2020-04-01

2020-04-01 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので写真の日。今日は桜である。

前回は、
やまもも書斎記 2020年3月25日
木瓜
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/03/25/9227926

今年は、例年よりも桜の咲くのが早いようだ。我が家の桜が、ちょうど満開といっていいだろうか。

毎年、このシーズンになると写している。ただ、この季節、比較的雨の日が多かったりする。雨に濡れた桜の花を撮ることが多くあった。今年も、ここ数日雨の日が多い。写真を写した日は、ちょうど曇り空の日だった。晴れて太陽の光があたっているところの桜は美しい。が、その花の色をとらえようとすると、むしろ曇り空の方がいいのかもしれない。

使ってみたのは、タムロンの180ミリである。望遠のマクロレンズである。これを使うと、ちょっと上の方にある花を、大きく写せる。このレンズならではの写真である。

見ると、シャガの花が咲き始めているようだ。山吹ももうじき咲くだろう。これから、春の花の写真を写していきたいと思う。

桜

桜

桜

桜

桜

桜

桜

桜

Nikon D500
TAMRON SP AF 180mm F/3.5 Di LD [IF] MACRO 1:1

2020年3月31日記

追記 2020-04-08
この続きは、
やまもも書斎記 2020年4月8日
サンシュユ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/08/9232908

『戯作三昧・一塊の土』芥川龍之介/新潮文庫2020-04-02

2020-04-02 當山日出夫(とうやまひでお)

戯作三昧・一塊の土

芥川龍之介.『戯作三昧・一塊の土』(新潮文庫).新潮社.1968(2011.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/102505/

続きである。
やまもも書斎記 2020年3月28日
『蜘蛛の糸・杜子春』芥川龍之介/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/03/28/9228879

この本に収録してあるのは、次の作品。

或日の大石内蔵助
戯作三昧
開化の殺人
枯野抄
開化の良人
舞踏会


お富の貞操

あばばばば
一塊の土
年末の一日

この文庫本の解説を書いているのは、中村真一郎。それによると、短編小説という形式の文学が定着したのは、大正期の芥川あたりからということらしい。なるほど、そう言われてみれば、現代まで読み継がれている作品の多く……そのなかには、「羅生門」や「鼻」などの国語教材の定番となっているものもある……を、確かに大正時代の芥川龍之介が書いている。

読んで印象に残るのは、「或日の大石内蔵助」であろうか。作者(芥川龍之介)は、ここに近代の目をもちこんでいる。それが、初期の「羅生門」のように、理知におちていない。素直に大石内蔵助のこころのうちに入っていける。このあたり、小説家としての芥川龍之介の巧みさというべきであろうか。

このような小説家としての巧みさを感じるのは、「戯作三昧」についてもいえる。無論、この作品は、自分自身が小説家であるということを、江戸の馬琴に投影している。読みながら、これも自然に、馬琴のこころのうちによりそってページを繰ることになる。

「雛」は、若いときに読んだ……というよりも、ラジオで聴いて憶えた記憶がある。朗読の時間だったろうか。ラジオで聴いた。そして、そのときに、「赤間が関」ということばを憶えたということも記憶している。

「開化の殺人」などの明治に題材をとった作品を読むと……どうも、今一つ文学作品としては評価しにくいかなという気がするのだが……ともあれ、大正時代になって、明治のころ、その文明開化の時代が、かつての日本のこととして回顧される時代になってきている、ということを感じる。

「一塊の土」。有名な作品だが、これも、芥川龍之介の小説家としての巧さを感じさせる作品である。この本のなかにある「戯作三昧」のような作品を書いた作者が、同時にこのような傾向の作品をも書いているのか、と一種の驚きのようなものがある。

続けて、芥川龍之介の新潮文庫版を読んでいくことにする。

2020年3月16日記

追記 2020-04-03
この続きは、
やまもも書斎記 2020年4月3日
『奉教人の死』芥川龍之介/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/03/9230972

『奉教人の死』芥川龍之介/新潮文庫2020-04-03

2020-04-03 當山日出夫(とうやまひでお)

奉教人の死

芥川龍之介.『奉教人の死』(新潮文庫).新潮社.1968(2013.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/102504/

続きである。
やまもも書斎記 2020年4月2日
『戯作三昧・一塊の土』芥川龍之介/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/02/9230636

この本には、いわゆる切支丹ものを収録してある。

煙草と悪魔
さまよえる猶太人
奉教人の死
るしへる
きりしとほろ上人伝
黒衣聖母
神神の微笑
報恩記
おぎん
おしの
糸女覚え書

芥川の活躍した大正時代、それは日本において、切支丹……室町末期に日本に伝来し、そして、近世初期に弾圧してほろんだ……その関連する文献類の評価がたかまってきた時代でもある。具体的には、新村出のような研究者の仕事ということになる。この時代の切支丹の研究、評価、流行、というようなことが、これらの作品の背景にはあるのでだろうと思う。

