『源氏物語』(16)蜻蛉・手習・夢浮橋2020-08-10

2020-08-10 當山日出夫(とうやまひでお)

源氏物語(16)

阿部秋生・秋山虔・今井源衛・鈴木日出男(校注・訳).『源氏物語』(16)蜻蛉・手習・夢浮橋.1998
https://www.shogakukan.co.jp/books/09362096

続きである。
やまもも書斎記 2020年8月7日
『源氏物語』(15)東屋・浮舟
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/08/07/9276160

第一六冊目である。「蜻蛉」「手習」「夢浮橋」をおさめる。

ようやく『源氏物語』の小学館版を読み終えた。やはり、現代では、このテクストが、最も一般的な本だと思う。あるいは、新しい岩波文庫版(現時点ではまだ完結していないが)……これも、新しい標準的なテクストになり得るだろう。

ともあれ、『源氏物語』を読むときは、菅原孝標女になったような気分で、ただひたすらに読むことにしている。他の本には基本的に手をださなかった。だいたい、一冊を一日の割合で読むことができただろうか。

これまでに、新潮日本古典集成版でも読んでいるし、岩波文庫版(既刊分)についても、読んでいる。小学館版は、新編日本古典文学全集と同一内容で、読みやすく組版してある、古典セレクション版で読むことにした。

読み終わって感じることなど書いてみる。二点ほどある。

第一に、たぶん、『源氏物語』の作者としては、「宇治十帖」は、本編と同一人物……紫式部……なのだろうという、印象である。最初から読んできた印象としては、あくまでも印象であるが、紫の上系の物語と、玉鬘系の物語は、異なる。それが、「若菜」(上・下)で、融合することになるのだが、このあたりから、作者の筆致が変わってくる。「色好み」の物語から、近代的な意味合いでいう心理小説とでもいうべき方向に、変わってくる。それを強く感じるのは、「夕霧」からである。

光源氏の死を経て、次に、薫……光源氏からすれば不義の子ということになるが……を主人公とした物語を構想したのであろう。そして、そこで考えられたのが、落ちぶれた高貴な娘にいいよる、二人の貴公子という設定。「宇治十帖」の大君の死までは、大君、中の君、それから、薫、匂宮の、心理ドラマである。

第二に、「宇治十帖」の後半になって、浮舟を登場させることによって、二人の男性から言い寄られた女性のその後を描いてみせた。ただの物語ではなく、非常に深い心理ドラマとして。

たぶん、浮舟という女性の造形は、『源氏物語』本編では描けなかったものである。なかでも、仏教への深い傾倒、この世のこと、特に男性との関係を厭うこころのうち、そして、それを理解できないでいる、薫と匂宮。また、薫と匂宮とでは、女性に対する感じ方もちがっている。

以上の二点を思ってみる。

おそらく、『源氏物語』研究の分野では、とっくに常識的に言われていることなのだろうと思う。が、ここは、余生の読書である。ただ、楽しみのためにと思って読んでいる。

そうはいっても、王朝貴族の文学の世界において、『源氏物語』と『今昔物語集』は、意外と近いところにあるのだろうという気もする。特に、宇治川に身投げした浮舟が発見されるあたりの経緯は、実に説話的といってよい。しかし、その一方で、無事に生きのびることになった浮舟のこころのうちの心理の綾とでもいうべきものは、『源氏物語』の作者の、独擅場であろう。

COVID-19の影響いかんによっては、後期の大学の授業もどうなるかわからない。時間がとれるようなら、再度、『源氏物語』を読むことで時間をつかってみたい。

2020年7月4日記