NHK『ひよっこ』再放送あれこれ2020-05-11

2020-05-11 當山日出夫(とうやまひでお)

NHKで夕方、朝ドラ『ひよっこ』の再放送をしている。家にいるときは……というか、特に今は外出する用事もない、授業はオンラインである……なるべく見るようにしている。このドラマは、その放送のとき、欠かさず見ていた。その時々に思ったことなどは、毎週、このブログに書いてきた。

今、改めて、『ひよっこ』を見て思うことは……日常生活の細やかな情感を丁寧に描いている作品だな、ということである。「普通」に生活すること、毎日の労働、暮らし、隣人とのつきあい、これら、ごく「普通」であることが、きわめてとうといものに感じるようになっている。

このドラマは、特に波瀾万丈の展開があるとうのではない。ただ、行方不明になった父親という存在が、重くのしかかるものとしてあることは確かだが、それを除くと、描いているのは、向島電機での仕事であり、すずふり亭での仕事であり、あかね荘での暮らしであり、その職場の人びと、隣人たちとの交流である。その何気ない日常の、ごく「普通」に暮らしていくなかでの、ちょっとしたできごと、そこでの人びとの気持ちのふれあい、これがきわめてじっくりと描いてある。

こういうドラマを見ると、気分が落ち着く。

私は、もともとが居職に近い生活をしてきているので、外出自粛と言われても、それで特に困ることはない。しかし、そうはいっても、世の中の平穏ならざる雰囲気というのは、日常的に感じるところである。さて、これから、この世の中どうなっていくのだろうか、まったく不安が無いといえば嘘になる。

このようなときは、あえて重厚長大な本でも読もうかと思う。今読んでいるのは『戦争と平和』(トルストイ/藤沼貴訳、岩波文庫)。それから、考えているのが、『源氏物語』、これは、小学館のテクストで読んでみようかと思っている。その他、村上春樹の翻訳小説など、買ってあるものがいくつかある。無論、ちょっと探せば、読んでいない本がいくつも出てくる。ここしばらく、新しい本を買って読むよりも、読むつもりで買ってあった本を消化することにしようかと思っている。

そして、夕方になるとNHKをつける。『ひよっこ』を見る。こんな生活をしばらくおくれたらと思う次第である。

2020年5月10日記

『麒麟がくる』あれこれ「長良川の対決」2020-05-12

2020-05-12 當山日出夫(とうやまひでお)

『麒麟がくる』第十七回「長良川の対決」
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/17.html

前回は、
やまもも書斎記 2020年5月5日
『麒麟がくる』あれこれ「大きな国」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/05/9242997

この週で、美濃、道三の部分は終了となる。道三が死に、光秀は美濃の国を去る。

見て思ったことなど書けば次の二点ぐらいだろうか。

第一に、道三の死。

以前、『国盗り物語』をドラマで見て、原作(司馬遼太郎)も読んでいるのだが、長良川の戦いのことは、あまり記憶に残っていない。歴史の結果として、道三が死ぬことになることは知ってはいる。だが、その死をどのように描くかは、それぞれのドラマの作り方による。

このドラマでの、道三の最期は、かっこいいというべきだろうか。ただ一騎で、高政の陣にのりこんでいって、一騎打ちをいどむ。その対決シーンで、道三と高政のやりとりがよかった。高政は、自分は土岐の血をひくものであると語る。だが、道三は、それを認めない。このやりとり、どうやら、高政においても、その偽りであることを知っての上であったと感じさせる。

そして、道三は、高政の軍に討たれることで、父殺しの名を高政に残すことになる。

結局、道三とは何者であったのか。下剋上の世の中、油売りから身をおこして、一国の領主にまでなった。その生涯の先には、「天下」が見えていたようだ。しかし、その「天下」を見ることなく終わった。その子であるはずの高政はといえば、「天下」を語る器ではない。「天下」の夢は、娘の帰蝶がとついだ信長に託されることになる。

