降、それが読まれたきたのはどのようにしてであったかという受容史の観点からの立場。

国語学、日本語学の立場からすれば、中世のことばの世界の産物として読むことになる。しかし、この作品は、その読まれたきた「歴史」もまた重要である。『太平記』を「歴史」として読むところから、近世において、尊皇攘夷、国体という概念がうまれてくることになる。このあたりのことは、岩波文庫の第六冊の解説に詳しい。

ただ、ここで一言だけ思ったことを書いておくならば、国体という一見すると非近代的な概念から、実は、国民という近代の考え方が導き出されてきたという指摘は、なるほどと思って読んだところである。

つづけて、『太平記』の他のテクスト、それから、関連する本など読んでいきたいと思う。また、『太平記』が参照している『平家物語』も再度読みなおしておきたいと思う。

2020年2月3日記