読んで思うことを書いてみると、次の二点。

第一に、室町期の口語文の採用。

国語学、日本語学、というような分野の勉強をしてきた人間には、どこかで見たことのあるような文体である。具体的には、天草版の「エソポ」「平家」といったあたりになる。日本にやってきた切支丹宣教師たちが残した、活版印刷の日本語の文献である。このような文献に見られる日本語文を、まさに切支丹に題材をとって、書いた小説ということになる。

この視点においては、日本の近代における、切支丹文化研究史という観点から、これらの作品を見ることができるだろう。

第二に、文学的な評価。

確かに、題材としては、その当時において目新しいもの……切支丹……をあつかってあるにちがいないのだが、読んでみて、今一つ面白いと感じるところが少ない。また、切支丹を題材にあつかってはいるものの、芥川龍之介の宗教観といったものを、そんなに強くうかがわせるものとはなっていない。

他の作品、たとえば王朝もの……「羅生門」「鼻」など……と比べてみた場合、文学的にはあまり成功しているとは思えない。が、これもまた時期をおいて読みかえしてみるならば、また感想も違ったものになるかもしれないが。

とはいえ、これら切支丹ものを読んでも、芥川の才知、理知というものを強く感じる。また、多彩な文体を駆使していることも見てとれる。芥川ならではの、文学の才というものを感じ取ることのできる作品群であるといえよう。

以上の二点が、読んで思ったことなどである。

切支丹文献の研究ということでは、近年、国語学、日本語学の分野においても、非常に研究がさかんになってきている。この流れのなかにあって、近代における切支丹研究史のなかに、どう位置づけるか、これからの課題であるといえるだろうか。(あるいは、このような研究はすでになされているのかもしれないが。)

2020年3月18日記

追記 2020-04-04
この続きは、
やまもも書斎記 2020年4月4日
『河童・或阿呆の一生』芥川龍之介/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/04/9231314

『河童・或阿呆の一生』芥川龍之介/新潮文庫2020-04-04

2020-04-04 當山日出夫(とうやまひでお)

河童・或阿呆の一生

芥川龍之介.『河童・或阿呆の一生』(新潮文庫).新潮社.1968(2012.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/102506/

続きである。
やまもも書斎記 2020年4月3日
『奉教人の死』芥川龍之介/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/03/9230972

この文庫本には、芥川龍之介の最晩年の作品を収めてある。

大導寺信輔の半生
玄鶴山房
蜃気楼
河童
或阿呆の一生
歯車

ここまで、芥川龍之介の作品を読んできて、やはりその最期のことを思ってしまう。これらの作品に、芥川龍之介の死を感じ取って読んでしまうというのは、やむを得ないことなのかもしれない。

これらの作品、中学・高校のときに読んだかと覚えている。が、中学生には、これらの作品を理解するのは無理だったかと、今になって思う。「河童」などは、その当時……今から半世紀前になってしまうが……中学生のころ、面白く読んだものではある。しかし、今になって、再度読みかえしてみると、ただ空想の世界の河童を描いただけではない、そこに、著者の人生観・世界観といったものが、強く投影されていることに、あらためて気付くことになる。

「人生は一行のボオドレエルにも如かない」……「或阿呆の一生」にある、有名なくだりである。昔読んだときは、軽く読んだところである。これも、再度、読みかえしてみると、芥川がこの文言のなかにこめた意味を深く感じるところがある。

死を意識させる作品が多いのだが、これは深読みかもしれないが、ふと「近代の憂愁」とでもいうべきものを感じるところがある。あくまでも理知的な文章なのだが、その背景に、ある種の詩情を感じる。そして、芥川龍之介は、二〇世紀の作家なのであるということを思う。二〇世紀の作家ではあったが、日本の「昭和」という時代を生きることができなかった。その文学者との感性において、来るべき日本の将来を予想していたとするべきなのだろうか。

2020年3月19日記

追記 2020-04-09
この続きは、
やまもも書斎記 2020年4月9日
『侏儒の言葉・西方の人』芥川龍之介/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/09/9233360

『エール』あれこれ「初めてのエール」2020-04-05

2020-04-05 當山日出夫(とうやまひでお)

『エール』第1週「初めてのエール」
https://www.nhk.or.jp/yell/story/week_01.html

『スカーレット』にひきつづき、『エール』も見ている。この『エール』から、週に五日の放送になった。月曜から金曜まであって、土曜日は、そのまとめという感じで進行するようだ。