その信長を討つのが、光秀である。

第二に、光秀のこと。

光秀は、道三を主君とあおぎ、美濃の国で明智の土地を安堵されることで、武士としてつかえてきた。その明智の土地をはなれることになる。それは、明智の一族を絶やさないためであるということである。

光秀の行動の根底にあるものは何だろう……己の土地(明智の地)へのパトリオティズム(愛郷心)だけではない。そこには、主君とした道三への忠誠心もあった。だが、長良川の戦いの結果、その主君も死に、明智の地を離れることになる。明智の一族として、これから、光秀は戦国時代を生きていくことになる。

この光秀に、「天下」ということが視野にはいっているということはなさそうである。おそらく、今後の展開によって、信長の家臣団の一員となったときに、「天下」ということが見えてくるのかと思う。それまでの光秀は、何を目的として生きていくことになるのか。

あるいは、「麒麟」ということで、きたるべき「天下」を予言していることになると解釈しておくべきなのだろうか。

このあたりのことを描くのが、次の越前編なのであろう。が、このドラマ、COVID-19の影響もあって、撮影が中断しているとのことである。ともあれ、来週の放送はあるようだ。次のステージで、光秀がどのような生き方をすることになるのか、楽しみに見ることにしよう。

2020年5月11日記

追記 2020-05-19
この続きは、
やまもも書斎記 2020年5月19日
『麒麟がくる』あれこれ「越前へ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/19/9248280

オオイヌノフグリ2020-05-13

2020-05-13 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので花の写真。今日は、オオイヌノフグリである。

前回は、
やまもも書斎記 2020年5月6日
カリン
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/06/9243426

春になるとまず地面に目をやる。この花が青く咲いているのを見つけると、春になったことを実感する。

写真に撮ろうと思うとちょっと難しところがある。地面の近くギリギリのところに咲くので、三脚を低位置に設定しないといけない。しかも、光が花にあたるようにするのが難しい。太陽を背にすると、カメラと自分自身の影にはいってしまう。

今年は、タムロンの180ミリを使ってみて取った。このレンズだと、被写体との距離がとれるので、比較的楽に撮影できる。しかし、等倍接写ぐらいまで近寄ると、被写界深度が浅くなる。ピントを合わせるのが難しい。撮影は、先月、四月のうちに写しておいたものである。

日本国語大辞典(ジャパンナレッジ)を見る。「オオイヌノフグリ」では、項目がたていない。「イヌフグリ」ではある。「いぬふぐり」の用例としては、六百句(1947)がある。高浜虚子の句である。

語釈には、

近年は、外来種のるり色の花を付けるオオイヌノフグリをさすことが多い。

とある。ここは、ことばの辞典としては、「オオイヌノフグリ」の見出しと用例を載せておいてほしいところである。

オオイヌノフグリ

オオイヌノフグリ

オオイヌノフグリ

オオイヌノフグリ

オオイヌノフグリ

Nikon D500
TAMRON SP AF 180mm F/3.5 Di MACRO 1:1

2020年5月12日記

追記 2020-05-20
この続きは、
やまもも書斎記 2020年5月20日
ハナニラ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/20/9248606

『戦争と平和』(三)トルストイ/岩波文庫2020-05-14

2020-05-14 當山日出夫(とうやまひでお)

戦争と平和(3)

トルストイ.藤沼貴(訳).『戦争と平和』(三)(岩波文庫).岩波書店.2006
https://www.iwanami.co.jp/book/b248228.html

続きである。
やまもも書斎記 2020年4月25日
『戦争と平和』(二)トルスト/岩波文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/25/9238990

この三冊目には、第二部のうち、三・四・五編をおさめてある。以前に第二冊目を読んでから、ちょっと時間がたってしまった。二冊目を読んだのは、まだ世の中が平穏な時期であった。その後、続けて読もうと思いながら、いろいろとりまぎれて手を出さないでいた。だが、これもここしばらくは、世の中こんなもんだろうと開き直って考えるようになってきて、ようやく第三冊目を読み終えた。

岩波文庫は、各冊ごとに、それまでのあらすじと主な登場人物の紹介がついているので、多少時間をおいて読んでもなんとかついていける気がする。(だが、これも、やはり読むときには一気に読んでしまった方がいいだろう。続けて第四冊目以降を読むつもりでいる。)

