『おちょやん』あれこれ「うちは幸せになんで」2021-03-21

2021-03-21 當山日出夫(とうやまひでお)

『おちょやん』第15週「うちは幸せになんで」
https://www.nhk.or.jp/ochoyan/story/15/

前回は、
やまもも書斎記 2021年3月14日
『おちょやん』あれこれ「兄弟喧嘩」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/03/14/9356856

この週で描いていたのは、父親のテルヲのこと。最後、テルヲが死に、その後のことまでが描かれていた。

千代のもとに、再びテルヲが現れる。どうやら病気のようである。その父親を、千代は、許すことができない。だが、警察で面会した千代とテルヲとは、どうにか、親と娘の関係をとりもどしたようである。

この週の終わり、警察での面会の金網を間にはさんだ、千代とテルヲのシーンは、おそらく朝ドラ史上に残る名場面ということになるのだろうと思う。千代は素直にテルヲを許すことはできないが、父親であるという事実は受け入れざるをえない。

ところで、この週でちょっと良かったと思うシーンがある。警察での面会を終えて、自分の家に帰った千代の場面。長屋の路地で、隣の家の家族が食事のしたくをしていた。外で、七輪で魚を焼いていた。何気ないシーンであるが、このドラマに奥行きを与えていたと感じる。別に魚を焼いていなくても、ドラマとしては十分になりたつ。しかし、警察から帰った千代には、千代としての日常の生活があることを、しみじみと表現したように感じる。

このドラマ、何気ない一言やシーンが、物語に深みを与えている。前に放送のあったところで思い出してみるならば……京都に一平が母親を訪ねていった場面。その旅館の門のところでの、女将と客との会話。この一言だけで、ここが、一般の宿泊客を相手にしているだけの普通の旅館ではないことが知れる。それは、とりもなおさず、そこまで生きてきた一平の母親の人生を物語るものになっていた。

次週、時代は進み、戦争の時代へとなるようだ。また、高城百合子も登場するようだ。楽しみに見ることにしよう。

2021年3月20日記

追記 2021-03-28
この続きは、
やまもも書斎記 2021年3月28日
『おちょやん』あれこれ「お母ちゃんて呼んでみ」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/03/28/9361296

『猫を抱いて象と泳ぐ』小川洋子2021-03-22

2021年3月22日 當山日出夫(とうやまひでお)

猫を抱いて象と泳ぐ

小川洋子.『猫を抱いて象と泳ぐ』(文春文庫).文藝春秋.2011(文藝春秋.2009)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167557034

続きである。
やまもも書斎記 2021年3月19日
『妊娠カレンダー』小川洋子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/03/19/9358420

チェスをあつかった小説である。

が、あいにくと、私はチェスを知らない。見たことはあると思うのだが、実際にプレーした経験はない。ただ、知識としてそのゲームがあるということを知っているだけである。

しかし、チェスを知らなくても、この小説は十分に楽しめる。まさに、小川洋子の文学世界がここには展開されている。

チェスの才能にめぐまれた、ある少年の物語である。その少年は、一一才で成長がとまってしまう。チェスの才能はあるのだが、普通にプレーすることをしない。チェスのテーブルの下にもぐって、人形を操作してプレーする。こう書いてしまうと、なんとも奇妙な物語という感じなのだが、読んでいくと、これが実にすんなりと読めてしまう。小川洋子ならではのストーリーテラーの物語である。

それにしても、小川洋子の作品の登場人物は、寡黙な人間が多い。主人公の少年も多くを語ることがない。ただ、チェスのプレーと棋譜に、物語を読みとっている。棋譜のなかに、対戦する相手のこころが語られる。

現代日本において、チェスを題材にあつかった、希有な小説といっていいのだろうと思う。

2021年3月11日記

追記 2021-03-25
この続きは、
やまもも書斎記 2021年3月25日
『貴婦人Aの蘇生』小川洋子
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/03/25/9360319

『青天を衝け』あれこれ「栄一、胸騒ぎ」2021-03-23

2021-03-23 當山日出夫(とうやまひでお)

『青天を衝け』第6回「栄一、胸騒ぎ」
https://www.nhk.or.jp/seiten/story/06/

前回は、
やまもも書斎記 2021年3月16日
『青天を衝け』あれこれ「栄一、揺れる」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/03/16/9357551

幕末から明治維新にかけては、いろんな歴史観があり、また、それぞれにドラマとしての作り方もあるだろう。この『青天を衝け』においては、武士の時代は終わるべくして終わったということになるのかと思う。ドラマのなかで、かたくなに尊皇攘夷をさけんでいるのは、水戸の斉昭ぐらいなものである。その時代の影響として、栄一なども尊皇攘夷とは言っているが、所詮は時代の雰囲気のようなものとしてである。幕府の中枢は、開国の方針である。

