『麒麟がくる』総集編(1)「旅立ち」2020-08-11

2020-08-11 當山日出夫(とうやまひでお)

『麒麟がくる』が、八月三〇日から放送再開とのこと。そして、それまでは、総集編を三回に分けて放送。その第一回があった。

描かれていたのは、美濃の明智の荘での若き日の光秀。それが、斎藤道三の命で鉄砲を手にいれ、京の都にも行く。そして、最後は、織田信長との出会いのところまでであった。

総集編を見て……再度見て納得したシーンもあれば、こんなシーンがあったのかと忘れてしまっていたところもいくつかあった。これはこれで、非常に面白かった。

「麒麟がくる」ということばは、駒が使ったことばだったのか、と改めて思った。このドラマの結末、歴史の結果をわれわれは知っている。光秀は信長に対して謀反をおこし、やぶれる。その後、天下を統一したのは、秀吉から家康という流れになる。だが、これを、「麒麟」と言っていいのだろうか、という問いかけであるような気がした。最終的な家康による天下統一は、はたして、「麒麟」がきたことになるのだろうか。

あるいは、家康でもなしえなかった、日本という国の理想のあり方を投影しているのが、「麒麟」ということなのかもしれない。

それにしても、総集編を見て感じたことであるが、帰蝶が美しい。ドラマの次の展開として、重要な役割を果たすことになることはわかっているのだが、それとは別に、ドラマのなかで、帰蝶の美しさが光っているように感じた。

また、やはり、信長の登場シーンが印象的であった。海から船に乗って現れる。そして、海と海上交易のもたらす富、これが後には「天下」へとつながっていくことになるのであろう。

予定どおりいけば、八月三〇日から放送再開ということなのだが、今後の合戦の場面などどう描くことになるのだろうか。それから、信長のもとでの、光秀、家康、それから、秀吉といった武将たちの、かけひきはどのようなものとして描かれるのであろうか。

放送休止中に過去の大河ドラマの放送があったが、それを見て思ったことは、戦国時代ドラマは、「天下」をめぐる、人間模様のドラマとしての面白さなのだということである。戦国武将の個性と、その織りなす人間ドラマを楽しみに見ることにしようと思う。

2020年8月10日記

オオジシバリ2020-08-12

2020-08-12 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので花の写真。今日はオオジシバリである。

前回は、
やまもも書斎記 2020年8月5日
モミジの種子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/08/05/9275488

八月になって急に暑い、いやとっても暑い日がつづいている。ちょっと外に写真を撮りに出ようという気にならないでいる。今日の写真も、以前に撮影しておいたもののストックからである。

オオジシバリ。漢字で書くと「大地縛」となるらしい。タンポポにそっくりである。ただ、葉のかたちがちがうので、それに気をつけて見ているとすぐにわかる。これは、我が家の近所の原っぱに咲いているのを見つけて写しておいたものである。

タンポポと同様に春を感じさせる花の一つと言っていいだろうか。

年々歳々、花もまた同じではない。今年は、百日紅の花の咲くのが昨年よりも早い。桔梗は、去年とくらべて遅い。ノリウツギの花は、だいたい去年と同じぐらいだろうか。ギボウシの紫色の花が、まだ咲かない。七月の雨の多い日がつづいたせいか、身の周りの花の咲くのが、昨年までとはちょっと違っている。

暑さも、ここ数日がピークかと思っている。家にいてしなければならない仕事があるので、基本的に居職である。朝のすずしいうちに散歩に出ようかと思うのだが、朝ドラを見終わった時間には、もう気温が30℃を越えている。ここしばらくは撮りおきの写真からになるかもしれない。

オオジシバリ

オオジシバリ

オオジシバリ

オオジシバリ

オオジシバリ

Nikon D500
TAMRON SP 90mm F/2.8 Di MACRO 1:1 VC USD

2020年8月11日記

追記 2020-08-19
この続きは、
やまもも書斎記 2020年8月19日
シラン
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/08/19/9280005

映画『この世界の片隅に』2020-08-13

2020-08-13 當山日出夫(とうやまひでお)

NHKで9日の日に放送であった。録画しておいて、翌日に見た。NHKは以前にも、この映画を放送している。再度見てみて思うことがいろいろとある。最初見たときには、気付かなかったいくつかのシーンが、印象的であったりもする。