三冊目を読んで印象にのこるのは、なんといってもナターシャである。おそらくトルストイが描いた女性のなかでも、特筆すべき魅力にあふれている。たまたまそうなのかもしれないが、文庫本の三冊目は、このナターシャが主人公とでもいうような印象をうける。

どうして、ロシア文学に出てくる女性はこうも魅力的なのだろうか。こんなことを思ってみる。同じトルストイのアンナ・カレーニナもそうであるし、また、ドストエフスキーの『罪と罰』に出てくるソーニャも魅力的である。それから、昔読んだ作品では、短篇だが、ツルゲーネフの作品に出てくる女性に、若いときはこころひかれたものである。

ダンス・パーティのシーン、それから、劇場でのシーンなど……トルストイは、ナターシャの魅力をひきたてる舞台を入念に描いている。文庫本のコラムによると、この劇場のシーンは、実際の史実とはちがっているらしい。一九世紀初頭のロシア貴族の生活を活写するために、ここは意図的に、史実とは違う舞台設定になっているとのことである。

この三冊目には、戦闘場面は出てこない。また、歴史について、トルストイが延々と述べるところもない。ただ、ナターシャ、それから、ソーニャといった女性の登場人物が、生き生きと描かれている。このような壮大な小説において、人物造形が確かに描き出されているところは、まさに、トルストイの天才……芸術家としての……であると感じるところがある。

印象に残ることとしては、狩猟のシーンがある。これなどふくめて、ロシア貴族の生活のさまざま、その経済のやりくりは実は大変だったらしいのだが、これらが実に興味深く描かれている。

この冊は、まさにナターシャという魅力的な女性を描いた一冊であるという読後感である。つづけて、第四冊目を読むことにしようと思う。

2020年5月4日記

追記 2020-05-15
この続きは、
やまもも書斎記 2020年5月15日
『戦争と平和』(四)トルストイ/岩波文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/15/9246826

『戦争と平和』(四)トルストイ/岩波文庫2020-05-15

2020-05-15 當山日出夫(とうやまひでお)

戦争と平和(4)

トルストイ.藤沼貴(訳).『戦争と平和』(四)(岩波文庫).岩波書店.2006
https://www.iwanami.co.jp/book/b248229.html

続きである。
やまもも書斎記 2020年5月14日
『戦争と平和』(三)トルストイ/岩波文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/14/9246472

岩波文庫の四冊目には、第三部の一篇と二篇を収めてある。

ここまで読んできて思うことなど書いてみる。

第一には、「歴史」というもの。

私は、西欧の歴史とか、また、歴史哲学という分野についてはうとい。ナポレオンと言われても、とおりいっぺんの知識……高校の世界史の時間にならったような……ぐらいしか持っていない。また、歴史哲学という分野に関心がないわけではないが、今になって、専門書に手を出そうという気にもならないでいる。

ただ、楽しみとして、古典を読んでおきたいと思って読んでいる。以前に『戦争と平和』を読んだときは、新潮文庫版であった。そのときの印象としては、トルストイの歴史観というものが、非常に色濃く出ている作品だと感じたものであった。

今、岩波文庫版でさらに読んでみて、この四冊目になると、そのトルストイの歴史観というものが描かれている。いってみれば、歴史とは個人のちからではどうにもならない、大きな動きである、というようなことを語ろうとしていることは理解できる。歴史の本質が何であるか、それは、おそらくは、トルストイの文学者、いや芸術家というべきか、の洞察力によるものなのであろう。

今から一世紀半ほど前に書かれた小説であり、その描いているロシアとナポレオンとの戦いは、さらにさかのぼって今から二世紀ほど前のことになる。おそらく、近現代の歴史学というものが登場する以前の作品と言っていいのだろう。

だが、読んで、その古さというものを感じない。それは、歴史とともに人間があったことによるのだろう。時代のいかんをとわず、人間は、歴史のなかにある。その歴史のなかにある人間、大きな歴史の流れのなかで翻弄されていく人間の姿というものを、この小説は、大きな流れとして描き出している。