武士の支配の時代が終わるということは、それまでの身分秩序が崩壊することになる。身分秩序といって、悪くとらえれば社会の階層、階級ということになるだろうが、別の面で見るならば、社会的な役割分担ともいえるかもしれない。武士が武士としての役目を終えたとき、社会の軸になる役割を誰がどのようにはたすことになるのか、このあたりにたぶん渋沢栄一という人物の活躍する場面が開けてくるのではないだろうか。

それにしても、このドラマに出てくる阿部正弘にしても、また、慶喜にしても、開明的である。まあ、阿部正弘はその仕事の途上で亡くなることにはなるのだが。となると次に興味があるのは、井伊直弼をどのように描くか、というあたりになるだろうか。当然ながら、幕府に引導をわたす役割は、慶喜が担うことになるにちがいない。

開明的な名君として描かれることになる慶喜と、栄一はこれからどのように交わっていくことになるのだろうか。それは、おそらく「近代」というものを、どう構想するかということにかかわっていくことになるにちがいない。このドラマが、明治以降の近代日本をどのように描くことになるのか、このあたりが今から楽しみではある。(この意味では、これから出てくるはずのパリ万博が大きな意味をもってくると思う。)

おそらくこれまでの大河ドラマで描かれてきた幕末、明治維新とはちがった、新しいイメージがこのドラマにはあるような感じがしている。維新を起こした勝者でもない、また敗者でもなく、近代日本の担い手としての栄一の活躍ということに期待したい。

ところで、相変わらず江戸城のセットがなんとなくショボい。たぶん、栄一の故郷の血洗島の村を作ってしまうので、製作予算のかなりを使ってしまったせいかと思う。

また、この回の見どころとしては、道場破りのシーンであったかもしれない。これは、なかなか迫力があった。

江戸の徳川幕府は、どう見てもドタバタ騒ぎである。これで無事に明治維新ということになるのだろうか、ちょっと気になるところではある。(まあ、ドタバタ騒ぎのあげくの明治維新ということであってもいいような気がするが。)

次回、栄一の生き方に変化があるらしい。楽しみに見ることにしよう。

2021年3月22日記

追記 2021-03-30
この続きは、
やまもも書斎記 2021年3月30日
『青天を衝け』あれこれ「青天の栄一」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/03/30/9361951

2021-03-24

2021-03-24 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので写真の日。今日は桜である。

前回は、
やまもも書斎記 2021年3月17日
土筆
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/03/17/9357822

今年は、桜の花の咲くのが早い。以前に撮った写真をみてみると、例年このころはまだ花芽の状態である。それが、もうほぼ満開といってよい状態になっている。

テレビのニュースなど見ると、これは全国的に早いようだ。今年の冬は寒かったという印象があるのだが……一月には雪が降ったし、池の水も凍ることがあった……春になって、三月以降、かなり暖かい日が続いている。

写しているのは、毎年、写真にとっている我が家の駐車場の桜の木である。この木、数年前から写真にとっているが、どうも花があまり咲かなくなった。植木屋さんに頼んで、根元のところに肥料をほどこすなどのことをしてもらった。これが、二年ほど前のことになるだろうか。そのせいか、この桜の木は、我が家の他の桜に比べても開花が早い。

外に出ると、沈丁花の花の香りがする。地面には、藪椿の花が落ちているのが目につく。山吹の花がそろそろさくだろうかと思っている。これから、春の花の写真を撮っていきたいと思う。

桜

桜

桜

桜

桜

桜

桜

Nikon D500
TAMRON SP AF 180mm F/3.5 Di MACRO 1:1

2021年3月23日記

追記 2021-03-31
この続きは、
やまもも書斎記 2021年3月31日
雨に散る桜
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/03/31/9362250

『貴婦人Aの蘇生』小川洋子2021-03-25

2021-03-25 當山日出夫(とうやまひでお)

貴婦人Aの蘇生

小川洋子.『貴婦人Aの蘇生』(朝日文庫).朝日新聞出版.2005(朝日新聞社.2002)
https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=7109

続きである。
やまもも書斎記 2021年3月22日
『猫を抱いて象と泳ぐ』小川洋子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/03/22/9359343

