『雨天炎天』村上春樹2020-03-20

2020-03-20 當山日出夫(とうやまひでお)

雨天炎天

村上春樹.『雨天炎天-ギリシャ・トルコ辺境紀行-』(新潮文庫).新潮社.1991(新潮社.1990)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100139/

続きである。
やまもも書斎記 2020年3月7日
『極北』マーセル・セロー/村上春樹(訳)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/03/07/9221457

ギリシャとトルコの旅行記である。

この本の刊行が、1991年。つまり、湾岸戦争の直後、ということになる。中近東あたりは、不穏な情勢にあったと思うのだが、しかし、この本は、そんなことはまったく感じさせない。このあたりに、村上春樹の作品の持つ、ある種の世界的な普遍性のカギがあるのかとも思う。

読んで思うことを書いてみるならば、次の二点。

第一に、非政治性である。湾岸戦争のころに書かれた本であるにもかかわらず、中近東あたりでの政治情勢について、言及するところがきわめて少ない。ところどころ、説明的な文章があったりはするが、そこに深入りすることはない。きわめて平静に、現地の状況を見ている。

第二に、これも上記のことと関連するが、宗教とか民族とかにかかわる記述が少ない。ギリシャの辺境とでもいうべき地……ギリシャ正教の聖地……を旅行しているのだが、ギリシャ正教のもつ宗教的な意味とか、歴史的な位置づけとかについては、極力触れていないようである。また、トルコを旅していても、イスラムの信仰について、そんなに多く語ることがない。

基本的に、村上春樹は、ただの旅行者の視点で描いている。

以上の二点が、この本を読んで思ったことである。

このようなこと……非政治性、非宗教性、非民族性……というようなことが、村上春樹の文学が、世界的に読まれるゆえんの一つかと思ったりする。政治的に、宗教的に、民族的に、無色透明に近いのである。だからこそ、どのような文化においても、その色合いで受容されることが可能になる。

これは、この旅行記のみならず、小説についても言えることだと感じる。政治とか、宗教とか、民族とかに、どっぷりとつかった文学もある。しかし、村上春樹の作品は、その対極にあると言える。どのような地域の文化においても、それなりに、解釈して読むことができる。

また、1990年の本だから、ここに書かれていることは、すでに、歴史的な価値があることにもなる。あるいは、ギリシャのことなどは、ひょっとすると、二一世紀の今日においても、そう変わっていないのかもしれない。だが、トルコは、それを取り巻く世界情勢は、時々刻々と変化しつつある。

ともあれ、村上春樹の文学のもつ、ある種の特徴を端的に表している作品であると思う。

2020年2月18日記

追記 2020-04-23
この続きは、
やまもも書斎記 2020年4月23日
『ラオスにいったい何があるというんですか?』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/23/9238313