第二に、「国民」というもの。

今から、二世紀ほど前、ナポレオンの時代である。読んで感じるところとしては、現代社会でいう国民の意識がまだ形成されていないということを感じ取る。

いや、ロシアの軍人、兵士たちは、ロシアのために戦っていることは分かるのだが、それが、近代国家としての、つまり、国民国家としての市民の感覚ではない。また、敵対することになる、ナポレオンの軍隊も、各国、各地域からのよせあつめの軍隊である。生粋のフランス軍というものではない。

このあたり、戦争というと、第一次大戦、第二次大戦、というあたりのことを思ってしまう、現代の感覚からすると、今一つ理解の及ばないところがあると感じる。まだ、近代的な国民国家の成立以前の段階における、ロシアとフランスとの戦いと理解しておくべきなのだろう。

登場するのは、主にその当時にあってロシアの貴族階級の人びとである。その貴族にとっての、国家、祖国とは何であったのか、現代の市民社会における国家の観念で読むと、どうにもよくわからないところがあるというのが、率直なところでもある。

以上の二つのことを思って見る。

現代の戦争観、国家観からすると、今一つよくわからないところもあるのだが、それでも、大きな歴史の流れのなか、戦争というもの、そのなかにあって生きていく人間の姿、また、戦闘シーンなどには、引き込まれて読んでしまうところがある。

ところで、『戦争と平和』は、光文社古典新訳文庫版も、刊行中である。第一冊が刊行になって、次の第二冊目も出るようだ。これも買ってある。岩波文庫で読んでおくとして、また、改めて別の訳でも、じっくりと読みかえしてみたいと思っている。

次は、第五冊目である。世の中、どうなるかわからない情勢にあるのだが、逆にこのようなときだからこそ、家にいて、ゆっくりと本を読む時間をすごしたいと思う。

2020年5月9日記

追記 2020-05-18
この続きは、
やまもも書斎記 2020年5月18日
『戦争と平和』(五)トルストイ/岩波文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/18/9247947

オンライン授業あれこれ(その四)2020-05-16

2020-05-16 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2020年5月9日
オンライン授業あれこれ(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/09/9244587

今のところ、前期の間は、オンライン授業継続ということになっている。京都や大阪の緊急事態宣言が解除されても、大学の再開ということは一番最後になるだろう。

これまでに、四回、学生には教材などの送信をしてきている。基本は、毎回配っている講義プリント(A4で1~2ページ)に、解説を加えたものである。だいたい4ページぐらいになる。ここまでのことで思うことなど書いておく。二点ほど書いてみる。

第一に、話したいことの要点だけを整理して書くのならば、A4で2ページあれば十分だということである。簡潔にポイントだけ整理するならば、これで十分な情報は伝えられる。この意味では、教材プリント配布方式も、教育的には、ある程度は有効だろうと判断している。(音声データ付きのPowerPointスライドという方式もあるが、これも、要点だけ文字にしてしまえば、同じような分量になるだろうと思う。)

これもいいかえれば、A4で2~4ページほどのことを、毎回90分かけて、何を話しているかということにもなる。考えてみれば、半分は、余談、雑談の類である。あるいは、はなしことばの冗長性といってもいいかもしれない。

実は、これこそが、本当に大切なものであるともいえる。私は、今の時点で第一線の研究者が考えているような問題については、板書もしないし、もちろんプリントにも書かないで、ただ話すだけにしている。大事なことは、黒板には書きません、話すだけにしておきますと言って話しをしている。プリントに書いていることは、その前提として、共有しておくべき基本的知識ということに限定している。(だから、ある意味では、現時点の学問的な知見からすれば、問題がありうることであっても、とりあえず、それを知っておくべきこととして学生にはしめすことにしている。)

