「独眼竜政宗」あれこれ2020-06-16

2020-06-16 當山日出夫(とうやまひでお)

麒麟がこないので……COVID-19の影響で、『麒麟がくる』の撮影が中断している。しばらくお休みである……その代わりに、HNKでは、過去の大河ドラマのうち、戦国時代に時代設定の作品の紹介ということになっている。

昨日(2020年6月14日)は、「独眼竜政宗」であった。大河ドラマ第二五作、脚本はジェームス三木、主演は渡辺謙である。一九八七年(昭和六二年)の放送。

このときには、私は、テレビを持っていたと思うのだが、そう熱心に見ていたという記憶がない。しかし、断片的には見ていたと思う。渡辺謙の主演もかろうじて覚えている。

NHKの特番では、ドラマの見せ場をいくつか紹介するということであった。なるほど、あのようなシーンがあったのかと、今になって感じ入るところが多々あった。

ところで、見ながらふと思ったことなのだが、大河ドラマというのは、現代における一種の「教養小説」のようなものかもしれない。主人公の幼いときのことからはじまって、父や母、また周りの大人たちに、見守られ、ときには厳しく叱咤され、主人公は成長していく。そして、おおむね、その生涯を閉じるまでを描く。まさに、「教養小説」である。

大河ドラマが延々とNHKが作り続けているのは、それなりに理由があってのことだろう。また、視聴者の需要もあるということにちがいない。その理由の一つとして、現代における「教養小説」という要素を考えてみると面白いかもしれない。

そう思ってみると、『麒麟がくる』は、光秀を主人公とした「教養小説」であると見ることも可能かもしれない。その生き方に影響を与えた人物としては、前半においては斎藤道三ということになる。そして、後半においては、信長であり、やがては、それが謀反につなっていくことになるのだろう。

さて、勝新太郎の豊臣秀吉も、今から見れば実に新鮮な感じがする。あのような秀吉の姿……もはや天下人と言っていいであろう……が、かつてのドラマでは描かれていた。さて、今回の『麒麟がくる』では、秀吉はどんな人物像で登場することになるのだろうか。(藤吉郎としては登場してきているのだが、まだ天下を視野に入れた武将ということではない。)

麒麟はこないが、それまでの間、いろいろと考えてみることにしようと思っている。

2020年6月15日記