このドラマは、古関裕而がモデルである。古関裕而の名前を知らない人でも、その手になる音楽を耳にしたことのない人はおそらくいないのではないだろうか。

このドラマを見るまえに思っていたことなど書けば次の二点になるだろう。

第一に、古関裕而は、昭和の戦前から戦後にかけて生きた人物である。その生涯は、大正から昭和にまたがる時代になっている。まさにその時代の日本とともにあったということになる。その作曲家としての人生も、昭和という時代とともにあった。このドラマでは、その昭和という時代の流れをどのように描くことになるのだろうか、という興味がある。

第二、そのような古関裕而の音楽には、いわゆる軍歌もふくまれる。この『エール』というドラマが作られるということを目にしたとき、まず思ったのは、戦時中の軍歌をどのように描くことになるのだろうか、ということである。いやいやながら軍に協力したことになるのか、それとも、時代の流れのなかで、おのずとそうなったというふうに描くことになるのか。いずれにせよ、このドラマで、一番気になっているところである。

以上の二点が、このドラマが古関裕而をモデルにしているということで思ったことである。

そして、実際にドラマの第一週を見て思うこととしては、次の二点がある。

第一に、大正という時代の地方都市の子どもとしての描き方。主人公(裕一)には吃音がある。また、運動もあまり得意ではない。喧嘩も弱い。だが、音楽には才能がある。その才能を目覚めさせてくれたのは、学校の先生だった。このあたりは、自然に音楽の道に進むことになるであろう、将来を予見させる描き方だったと思う。

第二に、その時代背景。途中、「赤い鳥」のことが出てきていた。まさに、「赤い鳥」によって、近代の日本の「子ども」が発見されてきたということができようか。また、蓄音機もあった。蓄音機の登場ということが、近代の日本の音楽にはたした役割は大きなものがあるだろう。さらに、賛美歌も登場していた。賛美歌も、近代の日本の音楽の歴史を考えるうえでは欠かすことのできない存在である。

ただ、この週では、学校唱歌があまり出てきてはいなかった。これは、意図的にそのように作っているのかという気もしないではない。

以上の二点が、第一週の放送を見て思うことなどである。

次週は、将来の裕一の妻になる音の少女時代のことになるようだ。楽しみに見ることにしよう。

2020年4月4日記

追記 2020-04-12
この続きは、
やまもも書斎記 2020年4月12日
『エール』あれこれ「運命のかぐや姫」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/12/9234473

『源氏物語』岩波文庫(三)2020-04-06

2020-04-06 當山日出夫(とうやまひでお)

源氏物語(3)

柳井滋(他)(校注).『源氏物語(三)』(岩波文庫).岩波書店.2018
https://www.iwanami.co.jp/book/b352592.html

続きである。
やまもも書斎記 2020年3月30日
『源氏物語』岩波文庫(二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/03/30/9229589

岩波文庫の第三冊には、「澪標」から「少女」までをおさめる。この冊を読んで思うことなど書いてみる。次の二点を書いておく。

第一には、末摘花である。「蓬生」の巻のメインの女性になる。これを読んで感じることは、これは「六の宮の姫君」の話しだな、ということ。『今昔物語集』に典拠があり、芥川龍之介が小説に書いている。六の宮の姫君は、零落して最後は悲惨な末路になる。だが、末摘花は、これは相手の男性が、たまたま光源氏だったから、その寵愛がとだえることなく、暮らしていける。

おそらく、このような話し……六の宮の姫君……は、平安朝にあって広く流布していた話しであったのだろう。それを下敷きにして、世に多く伝えられている話とちがって、この『源氏物語』の光源氏の場合には、ということで、『源氏物語』の世界が構築されたと思う。

第二には、「少女」の巻である。これまで、『源氏物語』を読んできた経験のなかで、一番難解に感じてきたのが、「少女」の巻である。この他には、「帚木」の雨夜の品定めの箇所がある。

「少女」の巻での主要な登場人物は、頭中将であり、夕霧であり、雲居雁などである。これらの登場人物の心のうちを、ああでもない、こうでもないと、行ったり来たりしながら、特に事件らしい事件がおこるともなく、延々と心中思惟の描写がつづく。これは、一通りの古文の読解力だけでは、どうにもなるものではないと感じるところがある。

今回は、覚悟をきめて、とにかく、文庫本の注を丹念に読みながら、本文をたどってみた。その結果、なんとか、この物語の筋についていけたような気がする。これは、また折りをみて、再々度、読みなおしてみたいとことでもある。