ともあれ、最低限これぐらいの知識はもっておいてくれないと、専門書や論文などを読んでも理解できないだろう、その基本知識の部分は、なんとか教えることができるだろうというのが、今のところの判断である。これ以上のことは、まさに学生が自分の勉強として、専門の論文とか研究書を読むことで、考えることになる。(しかし、今、図書館が基本的に閉館になっているのは、いろいろと教育的には問題があると思う。開架書庫の本を見て回るだけでも、勉強になることなのだが、今はそれができない。)

第二に、オンデマンドでの教材配信という方式は、PCスキルや、通信容量の点からは、一番問題が少ない方式ではある。しかし、その一方で、肝心の学生の勉学へのやる気の点からは、ハードルが高いかもしれない。

まず、大学のLMS(Learning Manegement System)に教材をおいておいても、アクセスして読んでくれない。毎週水曜日の授業であるので、毎週水曜日の朝には、LMSにファイルをアップロードしておく。しかし、まったくアクセスしない学生が少なからずいる。

これも、考えてみれば、普通に教室で授業を始めたからといって、出席率が100%ということはない。最初のうち、多く出てきているときでも、7~8割といったところだろうか。例年、5月の連休が終わって、おちついてきたころになると、半分ぐらいになる。そして、試験のときだけは学生が出てくる。しかし、試験といっても、これも100%出てくるということはない。これまでの経験では、これもおよそ7~8割といったところである。履修登録はしても、試験にも出てこない学生がが多い。

オンラインになってからといって、いきなり学生の勉学意欲が向上するというものではないであろう。むしろ、逆に、大学という場があって、そこで、時間割で決まった時間に出席しているという、ある種の強制力、あるいは、習慣のようなものがあって、続いている。それを、オンラインで、しかも、オンデマンド方式でやるとなると、学生自身が自分のやる気を維持しつづけなければならない。これは、ある意味で、ハードルの高いことである。

しかし、反面、これまでの「学校」というシステム、強制的に教室に時間割どおりに出てくる、ということになじめなかった学生が、オンライン授業であるならば、なんとかついて来ることができている、この可能性も考えてみなければならない。

総合的に考えれば、普通の授業を時間割どおりに教室で行うのと、オンデマンドのオンライン方式と、トータルでは同じようなものかもしれないと思う。もちろん、オンライン授業のなかには、リアルタイム双方向通信による(例えば、ZOOMやWebexなどの利用)ものもあってよい。ここは、多様性を考えてみるべきだと思う。

以上の二点が、今のところ考えているところである。

前期の間は、オンライン授業が続くとして、その間、自分なりにいろいろと考えてみたいと思っている。

2020年5月15日記

追記 2020-05-23
この続きは、
やまもも書斎記 2020年5月23日
オンライン授業あれこれ(その五)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/23/9249568

『エール』あれこれ「夢の新婚生活」2020-05-17

2020-05-17 當山日出夫(とうやまひでお)

『エール』第7週「夢の新婚生活」
https://www.nhk.or.jp/yell/story/week_07.html

前回は、
やまもも書斎記 2020年5月10日
『エール』あれこれ「ふたりの決意」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/10/9244938

とうとうこのドラマも、COVID-19の影響で撮影が中止、放送も中断ということになってしまった。あとしばらくは、放送があるようだ。

この週を見て思ったことなど書いて見ると、次の二点ぐらいだろうか。

第一に、裕一と音のバカップルぶり。

東京で新婚生活をはじめた裕一と音は、まさにバカップルである。その馬鹿馬鹿しいほどのふたりの生活が、実に微笑ましかった。

やはり些細なことだが食べ物は大事である。八丁味噌(何も具がはいっていない味噌汁)と、納豆……まあ、それぞれに、地方色のある食べ物であり、好みがあるだろう。

第二に、裕一のダメ男と音の頑張り。

裕一は、レコード会社に就職したとはいうものの、まだ作曲が採用されるにいたっていない。同期入社の木枯の方は、作品がレコードになったという。しかし、裕一は、うまくいかない。

そんな裕一に対して、音の方は、音楽学校で頑張る。学校の記念公園の「椿姫」にも応募する。なんとか、一次審査は通った。また、夫の裕一のレコード会社との契約をめぐっても、会社に直談判に乗り込んでいく。このあたり、まだ芽の出ない裕一をささえる、音の積極的な生き方が、対照的で面白かった。