原作の漫画も読んでいるし、また、TBSでドラマ化したのも見ている。漫画(原作)、アニメ、ドラマとそれぞれに、表現の違いはあるというものの、基本的に共通して描いているのは、日常というものの愛おしさであろうか。

時代設定は、主に、太平洋戦争、いや、すずの立場にたっていえば、大東亜戦争と言った方がいいかもしれない、の末期の日々である。戦局は不利な状況下にありながら、いや、むしろそのような状況下だからこそ、日々の日常生活が意味のあるものになってくる。

今回、アニメ版を見て一番印象にのこったのは、玉音放送のシーンである。昭和二〇年八月一五日、玉音放送でもって、日本国民は、敗戦ということを知ったことになる。(これはこれで、まったく問題ないとは思わない。正式に降伏文書に調印したのは、九月二日である。これは、いわゆる、八月一五日の神話の再生産といえなくもないのだが。)ともあれ、ラジオの放送が終わっても、それで、すずたちの日常が変わることはない。同じように生活が続いていく。同じように日常が続いていくからこそ、戦時下の生活の理不尽さが強く印象にのこるということかもしれない。

ただ、やはり惜しいと思うのは、リンのことが大幅に省略した編集になっていること。リンという女性……妓楼につとめている……との交流があってこそ、この作品は、より深みが増すと思う。

原作の漫画も、買って読んでしまいこんである。取り出してきて、さらに読みかえしてみようかと思う。

2020年8月12日記

『エール』あれこれ「紺碧の空」(再放送)2020-08-14

2020-08-14 當山日出夫(とうやまひでお)

『エール』第8週「紺碧の空」
https://www.nhk.or.jp/yell/story/week_08.html

本放送のときのことは、
やまもも書斎記 2020年5月24日
『エール』あれこれ「紺碧の空」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/24/9249893

前回は、
やまもも書斎記 2020年8月8日
『エール』あれこれ「夢の新婚生活」(再放送)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/08/08/9276448

「紺碧の空」で描いていたのは、裕一の音楽家としての生き方の問題であったかと、思う。

何のために作曲するのか、自分を表現するためだと裕一は思っていた。しかし、それでは、相手に伝わる音楽にならない。音楽を聴く人、歌う人のためのことを思って作ることこそ大事であると、裕一は気付くことになる。そのきっかけになったのは、「紺碧の空」の作曲を通じてであった。

これが、今後の裕一の音楽家としての人生の方向を定めることにつながっていくのだろうと思う。あくまでも、その曲を聴く人の立場にたって音楽をつくる、これこそ、国民的な作曲家として、今にのこる裕一の音楽ということになる。

また、それを支えるものとして、妻の音の存在も大きい。裕一が音楽の道に励んでいられるのも、妻の音の影での努力があってこそのことである。

この後のドラマの展開としては、作曲家として仕事をこなしていく裕一の姿を描くことになる。ヒット曲も生まれる。

ちなみに余計なことを書いておけば……「紺碧の空」は早稲田の歌である。私は、慶應義塾大学で学んだが、残念なことに、在学している期間中に、東京六大学で、慶應が優勝することはなかった。「若き血」を三田のキャンパスで聞くことはなく終わってしまった。これが、今となっては、すこし心残りである。

2020年8月13日記

追記 2020-08-20
この続きは、
やまもも書斎記 2020年8月20日
『エール』あれこれ「東京恋物語」(再放送)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/08/20/9280309

『失われた時を求めて』(1)第一篇「スワン家のほうへⅠ」プルースト/高遠弘美訳2020-08-15

2020-08-15 當山日出夫(とうやまひでお)

失われた時を求めて(1)

プルースト.高遠弘美(訳).『失われた時を求めて』第一篇「スワン家のほうへⅠ」(光文社古典新訳文庫).光文社.2010
https://www.kotensinyaku.jp/books/book110/

『失われた時を求めて』を全巻通読したのは、二年前のことになる。ある日、ふと思い立って読んでみたくなった。その時点で、岩波文庫版は一二冊目までが刊行であった。(現在では、全巻完結している。)光文社古典新訳文庫版もあったが、全巻そろっていない。結局、二年前の時は、岩波文庫で既刊分を読んで、続きを集英社文庫版で読んだのであった。

やまもも書斎記 2018年11月1日
『失われた時を求めて』岩波文庫(1)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/11/01/8986844