以上の二点が、岩波文庫の第三冊を読んで感じたところなどである。

それにしても、この新しい岩波文庫の校注は、かなり斬新な考え方を打ち出していると感じるところがある。無論、旧来の注釈を十分にふまえてはいるが、それに加えて、最新の校注者の知見をもりこんである。

それから、この第三冊には、「絵合」の巻がある。ここで、「草(そう)」が出てくる。仮名の成立、草仮名との関係で有名なところである。この他にも、「少女」の巻にも「草がち」とある。p.504。やはり、仮名(平仮名)と草(草仮名)とは、異なる表記のシステムであったろうことが推測される。ただ、これも、『源氏物語』の時代設定が、その書かれた時期(おそらくは一一世紀の初頭ごろ)から、さらにさかのぼった時期に設定されているということを考え合わせて、古風な文字のあり方として、このように書かれているとも理解される。

2020年2月6日記

追記 2020-04-13
この続きは、
やまもも書斎記 2020年4月13日
『源氏物語』岩波文庫(四)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/13/9234836

『麒麟がくる』あれこれ「十兵衛の嫁」2020-04-07

2020-04-07 當山日出夫(とうやまひでお)

『麒麟がくる』第十二回「十兵衛の嫁」
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/12.html

前回は、
やまもも書斎記 2020年3月31日
『麒麟がくる』あれこれ「将軍の涙」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/03/31/9229911

このドラマでは、光秀は歴史の中にあるというよりも、その側にあって目撃者の立場のようである。

この回を見て思ったことは次の二点になるだろうか。

第一には、父と子の確執。

父と子……このドラマでは、信秀と信長がそうである。最終的に尾張の国を治め、天下を取ろうということになるのは信長なのであるが、それにいたる道筋は簡単なものではない。まず、織田の家のなかで、家督を得て、どのように尾張の国をまとめていくかが課題となる。

さらには、美濃の、斎藤道三と高政の関係も、どうなるかわからない。これも、歴史の結果としては、戦いということになることを、また、その結果をも、今のわれわれは歴史の知識としては知っている。が、それにいたるまでの、お互いの胸のうちを、ドラマとしてどう描写するか、これはこれで、興味深いところがある。

第二には、光秀の結婚。

光秀は、熙子を妻とすることになる。が、このあたりのことは、かなりあっさりと描かれていた。しかし、登場するシーンこそ少なかったものの、妻の熙子の清楚な感じが印象的であった。このドラマにおいては、この熙子のような女性こそ、光秀の妻にふさわしいと感じる。

以上の二点が、この回を見て思ったことである。

さらに書いてみるならば、これは、前から書いていることだが、このドラマでは、女性の登場人物が床に座るとき立て膝で座るように演出している。帰蝶がそうであり、また、熙子もそうである。

だが、立て膝で座らない女性がいる。駒である。なぜ、駒は、立て膝で座らないのだろうか。このあたり、社会の階層、身分ということを表しているのかもしれないと思って見ているが、どうだろうか。

次週は、美濃の内紛を描くことになるようだ。これも楽しみに見ることにしよう。

2020年4月6日記

追記 2020-04-14
この続きは、
やまもも書斎記 2020年4月14日
『麒麟がくる』あれこれ「帰蝶のはかりごと」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/14/9235150

サンシュユ2020-04-08

2020-04-08 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので写真の日。今日はサンシュユ「山茱萸」の花である。

前回は、
やまもも書斎記 2020年4月1日

http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/01/9230269

我が家に一本のサンシュユ「山茱萸」の木がある。春のはじめに黄色い花を咲かせる。この木を見ていると、冬の間に、丸いつぼみができて、それがてっぺんのあたりが割れて黄色い色が見える。それが、さらに春になって暖かくなると、花を咲かせる。

ただ、この花を写真に撮るのはちょっとむずかしい。あちらこちらに向けて花がひらく、それも、とても小さい。どこにピントを合わせるべきか、いろいとと困る。

掲載の写真は、先月のうちに写しておいたものである。今では、この木の花も盛りの時期を過ぎてしまっている。今は、その横に植わっているユキヤナギ「雪柳」の白い花が見える。

桜の花も散り始めている。藤の花のつぼみがそろそろふくらんでくるころだろうか。山吹の花も咲き始めている。これらの花の写真を撮っていけたらと思う。

サンシュユ

サンシュユ

サンシュユ

サンシュユ

サンシュユ

Nikon D500
TAMRON SP 90mm F/2.8 Di MACRO 1:1 VC USD

2020年4月7日記

追記 2020-04-15
この続きは、
やまもも書斎記 2020年4月15日
サンシュユ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/08/9232908