以上の二点が、この週を見て思ったところなどであろうか。

ところで、プリンスとして登場してきた久志、実は、裕一の幼なじみであった。この再開が、裕一の今後に大きく影響するようだ。

さて、来週は(まだ、来週の放送は大丈夫のようだ)、紺碧の空である。昭和戦前の早慶戦野球のことなど出てくるだろうか。楽しみに見ることにしよう。

2020年5月16日記

追記 2020-05-24
この続きは、
やまもも書斎記 2020年5月24日
『エール』あれこれ「紺碧の空」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/24/9249893

『戦争と平和』(五)トルストイ/岩波文庫2020-05-18

2020-05-18 當山日出夫(とうやまひでお)

戦争と平和(5)

トルストイ.藤沼貴(訳).『戦争と平和』(五)(岩波文庫).岩波書店.2006
https://www.iwanami.co.jp/book/b248230.html

続きである。
やまもも書斎記 2020年5月15日
『戦争と平和』(四)トルストイ/岩波文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/15/9246826

第五巻まで読んできた。歴史上の出来事としては、フランス軍はモスクワに迫る。ロシア軍はモスクワを放棄して逃げ去る。そして、冬が来て、今度は、フランス軍がモスクワから撤退ということになる。

この大きな歴史の流れのなかで、この小説の登場人物……アンドレイ、ピエール、ナターシャ、マリアなど……にそれぞれ、劇的なドラマが待ち受けている。

読んで思ったことなど書いてみると、次の二点になるだろうか。

第一には、プラトンのこと。フランス軍に捕らえられたピエールが出会う農民である。

この『戦争と平和』は、基本的に貴族が登場人物である。軍人として登場する人物も、指揮官クラス以上である。そのせいか、この小説を読んで、今一つ、今日でいう「国民」とか「市民」ということばいっている概念と、どうもしっくりこない。

これは、一九世紀の初頭のロシア、あるいは、ヨーロッパの話しだから、近代的な市民というものが成立する以前の話し、そう思って読めばいいのかもしれない。そう思ってはみるものの、現代の「国民国家」を基盤とした「市民社会」というものに慣れた視点からは、どうもよくわからないところがある。

その中にあって、プラトンという農民は特異な印象がある。おそらく、この人物には、作者(トルストイ)の、ある種の理想が投影されているのだろうことは、感じとれる。解説(コラム)によると、ここには、東洋の老荘思想の反映があるとのことである。

第二には、戦争のこと。

どうも西洋史、また、ロシアの近代史にうとい人間なので、大きな歴史の流れがわかりにくい。いや、おおまかな歴史……戦争においてナポレオンは結局は敗退することになる……ぐらいは分かっているのだが、その戦争の歴史の細部にわたっては、皆目知識がない。

ここを補うものとして、この岩波文庫の訳には随所にコラムが挿入してあり、当時のロシアの風俗や生活のことなどについて、解説がある。これはありがたいと思って読んできた。

読んでいて、歴史的な叙述の部分については、どうもよくわからないというのが正直なところではある。しかし、小説の中の登場人物であるピエールなどのところになると、ふと読みふけってしまうことにもなる。これが、もし、この小説の歴史的背景について十分な予備知識を持っているのならば、歴史的な叙述の部分についても、楽しめるのだろうとは思う。

以上の二点ぐらいを思ったこととして書いてみた。

それから、やはりこの第五冊目においても、ナターシャは魅力的である。清楚で情熱的な、おそらく作者は、理想のロシア女性として描いている。

残りは、最後の六冊目である。続けて読むことにしたいと思う。

2020年5月13日記

追記 2020-05-21
この続きは、
やまもも書斎記 2020年5月21日
『戦争と平和』(六)トルストイ/岩波文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/21/9248933

『麒麟がくる』あれこれ「越前へ」2020-05-19

2020-05-19 當山日出夫(とうやまひでお)