タイトルにある「A」は、アナスタシアである。ロシア出身の貴婦人、いわずとしれたロマノフ王朝の王女である。史実としては、ロシア革命のときに、殺されてしまったようなのだが、しかし、文学などの世界では、生きのびている。どこかしら謎めいた高貴なロシア人女性の正体は……ということで、多くの作品に登場していたかと記憶する。

この文庫版の解説を書いているのは、藤森照信。その解説にあるとおり、小川洋子の文章には透明感がある。決して血湧き肉躍るような文章ではない。そして、あの世とこの世、二つの世界にまたがっているような感覚になる。さらに、小川洋子の文章は視覚的である。このような指摘については、私は深く同意するところがある。

動物の剥製にかこまれてすごす伯母さん。その住まいする洋館。そういえば、小川洋子の作品には、建築として「洋館」が多く登場するように思える。現代日本において、洋館は、どこかエキゾチックであり、日常とは切り離された異次元の世界への通路のごとくである。その洋館を舞台にすることで、この小説は、不思議な存在感がある。

小川洋子の作品のなかにどう位置づけることになるのか、私には判然としないところもあるのだが、読後には充足感の残る作品である。つづけて、小川洋子の作品を読んでいこうと思う。

2021年3月23日記

追記 2021-04-12
この続きは、
やまもも書斎記 2021年4月12日
『夜明けの縁をさ迷う人々』小川洋子
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/04/12/9366470

『クララとお日さま』カズオ・イシグロ/土屋政雄(訳)2021-03-26

2021-03-26 當山日出夫(とうやまひでお)

クララとお日さま

カズオ・イシグロ.土屋政雄(訳).『クララとお日さま』.早川書房.2021
https://www.hayakawa-online.co.jp/shopdetail/000000014785/

話題の本といっていいだろう。出てさっそく買って読んだ。

読んで思うことはいろいろある。二つばかり書いてみる。

第一には、AIというものを、文学、特に小説のなかに大胆にとりいれた作品として、非常に興味深いということ。

たぶん、文学におけるAIということであるのならば、SF作品に多くの先行事例があるにちがいないのだが、あいにくと、私は、SFは読まないことにしている。それから漫画も読まない。これらにまで手をひろげると、読む本の際限がさらになくなって収集がつかなくなるので、割りきって読まないことにしている。

SFではない、(普通の)小説においてAIと人間ということについて、真正面からとりくんだ作品として、きわめて意欲的であるといえよう。

AIが、「意志」をもち、「感情」をもったとき、それは人間にとって何であるのか。いや、AI自身にとって、逆に人間とは何であり、自己とは何であるのか、根本から問いかける作品になっている。

といって、深遠な哲学的論議が交わされるという作品ではない。AIと人間との、日常的な交流の世界が、むしろ淡々と描かれるといっていいだろう。だが、そのなかで、人間が人間たる所以はいかなるところにあるのか、という問いかけが根底にあることは、理解される。

第二には、AIの物語ということを横においておいて、普通に物語として読んで面白いものになっているということである。これは、やはり、カズオ・イシグロならではの、作品作りのたくみさを感じさせるという展開になっている。

前述のように、この小説はあっとおどろくような波瀾万丈の大活劇という作品ではない。じっくりと読ませる作品になっている。そこで、じんわりとカズオ・イシグロの物語世界に入って読んでいく楽しみがある。

以上の二点が、この作品を読んで思うことなどである。

たぶん、AIと文学ということは、これからの文学の世界において、大きなテーマになっていくにちがいない。AIについて考えることは、人間の人間としてあることの意味を、根本的に考えることにつながる。その入り口のところまで、現代のAI技術はきている。このことに無関心であるということは……あるいは、あえてそのことについては発言はしないという選択肢はあるにしても……「文学」(広い意味での人文学をふくめて)において、喫緊の重要な課題の一つであると認識している。

2021年3月24日記

『贖罪』イアン・マキューアン/小山太一(訳)2021-03-27

2021-03-27 當山日出夫(とうやまひでお)

贖罪

イアン・マキューアン.小山太一(訳).『贖罪』(新潮文庫).新潮社.2019(新潮社.2003)
https://www.shinchosha.co.jp/book/215725/

現代の英国文学の最高傑作と言われている作品である。文庫本で出た時に買ってつんであった。イアン・マキューアンは、読んでおきたいと思っている作家の一人。最新作『恋するアダム』を読もうと思って買って、その前に、この作品を確認しておくべきだと思って手にした。

(これは書いていいことだろうとおもうのだが)この作品、ミステリ用語でいう叙述トリックの作品である。叙述トリックというのは、作者と読者の関係は何なのか、作者とは何なのか、フィクションとは何であるのか……このような問いかけをふくんでいる。いいかえるならば、一九世紀的な、作者と読者の関係、神の視点からの人間描写ということを、うたがってみる視点をもつということでもある。