新たに光文社古典新訳文庫版で読んでみて思うことは、次の二点ぐらいだろうか。

第一には、これは刊行されたとき、かなりセンセーショナルな内容だったろうと思われること。

近現代のフランス文学史にはうとい。この作品が刊行された当時の世評がどうであったかは知らないのだが、おそらくは、一九世紀の文学からは突出している。特に自然主義文学と比べてみて、レベルの違う小説の作り方になっているところを感じる。

また、この第一冊目に出てくる、同性愛の描写など、その当時にあっては、かなり大胆な表現であったろう。

第二に、意識についての意識であること。

このことは、以前にこの作品を読んでいて感じたことだが、この『失われた時を求めて』は、心理小説ではない。心のうちの意識の影をみている、メタレベルの書き手の意識の存在というものがある。このことを、この第一冊目を読んで強く感じた。

以上の二点が、光文社古典新訳文庫版で、再度読んでみて思うことである。

訳者はこう書いている……「さて、いま、読者のみなさまは一九一三年の暮れのパリにいる。(中略)ただ、マルセル・プルーストという初めて目にする作家の『失われた時を求めて』「スワン家のほうへ」という書名にどことなく引かれて、五百二十八ページもある分厚い一冊を手に取って、最初のページを開いて立ち読みを始める。」訳者前口上、pp.11-12

このようなあらたな気持ちで、この訳を読んでいってみようかと思う。まだ、全巻はそろっていないのだが、既刊分だけでも読んでおきたい。

訳が変わると、作品のもっている雰囲気も変わる。岩波文庫の吉川一義訳とは、またちがった趣がある。強いて好みを言うならば、この高遠弘美訳の方が、より詩的なイメージが強いと言っていいだろうか。

COVID-19で世の中がなんとなく落ち着かないときである。こんなときこそ、古典というものをじっくりと読んでみたくなる。

2020年7月12日記

追記 2020-08-21
この続きは、
やまもも書斎記 2020年8月21日
『失われた時を求めて』(2)第一篇「スワン家のほうへⅡ」プルースト/高遠弘美訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/08/21/9280633

オンライン授業あれこれ(その一六)2020-08-16

2020-08-16 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2020年8月9日
オンライン授業あれこれ(その一五)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/08/09/9276805

ここ数日の京都や大阪の状況を見ていると、どうも後期から無事に教室で授業というわけにはいかないかもしれない。が、ここしばらくは、情勢を眺めているしかない。

前期、オンデマンド方式の授業をやってみた経験でいうならば、結果的には、教室で授業するのとかわらないかもしれない。いや、ある意味で本来の姿にもどって、勉強する意欲、意志のある学生が、きちんと学習するという形になっているとも言ってよいだろうか。

ただ、漫然と、時間割があって、決まった時間に、決まった教室に出てきて話しをきいている、すくなくとも、出席はしている……という状態ではなくなっている。このような散漫な状態で勉強した気になっているという学生を、振り落とすことになっている。

これを、プラスととらえるか、あるいは、マイナスととらえるかは、微妙なところである。

決まった時間割通りに学校に出てくることに意味がある、という立場からは、教育的にマイナスの評価にならざるをえない。しかし、そこに勉強への意志があるかどうか、ということで測ってみるならば、その気のない学生は、来なくてもいいとも言える。

そして、どうしても問題になるのが、学生のコンピュータ利用の実態。これまでの経験では、スマホも持っていない、PCも持っていない、しかし、勉強への意欲はある、という学生が、確かに存在している。このような学生にとっては、オンラインの授業というのは、厳しいことになっているにちがいない。このことは、やはり考えておく必用がある。

前期の間に四回のレポート課題とした。そのレポートを読む限りであるが、きちんと勉強している学生は、通常の授業をおこなったときと、そう変わらない。また、通常の授業があったとしても、例年、まったく授業に出てこない、試験も受けないという学生がいる。このような学生が、オンライン授業になったからといって、きちんと教材を読んでレポートを提出するとも思えない。厳しいようだが、そもそも教室に出てきてくれない学生の面倒までは、一介の教師としては、対応できることではない。オンラインの授業になって、そもそも学校のLMSを見ないような学生については、どうすることもできない。

もし、後期もオンライン授業になった場合には、さらにLMSなど活用して、学生とのコミュニケーションを取るようにしようとは思っている。これは、はっきりいって、かなりの負担にはなる。しかし、より多くの学生を、より無理なく、授業についてこれるようにするためには、可能な限りのことをするしかない。