『侏儒の言葉・西方の人』芥川龍之介/新潮文庫2020-04-09

2020-04-09 當山日出夫(とうやまひでお)

侏儒の言葉・西方の人

芥川龍之介.『侏儒の言葉・西方の人』(新潮文庫).新潮社.1968(2012.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/102507/

続きである。
やまもも書斎記 2020年4月4日
『河童・或阿呆の一生』芥川龍之介/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/04/9231314

現代の我々は、この本に収められた作品が、芥川龍之介の遺稿になっていることを知っている。そう思って読むせいか、読みながらあれこれと感じるところがある。

第一には、このような文章を書く作家は、自分の作家としての人生にゆきづまりを感じていたのか、という感慨のようなものである。「侏儒の言葉」は、アフォリズムであるが、読んでいて、理知的な機知以上のなにかしら、狂気じみたものを感じてしまうところがある。ふと作品世界のなかに入り込んでしまうところがある。

第二には、だが、上記のことと反することになるかもしれないが、初期の「羅生門」「鼻」などと比べて見て読んで、フィクションとしての小説の面白さは、明らかに減少している。いやもう小説と言っていいのかどうかもわからない。

以上の二点が、芥川龍之介の最晩年の遺稿作品を読んで感じるところである。

「羅生門」「鼻」からスタートした作家が、結局は、「牛」……夏目漱石のいうところの……にはなれなかった、ということなのだろう。

ふと思って、新潮文庫版で芥川龍之介の作品を読んでみた。本格的に、このような作品を読むのは、若いときに読んで以来、ほぼ半世紀ぶりぐらいになるかと思う。多くは、中学生のころに読んだものだったかと思う。この年になって読みかえしてみて、なるほど芥川龍之介の作品は、今でも読まれ続けている理由がわかったような気がする。そして同時に、そのあまりに理知的な作風は、どうしても、時代のながれ……大正から昭和にかけて……のなかで屈折してしまったと思うところもある。最後になれば、もう挫折したとしかいいようがないかもしれない。

2020年3月26日記

『向田邦子ベスト・エッセイ』向田和子(編)2020-04-10

2020-04-10 當山日出夫(とうやまひでお)

向田邦子ベスト・エッセイ

向田和子(編).『向田邦子ベスト・エッセイ』(ちくま文庫).筑摩書房.2020
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480436597/

私が向田邦子のエッセイを読んだのは、学生のころだったろうかと覚えている。そのころ、東京で一人住まいをしていて、テレビを持っていなかったので、その脚本のドラマはほとんど見ていない。私にとって、向田邦子は、あくまでもエッセイストである。

最初に読んだ本は、『父の詫び状』だったかと思う。それから、エッセイ集が文庫本で刊行になるたびに買って読んでいった。そのほとんどは読んでいるだろうか。

探してみると、その多くの本は、今でも刊行されているようだ。それらの本を順番に読んでいってもいいかなと思っていたところに、この本が刊行になった。タイトルのとおり、向田邦子のエッセイをよりすぐったものである。

いくつかのテーマに沿って分類して編集してある。

家族
食いしんぼう
犬と猫とライオン
こだわりの品

仕事
私というひと

巻頭におかれているのは、「父の詫び状」である。そして、テーマごとに代表的なエッセイが収録されている。読みながら……ああこの文章は読んだことがあるな、というものもあり、逆に、記憶にある文章で採録されていないものもあったりであるが……ともかく、そのエッセイストとしての仕事の全貌を俯瞰できる編集になっている。

私としては、猫の話しをもう少し入れてあってもいいような気がする。独身を通した向田邦子だが、ホームドラマの脚本を書いている。猫を見ていると、それで人間のことが分かる……このようなことを、どこかで書いていたと覚えている。

読んでいって、どれもある意味では自己主張の強い内容の文章である。しかし、それが、一歩さがった位置から語られる。そして、どの文章も、ことばづかいが、きわめて丁寧である。このあたりのことを、解説を書いている角田光代は、「含羞」ということばで表現している。

このようなエッセイ集を編集するとき、冒頭に何をおくか……これは「父の詫び状」をもってきている、これは納得できる。だが、さて、終わりをどうすか気になって読んでみると、なるほど、という編集になっている。

それにしても、このエッセイが描いている作者の子ども時代は、戦前のことになる。時代の流れからすれば、かなり過去のことになる。しかし、読んでいて、その古さを感じさせない。これは、テレビ脚本家として仕事をしてきた作者の、人間を見る目の確かさに裏付けられているからなのであろうと思う。向田邦子のエッセイは、これからも読まれ続けていくものであるにちがない。

2020年3月26日記