だからというべきか……私の場合、ミステリ大好き人間としては、特にこの作品の構造におどろくということはなかった。ただ、そうはいっても、文学作品として非常に巧みにつくってあり、また、文学的感銘の残る作品であることはたしかである。

私がこの作品を読んで感じたことは、近代の小説における「神の視点」ということである。そこに疑義をさしはさむというのではないが、もはや自明なものとして「神の視点」では、現代の小説は描けないということを、この作品は物語っているように思える。

二一世紀において、フィクションとしての小説がなりたつとしたならば、いったいどのようなところに可能なのか、そこのところを、この小説は問いかけているように思えたのである。

2021年3月24日記

『おちょやん』あれこれ「お母ちゃんて呼んでみ」2021-03-28

2021-03-28 當山日出夫(とうやまひでお)

『おちょやん』第16週「お母ちゃんて呼んでみ」
https://www.nhk.or.jp/ochoyan/story/16/

前回は、
やまもも書斎記 2021年3月21日
『おちょやん』あれこれ「うちは幸せになんで」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/03/21/9359042

この週の見どころは、次の二点ぐらいだろうか。

第一に、高城百合子のこと。

これは、岡田嘉子をモデルにしてのことだと思うが……小暮と一緒に千代たちのもとにやってきた高城百合子は、警察に追われている。それを、なんとかかくまって逃亡を手助けすることになる。

ここで、高城百合子や小暮との会話がいろいと興味深い。戦争の時代になっている。当局の検閲の目が厳しくなってきている。自分の望むような演劇はできない。多くの人びとを幸せにするような芝居をもとめている。ソ連への亡命を意図しているという。

だが、千代と一平は、今のところにとどまることになる。道頓堀での家庭劇を続ける。演じているのは、愛国ものの芝居である。ここには、いろいろと難しい問題がある。結果的に見るならば……現代の視点から振り返って考えてみるならばということになるが……千代たちの芝居は、人びとにうけていたかもしれないが、それは、ある意味で、時代の流れに流されていることに他ならない。強いていうならば、戦争の時代にあって、演劇ということで、時代に迎合したということになる。

これも考えようによっては、千代たちは、時代と共に生きたということになるのかもしれない。

無論、これは、今になってから言えることであって、その時代において生きていた人びとの価値観からするならば、これはこれで一つの生き方であったにちがいない。ここのあたりのことを、今日の価値観から批判的になるでもなく、また、必要以上に肯定するでもなく、高城百合子という批判の視点を設定したところは、このドラマの脚本のたくみなところといっていいだろう。

第二には、千代と一平と寛治のこと。

結果的には、寛治は、一平たちと家族ということになった。それまでのいきさつが人情味ある描き方であった。

千代は寛治の前で自分の人生を回顧してみる。親にすてられ、弟とも別れてしまった孤独な境遇である。一平も、母親に逃げられている。千代も一平も、家庭というものを知らずに育ってきた。そのような千代と一平だからこそ、寛治のおかれている立場が理解できる。三人で、一緒に家族として暮らそうということになった。

このドラマでは、千代は家庭にめぐまれていないことになっている。だからこそ、家庭劇ということで、人と人との心のつながりを、舞台で演じようとしていることになる。劇団が、いわば、千代たちにとっての、家庭ということになる。

以上の二点が、この週の見どころかと思ったところである。

ところで、高城百合子との別れのシーンで流れていたのが、カチューシャの唄だった。この音楽は、前にもドラマのなかでつかわれていた。以前は歌もあったが、今回は演奏のBGMだけだったが。このカチューシャの唄の使い方が非常に印象的である。

次週、時代は、いよいよ戦争の時代になるようだ。戦時中の道頓堀に生きた人びとのことを、どう描くことになるのか、楽しみに見ることにしよう。

2021年3月27日記

追記 2021-04-04
この続きは、
やまもも書斎記 2021年4月4日
『おちょやん』あれこれ「うちの守りたかった家庭劇」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/04/04/9363716

『原野の館』ダフネ・デュ・モーリア/務台夏子(訳)2021-03-29

2021-03-29 當山日出夫(とうやまひでお)

原野の館

ダフネ・デュ・モーリア.務台夏子(訳).『原野の館』(創元推理文庫).東京創元社.2021
http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488206062

