『麒麟がくる』あれこれ「月にのぼる者」2021-01-19

2021-01-19 當山日出夫(とうやまひでお)

『麒麟がくる』第四十一回「月にのぼる者」
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/41.html

前回は、
やまもも書斎記 2021年1月12日
『麒麟がくる』あれこれ「松永久秀の平蜘蛛」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/12/9336833

本能寺の変の背後には朝廷があったのか。あるいは、秀吉はそれを知っていたのか。

この回は、光秀を中心にいくつかの対面シーンで構成されていた。

第一には、光秀と秀吉。

この『麒麟がくる』における秀吉の描き方は、これまでのドラマとはかなりちがっていると感じる。抜け目がない、あるいは、権謀術数にたけた秀吉というイメージで描いている。これは、どちらかといえば真面目といっていい明智光秀と、どうもうまくいかないようだ。

第二には、光秀と信長。

光秀は、平蜘蛛の名器を信長にさしだす。名器はそれを持つにふさわしい人物を必要とする。だが、信長は素直にそれをうけいれようとはしない。売ってしまうといっていた。信長は、平蜘蛛を持つのにふさわしい人物たりうるのだろうか。

第三には、光秀と菊丸。

思い起こせば、菊丸は、このドラマの最初の方から登場してきている。その正体はなぞであった。結果としては、家康配下の忍びということになる。それを、光秀は知っていて逃げろという。このドラマの要所には、菊丸の忍びとしての活躍が意味を持っていたところもあった。さて、最後の本能寺の変に、もはや菊丸はかかわることはないのであろうか。

第四には、光秀と正親町天皇。

光秀は正親町天皇と会うことになる。そこで、どうやら帝は、信長という人物に見切りをつけたかと思われる。すくなくとも、もはや信長が天下を平定するにふさわしい人物であるという評価ではなくなったようだ。では、その信長に対してこれからどうあるべきか。その責務が帝から光秀に託されたとみていいのではないだろうか。

以上のようないくつかの光秀を軸とした対面シーンで、今回は構成されていた。

ドラマは、最後の本能寺の変に向かって大きく動き出したようだ。ただ、現在のわれわれは、本能寺の変があったことを知っている。また、その後の光秀のことも。しかし、ここは、歴史のドラマとして、これからどうなるであろうか、そこのところが緊張感を持って描かれていたと思う。まさに、歴史の「今」の視点が、このドラマにはあると感じる。

また、冒頭の丹波での戦の後の光秀の台詞が印象にのこっている。戦に正義はない。勝ち負けはあるが、それは時の運である。このような台詞を語った人間のおこしたものとして、この後の本能寺の変があることにある。

さらに書いておけば、駒がよかった。どこかしら憂いをおびた表情にしんみりとした思いを感じた。駒がいなくてもこのドラマは成立したと思うが、歴史に翻弄されたひとりの人間としての存在感があったと思う。

2021年1月18日記

追記 2021-01-26
この続きは、
やまもも書斎記 2021年1月26日
『麒麟がくる』あれこれ「離れゆく心」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/26/9341089

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