『おちょやん』あれこれ「お母ちゃんて呼んでみ」2021-03-28

2021-03-28 當山日出夫(とうやまひでお)

『おちょやん』第16週「お母ちゃんて呼んでみ」
https://www.nhk.or.jp/ochoyan/story/16/

前回は、
やまもも書斎記 2021年3月21日
『おちょやん』あれこれ「うちは幸せになんで」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/03/21/9359042

この週の見どころは、次の二点ぐらいだろうか。

第一に、高城百合子のこと。

これは、岡田嘉子をモデルにしてのことだと思うが……小暮と一緒に千代たちのもとにやってきた高城百合子は、警察に追われている。それを、なんとかかくまって逃亡を手助けすることになる。

ここで、高城百合子や小暮との会話がいろいと興味深い。戦争の時代になっている。当局の検閲の目が厳しくなってきている。自分の望むような演劇はできない。多くの人びとを幸せにするような芝居をもとめている。ソ連への亡命を意図しているという。

だが、千代と一平は、今のところにとどまることになる。道頓堀での家庭劇を続ける。演じているのは、愛国ものの芝居である。ここには、いろいろと難しい問題がある。結果的に見るならば……現代の視点から振り返って考えてみるならばということになるが……千代たちの芝居は、人びとにうけていたかもしれないが、それは、ある意味で、時代の流れに流されていることに他ならない。強いていうならば、戦争の時代にあって、演劇ということで、時代に迎合したということになる。

これも考えようによっては、千代たちは、時代と共に生きたということになるのかもしれない。

無論、これは、今になってから言えることであって、その時代において生きていた人びとの価値観からするならば、これはこれで一つの生き方であったにちがいない。ここのあたりのことを、今日の価値観から批判的になるでもなく、また、必要以上に肯定するでもなく、高城百合子という批判の視点を設定したところは、このドラマの脚本のたくみなところといっていいだろう。

第二には、千代と一平と寛治のこと。

結果的には、寛治は、一平たちと家族ということになった。それまでのいきさつが人情味ある描き方であった。

千代は寛治の前で自分の人生を回顧してみる。親にすてられ、弟とも別れてしまった孤独な境遇である。一平も、母親に逃げられている。千代も一平も、家庭というものを知らずに育ってきた。そのような千代と一平だからこそ、寛治のおかれている立場が理解できる。三人で、一緒に家族として暮らそうということになった。

このドラマでは、千代は家庭にめぐまれていないことになっている。だからこそ、家庭劇ということで、人と人との心のつながりを、舞台で演じようとしていることになる。劇団が、いわば、千代たちにとっての、家庭ということになる。

以上の二点が、この週の見どころかと思ったところである。

ところで、高城百合子との別れのシーンで流れていたのが、カチューシャの唄だった。この音楽は、前にもドラマのなかでつかわれていた。以前は歌もあったが、今回は演奏のBGMだけだったが。このカチューシャの唄の使い方が非常に印象的である。

次週、時代は、いよいよ戦争の時代になるようだ。戦時中の道頓堀に生きた人びとのことを、どう描くことになるのか、楽しみに見ることにしよう。

2021年3月27日記

追記 2021-04-04
この続きは、
やまもも書斎記 2021年4月4日
『おちょやん』あれこれ「うちの守りたかった家庭劇」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/04/04/9363716

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