『麒麟がくる』あれこれ「信長公と蘭奢待」2020-12-22

2020-12-22 當山日出夫(とうやまひでお)

『麒麟がくる』第三十七回「信長公と蘭奢待」
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/37.html

前回は、
やまもも書斎記 2020年12月15日
『麒麟がくる』あれこれ「訣別」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/12/15/9326999

この回で時代の流れはおおきく動いた。信長の時代の到来である。

印象に残るのは次の二点ほどだろうか。

第一に、義昭と駒。

義昭は将軍の座に、未練があるようである。それは、権力をにぎりたいという欲望というよりも、戦のない平らかな世にするためには、戦もやむをえない。室町将軍こそが、武家の棟梁であるべきである。このような価値観のなかにいる。

しかし、時代は、確実に次の時代……信長の時代へと移っていくことになる。そして、現代の我々は知っている、その信長の時代も、光秀によってピリオドが打たれることになることを。

第二には、蘭奢待。

ここにきて、信長は、「天下」ということを意識しはじめたようだ。「天下」をとったものにふさわしいものとはなにか。そこで、正倉院につたわる蘭奢待を望むことになる。それには、天皇の勅許が必要だが、ここは正親町天皇がそれをあっさりとゆるすということであった。

蘭奢待こそが、「天下」の、あるいは、権力の象徴ということになる。

だが、正親町天皇は、信長から献上された蘭奢待になんら未練はないようだ。毛利にわたせと指示する。このあたり、世の中の趨勢として信長の時代になったことを認識しながらも、そのような世情の動きとは別のところにある、天皇という地位を考えているようである。

はたして、戦国期の武将にとって、特に信長にとって、天皇とはどのようなものであったのか、歴史学の方からはいろいろと議論のあるところだろうと思う。が、それとは別に、ドラマとして見た場合、この正親町天皇の存在は、何かしら不気味なところがある。

以上の二点が、この回を見て印象にのこったことなどである。

さらには、秀吉が光秀に語っていたことばが印象深い。室町幕府の時代はおわり、次は、我らの世であると、言っていた。たしかに、時代の流れは、信長の時代になり、光秀による本能寺の変を経て、次の秀吉の時代への移っていくことになる。このあたり、このドラマの最後になるであろう本能寺の変への布石かと思って見ていた。

次回は、丹波をめぐってドラマは展開するようだ。楽しみに見ることにしよう。

2020年12月21日記

追記 2020-12-29
この続きは、
やまもも書斎記 2020年12月29日
『麒麟がくる』あれこれ「丹波攻略命令」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/12/29/9331552

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