前期のレポートは締め切った。ただ、形式的に不備のある学生については、特段の事情ということで、少し猶予をあたえて再提出の機会をもうけることにした。それを明日までということにしてあるので、それが過ぎてから、提出のあったレポートを再点検して、評価ということになる。

後期のことは、そのときになってから考えるしかない。

2020年8月14日記

追記 2020-08-23
この続きは、
やまもも書斎記 2020年8月23日
オンライン授業あれこれ(その一七)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/08/23/9281248

「太陽の子」あれこれ2020-08-17

2020-08-17 當山日出夫(とうやまひでお)

この夏において、NHKが一番力をいれて作ったかと思われるドラマの一つである。

見て思ったことなど書けば次の二点ぐらいだろうか。

第一には、科学の夢。

たとえその研究が原子爆弾だろうと……今の我々は、その結果を知っているのだが……その当時においては、原爆開発は、科学の夢であった。今日、科学にたずさわる人びとは、果たして科学にどのような夢をもっているのだろうか。夢をもってこその科学であることが、強く印象に残った。

第二には、その科学と社会。

科学も、その時代、社会、世界情勢と無縁ではない。純粋に知的営為としての科学もあり得るのかもしれないが、実際の世の中では、それがどう使われることになるのか、時代の流れのなかで位置づけられることになる。そして、原爆は、日本の戦争を終わらせることにはなった(ただ、このことについては、いろいろと評価の分かれるところのある議論である。)無論、その結果、悲惨な結果をもたらしたことも、今日のわれわれは知っている。

だが、その原爆に託された夢と、その結果と……これらから、科学は、純粋に独立してあり得るものなのであろうか。

以上の二点が、見ていて強く思ったことである。

歴史の結果としては、原爆を作ったのアメリカであった。そして、使用したのは、日本に対してであった。その結果については、言うまでもないことだろう。

その原爆を、日本でもまた開発していたことは、知られていることであるが、その詳細については、あまり広くは、知られていないといってもいいかもしれない。このあたりの事情を、このドラマは、細かく描いていたと思う。

それから、このドラマのもう一つの見どころは、戦争末期の時代の、人びとの暮らし。なかんずく、若い人びと……それが、大学の研究者であれ、兵士であれ、一般市民であれ……が、どのような思いで、その時代を生きたのか、ここのところが、哀切に描かれていたと思う。印象に残るのは、海辺でのシーン、それから、ゴンドラの唄。

戦争の時代を生きた若者のドラマとしても、心にせまるものがあった。

2020年8月16日記

『麒麟がくる』総集編(2)動乱2020-08-18

2020-08-18 當山日出夫(とうやまひでお)

放送再開までの総集編、その二回目である。

この回で描かれていたのは、美濃、尾張、今川といったあたりの地域の様相。戦国の動乱の時代である。その後のゆくえがどうなるかわからない……が、今のわれわれは、その最終の結果を知ってはいるのだが……そのゆくえのわからないなかにあって、斎藤道三が、織田信長が、どう動くことになるのか。

だが、この回を見て思ったことであるが、「総集編」ということで再編集しての放送なのであろう、帰蝶のことが興味深かった。裏で暗躍するというといいすぎかもしれないが、尾張や美濃の行く末に、大きくかかわる存在として、帰蝶があった。

また、織田信長と斎藤道三の会見シーンには、時間がつかってあった。やはり、このシーンは、戦国ドラマで、一つの見せ場となるところである。ここで、二人のやりとりのなかでは、「天下」ということばは出てきていなかったが、歴史の結果としては、いずれ「天下」をめぐって、活躍することになる。(ただ、斎藤道三は、その前に死んでしまうのだが、それは次週のことになるようだ。)

ところで、なぜ、大河ドラマでは、戦国時代とか幕末明治維新のころが、舞台となるのだろうか。(他には、忠臣蔵もよく出てくるが。)それは、やはり、「天下」とか「国家」とかをめぐる人びとの意識と行動に、興味をひくところがあるせいだろう。

『麒麟がくる』では、今までのところ(放送中断まで)、「天下」ということばは使っていない。これは、意図的に脚本が避けているのだろうと思う。そのかわりにつかわれているのが「麒麟」である。「麒麟」のくる世の中をつくることが、「天下」の統一と平安ということなのだろう。いずれ、最終的には、家康の手によって、「天下」は統一される。だが、それが本当に「麒麟」がくるということになるのだろうか。その問いかけが、このドラマのなかにはあるような気がしている。

