『風と共に去りぬ』(六)マーガレット・ミッチェル/岩波文庫2020-06-26

2020-06-26 當山日出夫(とうやまひでお)

風と共に去りぬ(6)

マーガレット・ミッチェル.荒このみ(訳).『風と共に去りぬ』(六)(岩波文庫).岩波書店.2015
https://www.iwanami.co.jp/book/b247598.html

続きである。
やまもも書斎記 2020年6月25日
『風と共に去りぬ』(五)マーガレット・ミッチェル/岩波文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/06/25/9261349

ようやく六冊目まで読み終わった。

『風と共に去りぬ』を読みかえしておきたいと思ったのは、昨年の暮れのことである。たまたまテレビをつけたら、NHKで映画をやっていた。後半の、アトランタにいるレット・バトラーをスカーレットが訪れて金策をたくらむ場面だった。他に用事もあったりしたので、そのままテレビを見るということはなかったのだが、そのとき、もう一回『風と共に去りぬ』を読んでおきたいと思った。

この作品、これまでに何度か読んでいる。若いとき新潮文庫の旧訳で読んだ。それから、数年前、新潮文庫と岩波文庫でほぼ同時に、新しい訳がそれぞれに刊行になったとき、両方を順番に買っていって読んだ。映画も、若いときに見ているし、その後、テレビでも見ている。

『風と共に去りぬ』を再々度、読みかえしてみて思うことは次の二点になるだろうか。

第一には、喪失の物語であること。

スカーレットは、アシュリーに絶望し、メラニーに死なれ、レット・バトラーに別れをつげることになる。アトランタを去ることになる。そのスカーレットは、最後には、タラの農園に帰ることを決意する。そこには、懐かしい故郷がある。しかし、そこにあるのは、かつての南北戦争の前の南部の農園のタラではないはずである。これは、南北戦争と、その後の時代の変革によって、決定的に失われてしまったものにちがいない。

この小説は、全編を通じて、もはや無くなってしまったもの、失ってしまったものへの哀惜の念が通底しているといっていいのではないだろうか。

第二は、上記のことと反することになるが、失ってもへこたれないスカーレットのたくましさである。

南北戦争で南部が敗北し、奴隷を失うことになり、三度結婚し、二度も夫に死なれ、また、最後にバトラーにも別れることになり、さらには、子どものボニーも失ってしまう。スカーレットの人生は、挫折の連続である。しかし、決してスカーレットはくじけることがない。常に前を向いて生きている。

ここにあるのは、アイルランド移民の血をひく「スカーレット・オハラ」の強い姿である。これは、おそらく、今日の自立した女性というイメージにつなっていくものと言っていいだろう。

以上の二点、喪失感と生きるたくましさと、相反する要素が、この小説のなかには混じり合って存在している。これが、この小説の類い希なる魅力の源泉になっているのだろうと感じる。

私は、アメリカ文学の歴史にはうとい。今、この作品がどのように評価されているのか知らない。文庫の解説によれば、一般の読者の人気はあるものの、研究者の評価は決して高くないとのことである。

だが、この小説は、これからも読まれ続けていくと思う。アメリカという国の、ある時代のできごとを、特に南北戦争の敗者という視点から描いているこの小説は、おそらく、アメリカという国のなりたちを再認識する基礎をあたえてくれるものであるにちがいない。

アメリカという国のみならず、世界において、分断と対立の時代になろうとしているようだ。このような世界にあって、今から150年ほど前の歴史を舞台にして、たくましく生きた女性の物語は、これからの時代を生きる希望につながるものであると信じることとしたい。

2020年6月7日記

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