『源氏物語』岩波文庫(七)2020-05-04

2020-05-04 當山日出夫(とうやまひでお)

源氏物語(7)

柳井滋(他)(校注).『源氏物語(七)』(岩波文庫).岩波書店.2020
https://www.iwanami.co.jp/book/b492570.html

続きである。
やまもも書斎記 2020年4月27日
『源氏物語』岩波文庫(六)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/27/9239779

岩波文庫で七冊目である。「匂兵部卿」から「総角」までをおさめる。つまり、いわゆる匂宮三帖と、宇治十帖のはじまりである。この前の巻までで、紫の上は死に、そして、光源氏の死も暗示されて、新しい段階に物語ははいることになる。

読んで思ったことを書けば、次の二点ぐらいである。

第一に、匂宮三帖「匂兵部卿」「紅梅」「竹河」の巻については、はっきりいって読んで面白くない。古来から、これらの巻については、その成立をめぐっていろんな論がある。私としては、別作者とは思わないが、しかし、「御法」「幻」の巻までを書いてきた作者が、同じ筆致で書いたとも思えない。

ここは、続く宇治十帖との関連で考えるならば、作者……おそらくは紫式部……が、宇治十帖を構想するにあたって、光源氏の死とその後のことで、強引に物語を終わらせてしまった、と解しておきたい。でなければ、いかに光源氏の死を描かないとしても、その余韻とでもいうべきものが、あまりにも乏しいと感じられる。作者は、はやく、続く宇治十帖を書きたかったのであろう。そのために、光源氏の死を暗示し、そして、その他の登場人物のその後のことを描いて、とりあえず終了した形をとってみたのではないだろうか。

第二に、宇治十帖にはいって、これは心理小説だなと感じるところがある。これは、あまりに近代的な読み方かもしれない。

しかし、「古典」というものが、常に新しい読み方で享受されるものであることを考えてみるならば、これを近代的な心理小説として読んで悪いこともないだろう。無論、その一方で、この作品が成立した当時において、どのように読まれたものであったかという、日本文学としての研究の立場もある。が、ここは、私にとってはもう余生の読書である。『源氏物語』で論文を書こうとは思っていない。楽しみのために読んでいる。この意味では、今日的な読み方をしても、それは許されるものだと思う。

とにかく、読んでいって、作中の人物……薫、匂宮、大君、中君……これらの登場人物の心理の内側にはいりこんで、ああでもない、こうでもないと、いったりきたりしながら、あれこれと、思い続け、会話が続いていく。あるいは、この岩波文庫の注が、そのようなものとして、『源氏物語』を読んでいるとも解される。

以上の二点が、岩波文庫で、既刊の七冊を読んで思うことである。さて、この続きはどうしようか。岩波文庫では、まだ、この七冊目までしか刊行になっていない。岩波の新日本古典文学大系で読んでもいいようなものかもしれないが、どうも、この本が好きになれないでいる。(あまりに忠実に、底本の大島本に従っていることもあって、ちょっと読みづらいと感じるところがある。)

ここは割り切って、小学館の本で読んでみようかと思う。これも、はっきりいってあまり好きな本ではない。現代語訳がついていて、そこを読まなければならないようになっているのが、煩わしくもある。だが、現代では、小学館の新編全集版が、最も標準的な『源氏物語』のテクストであることは確かである。国立国語研究所のコーパスも、これを使っている。この意味では、このテクストでも読んでおきたいと思う。

どうせならということで、最初の「桐壺」からもう一度読んでおこうかと思う。『源氏物語』は、何度読んでもいい作品である。

2020年2月15日記