次週、斎藤道三の死と、桶狭間の合戦ということになるはずである。楽しみに見ることにしよう。

2020年8月17日記

シラン2020-08-19

2020-08-19 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので花の写真。今日はシランである。

前回は、
やまもも書斎記 2020年8月12日
オオジシバリ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/08/12/9277756

この八月の暑さ、いや熱さは、災害である。すでに何人もの死者が出ている。天気予報の予想最高気温が、35℃ならまだいいかという気になる。これは、異常である。去年の夏も暑かったのを覚えている。自動車に乗って京都の街を走っていると、外気温計が40℃を越えることがめずらしくなかった。それでも、七月はあつかったものの八月になると、ましになったかと思う。今年は、八月の中旬になろうとしているのに、まだ熱さのピークである。

ちょっとカメラを持って外に出歩こうという気にならない。朝一番、夜が明けたころ、駐車場に出る。ようやく露草の花が咲き始めたのを確認できる。今年は、露草の咲くのが遅いようである。去年の写真を見ると、七月のうちに咲いている。これは、七月は雨の日が続いたせいだろうか。

シランを写したのは、五月のころになる。桜が咲いて、次に藤の花が咲いて、しばらくすると、池のほとりでシランの花がさく。この花は、写真に撮るのがむずかしい。花が咲いてからよりも、まだ、つぼみになる前の段階の方が、写真にはなる。花が咲くと、あちらこちらの方向に向いて花が咲くので、構図がなかなか決まらない。

来週になれば、ちょっとはこの熱さもおさまるだろうかと思う。カメラを持って外に出ることもそんなに苦にならないようになればいいのだが。

使っているレンズは、タムロンの180ミリ。現像処理のときに、露出補正を、-0.3EVとしてあるほかは、基本的にカメラまかせの撮影である。

シラン

シラン

シラン

シラン

シラン

Nikon D500
TAMRON SP AF 180mm F/3.5 Di MACRO 1:1

2020年8月17日記

追記 2020-08-26
この続きは、
やまもも書斎記 2020年8月26日
ニワゼキショウ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/08/26/9282263

『エール』あれこれ「東京恋物語」(再放送)2020-08-20

2020-08-20 當山日出夫(とうやまひでお)

『エール』第9週「東京恋物語」
https://www.nhk.or.jp/yell/story/week_09.html

本放送のときのことは、
やまもも書斎記 2020年5月31日
『エール』あれこれ「東京恋物語」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/31/9252509

前回は、
やまもも書斎記 2020年8月14日
『エール』あれこれ「紺碧の空」(再放送)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/08/14/9278391

再放送を見て印象に残るのは、次の二点ぐらいだろうか。

第一に、鉄男の恋。

福島で知り合った希穂子との悲恋。福島の新聞社で仕事を続けるためには、希穂子のことはあきらめなければならない。また、その鉄男の立場を思って、希穂子は身をひくことになる。東京に出て、カフェーで働く。その希穂子を追って、鉄男は東京に出てくる。

結局、希穂子は、鉄男のもとを去るのだが、このいきさつが、なんとも切なく哀れである。この二人を見ていたのが、音であった。

第二に、音のこと。

「椿姫」のヴィオレッタの役を目指して、音は、勉強のためということで、カフェーで働いてみることになる。そこで、目にすることになったのが、鉄男と希穂子のことであった。これが、結果的には、音に、男女の恋の気持ちの機微を教えることになったのだろう。屈折した感情を、音は、「椿姫」の最終選考で、歌で表現することになる。

以上の二点が、再放送を見て思ったことになる。

「椿姫」を歌う音の姿と、鉄男と別れてさっていく希穂子の姿が、印象的であった。

また、この「東京恋物語」で、ようやく裕一の作曲した曲がレコードになった。しかし、あまり、ヒットはしなかったようだ。裕一の曲がヒットするのは、次の展開になる。だが、ようやく裕一も、作曲家としての立場を固めてきたということになるのだろう。

『エール』の放送再開も、決まったようだ。それまでは、再放送が続く。再放送を見ていると、はじめは気付かなかった、ストーリーの伏線や、微妙な演出の工夫などに、気がつくことがある。放送再開まで、再放送を続けて見ることにしよう。

2020年8月19日記

追記 2020-08-27
この続きは、
やまもも書斎記 2020年8月27日
『エール』あれこれ「響きあう夢」(再放送)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/08/27/9282653