『麒麟がくる』第十八回「越前へ」
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/18.html

前回は、
やまもも書斎記 2020年5月12日
『麒麟がくる』あれこれ「長良川の対決」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/12/9245737

美濃での斎藤道三の死をうけて、光秀は越前へ逃げることになる。この回から、越前編ということらしい。見ていて思ったことなど書くと、次の二点ぐらいだろうか。

第一には、武士とは何であるかということ。

越前の朝倉のもとに身を寄せた光秀一行は、ともかくも住まいを見つけることができたようだ。ここで、光秀は述懐する。武士とは何であるのか。武士の誇りとは何であるのかと。

そう思ってみるならば、これまでの大河ドラマは、その多くは主人公が武士、および、その周辺の人物である。戦国時代はもちろんのこと、幕末を舞台にした作品でも、明治維新をなしとげた武士の視点から描かれたものが多かったと思う。これらのドラマを通して、それぞれの作品において語りかけてきたものは、武士とは何であるのか、という問いであったかとも思う。

光秀の場合はどうだろうか。武士とは戦において戦うものである。だが、戦の無い世の中にしなければならないとも、思う。そのような世の中にあって、武士の存在意義とは何であるのか。それを、光秀は、誇りをもって生きるものとしている。

美濃の国の明智の領地を離れて越前に逃げ延びてきた光秀にとって、自分をささえる武士の理念は、誇りということになるのだろう。美濃を離れてしまった今では、領地を守ることに何の意味も無い。ただ、武士として戦乱の世の中を生きていくだけである。

第二には、信長のこと。

信長は、信勝と対立することになる。結果としては、信長が信勝を殺してしまうことになるのだが、さて、この信長という人物は何を考えているのだろうか。尾張の国を平定することだけを考えているのではなさそうである。

信長は、また信長なりに、戦乱の時代を生き抜いていく算段をこらしているように思える。ただ、それは、あまりに非情で冷酷な判断をともなうものでもある。そして、その信長の背後によりそっているのが、帰蝶である。信勝との一件も、どうやら、帰蝶がたくらんだことのようにも思えてくる。

以上の二点が、この回を見て思ったことなどである。

この回において、光秀と信長の人生が交わるということはない。これからの展開で、どのように、このふたりの生き方が交錯することになるのだろうか。武士としての理想を追求する光秀と、冷酷非情な信長、この二人の生き方が、どのような歴史のドラマとして描かれることになるのだろうか。そして、そこに帰蝶は、どう関係してくるのか。

撮影が中断しているとはいえ、あとしばらくは放送が続くようである。次回の展開を楽しみに見ることにしよう。

2020年5月18日記

追記 2020-05-26
この続きは、
やまもも書斎記 2020年5月26日
『麒麟がくる』あれこれ「信長を暗殺せよ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/26/9250638

ハナニラ2020-05-20

2020-05-20 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので写真の日。今日はハナニラである。

前回は、
やまもも書斎記 2020年5月13日
オオイヌノフグリ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/13/9246088

これも写したのは先月のことになる。道ばたに咲いている花を写してみようと思って、カメラと三脚を持って家をでて、少し歩いたところで、この花の咲いているのを見つけた。たぶん、ハナニラであると思う。

日本国語大辞典(ジャパンナレッジ)をひいてみる。はなにら「花韮」として、

ユリ科の球根植物。南米原産で観賞用に栽培される。

とあり、さらに説明がある。しかし、ことばの用例が載っていない。ここは、ことばとしての用例を載せてのせておいてもらいたいものである。

使っているレンズは、タムロンの180ミリ。地面近くに咲く花を写すのには重宝する。特に背景のボケがきれいである。ちょっと重たいので、遠出に持って行く気にはなれないが、少し家の近所を歩くぐらいなら、三脚とこのレンズつきのカメラを持って出る。

ハナニラ

ハナニラ

ハナニラ

ハナニラ

ハナニラ

ハナニラ

Nikon D500
TAMRON SP AF 180mm F/3.5 Di MACRO 1:1

2020年5月19日記

追記 2020-05-27
この続きは、
やまもも書斎記 2020年5月27日
シャガ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/27/9250986