『警視庁草紙』山田風太郎2021-04-01

2021-04-01 當山日出夫(とうやまひでお)

警視庁草紙

山田風太郎.『警視庁草紙』(「山田風太郎明治小説全集」第一巻).筑摩書房.1997(文藝春秋.1975)

山田風太郎を読み返してみたくなって古本で買った。(この本、今では古本でかなり安価で買うことができる。)

私にとって、山田風太郎は、まず、『戦中派不戦日記』の作者である。これは学生のときに読んだ。そして、『警視庁草紙』からはじまる一連の明治伝奇小説の書き手である。また、晩年の仕事としては、『人間臨終図鑑』がある。それから、『八犬伝』も読んだ作品である。ただ、世の中では、忍法ものの作者として知られているかと思う。

『警視庁草紙』を読んだのは、たしか学生のとき。文春文庫版であったと記憶する。その後、『幻燈辻馬車』など、作品が出ると買って読んだ。以降の作品は、ほとんど単行本が出るとそのつど買って読んでいったのを覚えている。その大部分は、読んでいるはずである。

山田風太郎の明治小説には、一部に熱烈なファンがいるらしい。そのせいだろう、以前に筑摩書房から、「山田風太郎明治小説全集」として、この類の作品をあつめて刊行になった。このような「全集」が出るということは、いわゆる大衆文学にとっては、希有なことかもしれない。このとき、「全集」と同時に、ちくま文庫版でも刊行になった。筑摩書房としては、かなり力を入れた本になっていると思う。

本文にちがいはないはずだが、「全集」版は、解説(木田元)がついている。このことをとってみても、この一連の小説に対する人気ぶりがわかろうというものである。ただ、この本が出た当時、私としては、すでにほとんどの作品を読んでいたということもあって、買わずに済ませてしまっていた。

今、見てみると、依然として人気があるようで、山田風太郎の作品のいくつかは、新しい文庫本で刊行されているものがかなりある。明治伝奇小説のいくつかもあるようだ。

『警視庁草紙』であるが、この作品については、すでに多くのことが語られているであろうから、特に私が何ほどのことを書くこともないだろう。が、強いて書いてみるならば、司馬遼太郎の『坂の上の雲』『翔ぶが如く』などとどうしても比較して読んでしまう。(ちなみに、私は、司馬遼太郎のこれらの作品は、少なくとも二回は繰り返して読んでいる。)

司馬遼太郎が、明治からはじまる近代日本の「光」の部分を描いたとするならば、山田風太郎は「影」の部分を描いている。「光」があるところには、かならず「影」がある。と、このようなことを、山田風太郎自身がどれほど意識していたかは、かならずしも定かではないようだ。明治というメチャクチャな時代を舞台にして、虚実入り交じった面白い物語を書きたかったらしい。

どこまで本当で、どれぐらい嘘が混じっているか、考えながら、あるいは、だまされながら読むのが、この作品の面白さというものだろう。たとえば、樋口の家のなつという少女と、夏目の家の金之助という少年が出会って話しをするシーンなど有名だろう。事実、樋口一葉と夏目漱石は、さほど年が離れているわけではない。文学者として活躍する時期には、一世代の違いはあるが。文学史の知識として知っていることではあるが、果たしてこの二人が会ったことがあるのか、どうだろうか。あったとしておかしくはない。このあたりの虚実皮膜の間が、実にたくみである。

それから、山田風太郎の明治伝奇小説は、必ずしも、幸福な終わり方をしない。『警視庁草紙』のラストのシーンなど、悲壮感にあふれているといってもいいだろう。明治の近代を作りあげる「影」の部分に、まなざしがそそがれている。

そして、『警視庁草紙』は、明らかに「歴史」を意識している。近代日本の歴史の行き着く先のひとつの結果が、昭和二〇年の敗戦ということになるが、そこを「不戦日記」の作者の目で、近代の歴史をふりかえっている。

COVID-19のこともあって、基本的に居職の生活である。本を読むことにしている。今、小川洋子の作品をみつくろいながら読んでいるところである。それから、ブッカー賞の受賞作品で翻訳のあるものについては、読んでみようとか思っている。その合間に、山田風太郎の明治伝奇小説を、読みなおしてみたい。再読、再々読、再々々読……の作品が多いが、ここは楽しみの読書である。読み返すたびに、新たな発見があるのも、また、読書の楽しみである。

2021年3月29日記

追記 2021-04-08
この続きは、
やまもも書斎記 2021年4月8日
『幻燈辻馬車』山田風太郎
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/04/08/9365078