『麒麟がくる』あれこれ「大きな国」2020-05-05

2020-05-05 當山日出夫(とうやまひでお)

『麒麟がくる』第十六回「大きな国」
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/16.html

前回は、
やまもも書斎記 2020年4月28日
『麒麟がくる』あれこれ「道三、わが父に非ず」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/28/9240154

このまま新型コロナウイルスによる休業がつづけば、このドラマも、遠くないうちに休止ということになっているそうである。どうなるかわからないが、いたしかたのないことかと思う。

ともあれ、この回を見て思ったことは次の二点。

第一に、光秀の行動原理はいったい何であろうかということ。

光秀は、高政に領地を代えることを伝えられる。明智の土地を離れることになる。ここにおいて、光秀は今一つ釈然としないようだ。

明智の地に対するパトリオティズム(愛郷心)といっていいだろうか。このドラマの始まりのときは、のどかな田園風景からスタートしていたのを思い出す。明智の地は、光秀にとって故郷なのである。その地を、領主の命令であるからといって、そう簡単に出て行けるものではないようだ。

しかし、明智の地についてのパトリオティズムが、光秀の行動原理になっているかというとそうでもないように思える。一方で、道三に対する忠誠心とでもいうべきものがある。あるいは、美濃の国を思う気持ちと言ってもいいかもしれない。それが、光秀を尾張の帰蝶のもとに行かせることにもなっている。

そして、おそらくこのドラマが展開していく次のステップとしては、信長を中心として、「天下」を視野にいれた、家臣団の一員としてどう行動するか、ということになるのだろうと思う。

第二、その「天下」である。

このドラマでは、まだ「天下」ということばは出てきていない。だが、道三には、「天下」ということが意識されていたようである。それを、「大きな国」と言っていた。

これから、信長や秀吉といった戦国武将たちは、「天下」を目指すことになるはずである。ただ、美濃の国や、尾張の国の、安寧秩序だけを考えていればよいという段階から、「天下」を視野にいれるまで、どのような紆余曲折の心理を描くことになるのか。

尾張や美濃といった地域についてのリージョナリズム(地域主義)から、「天下」への流れを、このドラマはどう描くことになるのか、興味のあるところである。(だが、たぶんその前に放送の休止ということになってしまいかねないが。)

それにしても、道三はかっこよかった。一国をおさめる戦国大名、かくあるべしという姿だったかと思う。ただ、歴史の結果を知っている現代の目から見るならば、道三は、やや早く生まれすぎたということになるのかもしれない。結局、道三は、「天下」をねらう位置につくことはできずに終わることになる。

以上の二点が、この回を見て思ったことなどである。

さらに書いてみるならば、やはり帰蝶のことがある。戦国乱世の時代にあって、信長の妻として、したたかに生きているようである。あるいは、このドラマの今後の展開のキーとなる人物なのであろか。

また、ちょっとだけ出てきていたが、伊呂波太夫もただものではない。ひょっとすると、光秀のこれからの人生の歩みに深くかかわることになるのかもしれない。

次回、長良川の戦いになるようだ。楽しみに見ることにしよう。

2020年5月4日記

追記 2020-05-12
この続きは、
やまもも書斎記 2020年5月12日
『麒麟がくる』あれこれ「長良川の対決」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/12/9245737