『文章読本』三島由紀夫2020-04-11

2020-04-11 當山日出夫(とうやまひでお)

文章読本

三島由紀夫.『文章読本 新装版』(中公文庫).1973(2020.改版)(1959.中央公論社)
https://www.chuko.co.jp/bunko/2020/03/206860.html

初出は、昭和三四年の『婦人公論』の別冊。それが、単行本になって、文庫本になって、さらに、改版して新しくなったものである。

『文章読本』については、おそらく谷崎潤一郎のものが最も有名かもしれない。が、私は、これを読んでそう深く感じるところがなかった。

やまもも書斎記 2016年8月23日
谷崎潤一郎『文章読本』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/23/8160014

また、中村真一郎の『文章読本』も読んだ。

やまもも書斎記 2017年8月25日
『文章読本』中村真一郎
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/08/25/8655979

さらに、斎藤美奈子の本も読んでいる。

やまもも書斎記 2016年9月1日
斎藤美奈子『文章読本さん江』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/01/8167221

さて、この三島由紀夫の『文章読本』であるが、読んで思うところは、次の二点だろうか。

第一には、これは、文学のための文章読本であるということ。

三島由紀夫は、実用文というのを排除して考えている。芸術のための文章としての、文章読本を書いている。おそらく、日本の近代の文学史において、三島由紀夫あたりまでが、小説家というものが、芸術家であった時代だと思う。今では、芸術というよりもエンタテイメントに近いだろうか。あるいは、別の方向では、思想家というべきかもしれない。ともあれ、三島由紀夫、それから、川端康成あたりまでは、小説家は芸術家であった。

その芸術家としての視点から、小説の文章はどうあるべきかを論じたものである。この意味では、昨今の大学でのリテラシ教育とは、あまり縁がない本であるともいえよう。

第二には、三島由紀夫の文学観を強く反映したものであるということ。

この本のなかで、三島由紀夫は、自分の文章に対する好き嫌いをはっきりとうちだしている。それが、とりもなおさず、三島由紀夫自身の文章観、芸術観につらなるものになっている。この本は、三島由紀夫の文学の理解にとって、きわめて有効なヒントを与えてくれるにちがいない。

以上の二点が、この『文章読本』を読んで思ったことなどである。

さらに書いてみるならば、私はこの本を以前に読んでいる。今回で、二回目、三回目ぐらいになるだろうか。最初、これを読んだのは、学校の(たぶん高校生だったと思う)の国語の教科書においてである。そのとき、森鷗外の「寒山拾得」にふれて、「水が来た」の名言にふれた。三島由紀夫は、この「水が来た」をかなり強く意識しているようである。「豊饒の海」のなかで、これをつかって、「酒が来た」と書いてあるところがあった。

さらに余計なことを書いておくと、この「水が来た」は、浅田次郎にも影響を与えている。その作品のどれか、たしか「天切り松」のシリーズだったかと思うが、これに言及した箇所があったと覚えている。

それから、例によってというべきだが、三島由紀夫『文章読本』では、日本語という言語が非論理的なものであると書いている。現代の言語学の知見からするならば、特に日本語という言語が非論理的であるとは考えないだろう。(ただ、その運用のおいて、どのように使われるかという観点からの問題提起はあるかもしれないが。)

まあ、このあたりのところは読み流しておけばいいところだと思って読んだ。

そうはいっても、主に近代日本語の文学の文章を論じながら、古くは平安朝の文学作品にまでさかのぼって、日本文学の文章の流れをたどっていく観点には、これはこれとして興味深いものがある。このような日本語の文章の歴史の考え方がある、その一例として読んでおくことになるかと思うところである。

学校での文学教育ということを肯定的に考えてみたとき、この三島由紀夫『文章読本』は、さらに読まれる価値のある本だと思う。

続けて、三島由紀夫の他の作品。それから、他の『文章読本』についても読んでみたいと思っている。

2020年3月29日記