創元推理文庫の新刊、厳密には新訳ということで読んでみることにした。ダフネ・デュ・モーリアの作品は、『レベッカ』が有名かもしれない。他には、『レイチェル』がある。それから、『鳥』の作者でもある。『鳥』は、映画の方が有名だろうか。

主人公はメアリー。母が亡くなって孤独の身となって、叔母のもとにゆくことになる。それは、荒野のなかに立つ、ジャマイカ館という家だった。そこには、叔母の夫もともにいるのだが、何かしら怪しげである。謎につつまれた館の正体は、どうやら密貿易らしい。そして、悲劇が起こる。限られた登場人物でありながら、これから先いったいどうなることだろうと読みふけってしまった。

この作品は、舞台背景がいい。日本語訳のタイトルは、「原野の館」であるが、「原野」には「ムーア」とルビがふってある。英国の、荒涼たる原野のひろがる地域で、この作品は展開する。

サスペンスに満ちた作品であると同時に、ある種のフーダニットにもなっている。まあ、登場人物がきわめて限定的だから、事件の背後にある真相としては、あの人物なのかなとおぼろげには推測しながら読むことにはなる。しかし、そうはいっても、そこにいたる道筋は、実にたくみである。特に、「真犯人」が正体をあらわすところなどは、本から目がはなせなくなる。

それから感じることは、この作品などに見られる、英国のミステリの文学的芳醇さである。これは、なかなか日本の作品には求めがたいものがある。たぶん、ミステリという文学のなりたつ社会的、歴史的、文化的な背景の違いによるものなのだろう。ともあれ、この作品、新訳ということで再度世に出た作品であるが、間違いなく傑作といっていい作品である。

2021年3月28日記

『青天を衝け』あれこれ「青天の栄一」2021-03-30

2021-03-30 當山日出夫(とうやまひでお)

『青天を衝け』第7回「青天の栄一」
https://www.nhk.or.jp/seiten/story/07/

前回は、
やまもも書斎記 2021年3月23日
『青天を衝け』あれこれ「栄一、胸騒ぎ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/03/23/9359712

この回で描いていたのは、『青天を衝け』というドラマのタイトルの由来、といってもいいだろう。

まずは、例によって徳川家康の登場からであった。江戸時代、漢詩が多くの人びとによって読まれ、また作られていたことの説明から。このあたりは、入門的な知識としては妥当なところであったかもしれない。ここも専門的にいえば、日本における漢詩文の歴史ということを、論じなくてはならなくなる。そこを、さらりと流していた。

ただ、最近出た本としては、岩波文庫の『江戸漢詩選』(上・下)揖斐高(編訳)がある。たまたまということであったのだろうが、時宜にかなった番組のスタートであると感じた。

その「青天を衝け」であるが、これは栄一が作った漢詩のなかにある「衝青天」からとったものということになる。このあたり、ドラマのなかでは、漢文訓読ということではなく、漢詩の現代日本語訳という形式であつかってあった。ここは漢文訓読ということであった方が、雰囲気はでるにちがいないが、やはり一般の視聴者には、分かりにくいと判断してのことだったのだろう。

ところで、ドラマの方はというと、基本的に次の二点だろうか。

第一には、栄一をめぐる血洗島の様子。

ここでは、一つには、「尊皇攘夷」ということで時流に流されていく村の若者の一人という描き方であった。これは、たぶん、その当時の雰囲気としては、そんなものだったのだろうと思うところでもある。

もう一つは、栄一と千代とのこと。千代を演じているのは、橋本愛。屈折した感情というものをうまく表現していたように感じる。

第二には、江戸城のドタバタ騒ぎ。

一橋慶喜を次の将軍にということになるようだが、(実際、史実としては、慶喜が最後の将軍となる)、そこにいたる過程は、どうみてもドタバタ騒ぎである。最後に、井伊直弼が登場していたのだが、これから安政の大獄があることを考えてみるならば、どうも登場の仕方が、軽々しいという印象をもってしまう。

このあたり、このドラマでは、江戸幕府の最後の有様を、ドタバタ騒ぎのあげくに、慶喜が最後の将軍として英断を下したということになるのかと思って見ている。そう思って見ると、水戸の斉昭の軽薄さも、なんとなく理解できる。(普通ならもっと重厚な演技で見せるところだろうと思うのだが。)

以上の二点が、この回を見て思ったことなどである。

次回、栄一と千代とのことが発展し、さらには、安政の大獄ということになるようだ。楽しみに見ることにしよう。

2021年3月29日記

追記 2021-04-06
この続きは、
やまもも書斎記 2021年4月6日
『青天を衝け』あれこれ「栄一の祝言」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/04/06/9364438