『侏儒の言葉・西方の人』芥川龍之介/新潮文庫2020-04-09

2020-04-09 當山日出夫(とうやまひでお)

侏儒の言葉・西方の人

芥川龍之介.『侏儒の言葉・西方の人』(新潮文庫).新潮社.1968(2012.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/102507/

続きである。
やまもも書斎記 2020年4月4日
『河童・或阿呆の一生』芥川龍之介/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/04/9231314

現代の我々は、この本に収められた作品が、芥川龍之介の遺稿になっていることを知っている。そう思って読むせいか、読みながらあれこれと感じるところがある。

第一には、このような文章を書く作家は、自分の作家としての人生にゆきづまりを感じていたのか、という感慨のようなものである。「侏儒の言葉」は、アフォリズムであるが、読んでいて、理知的な機知以上のなにかしら、狂気じみたものを感じてしまうところがある。ふと作品世界のなかに入り込んでしまうところがある。

第二には、だが、上記のことと反することになるかもしれないが、初期の「羅生門」「鼻」などと比べて見て読んで、フィクションとしての小説の面白さは、明らかに減少している。いやもう小説と言っていいのかどうかもわからない。

以上の二点が、芥川龍之介の最晩年の遺稿作品を読んで感じるところである。

「羅生門」「鼻」からスタートした作家が、結局は、「牛」……夏目漱石のいうところの……にはなれなかった、ということなのだろう。

ふと思って、新潮文庫版で芥川龍之介の作品を読んでみた。本格的に、このような作品を読むのは、若いときに読んで以来、ほぼ半世紀ぶりぐらいになるかと思う。多くは、中学生のころに読んだものだったかと思う。この年になって読みかえしてみて、なるほど芥川龍之介の作品は、今でも読まれ続けている理由がわかったような気がする。そして同時に、そのあまりに理知的な作風は、どうしても、時代のながれ……大正から昭和にかけて……のなかで屈折してしまったと思うところもある。最後になれば、もう挫折したとしかいいようがないかもしれない。

2020年3月26日記

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