『超空気支配社会』辻田真佐憲2021-07-01

2021-07-01 當山日出夫(とうやまひでお)

超空気支配社会

辻田真佐憲.『超空気支配社会』(文春新書).文藝春秋.2021
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166613168

辻田真佐憲の最近の文章……主にWEBに掲載のもの……を編集してある。

第一章 ふたつの同調圧力に抗って-五輪とコロナ自粛-
第二章 虚構の戦前回帰-歴史の教訓をアップデートする-
第三章 プロパガンダの最前線へ-音楽から観光まで-
第四章 総合知を復興せよ-健全な中間をめざして-

それぞれの章について、興味深い。まず、SNSが主要メディアでも無視できないような時代の状況のなかにあって、自分の立ち位置をどう決めていくのか。この考察は、示唆に富む。

私が読んで興味深かったのは、第三章。韓国における竹島の領有権をめぐる、一般国民への啓蒙活動。また、中国における共産党の歴史を観光にするテーマパーク。なるほど、こういう事例のレポートを読むと、日本はいかにも生ぬるいというか、もうちょっとどうにかならないかなと思ってしまう。

全体として、問題は、政治的なプロパガンダが、SNSによって、より大きく拡散していく社会にいることだろう。そのなかにあって、冷静に物事を見極めるのは、かなり困難になってきているのかもしれない。(ただ、自分はSNSを見なければそれで済むという問題では、もはやない。)

プロパガンダというと、昔のナチスドイツのことあたりを思い出す。だが、趣旨は異なるとはいえ、今も、より巧妙化して、反日、中国共産党礼賛のプロパガンダが、堂々と行われているというのは、ある意味で驚きでもあある。だが、これは事実であるとしかいいようがない。(ちょうど、今(二〇二一)、中国では共産党の一〇〇周年を迎えようとして、大規模なイベントが企画されている。)

著者が提唱するのが、ジャーナリズム、評論家の役割。アカデミズムではなく、いわば在野の立場から、調査研究して、総合的な俯瞰のもとに情報発信していく人材の必要を、つよくいっている。この本の場合であれば、先日なくなった半藤一利を事例にあげている。(辻田真佐憲も、半藤一利と同様に、昭和戦前の日本についての著書がある。)

さて、総合的な俯瞰的な知といわれればであるが、ちょうど、最近の話題(二〇二一)としては、立花隆がなくなったことが思い浮かぶ。私も、その著書の多くは、若いころに読んだものである。

それから、ちょっと古いところでは、これはアカデミズムよりといわれるかもしれないが、林達夫のことなどが、思い浮かぶ。

ともあれ、SNSによる言論世界から自由ではありえない現代社会において、自分の考えの方向性を考えるうえで、きわめて参考になる知見をあたえてくれる本だと思う。

2021年6月30日記

新・映像の世紀(3)「時代は独裁者を求めた」2021-07-02

2021-07-02 當山日出夫(とうやまひでお)

新・映像の世紀(3) 時代は独裁者を求めた~第二次世界大戦~

前回は、
やまもも書斎記 2021年6月25日
新・映像の世紀(2)「グレートファミリー」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/06/25/9391317

この回は、第二次世界大戦。そこで中心的に描いていたのは、ヒトラーのことだった。

このことはかなりいわれていることなのだが、ヒトラーの政権は合法的に獲得された。そして、そのヒトラーのドイツ、あるいは、ヨーロッパ制覇にに対して、どの国もが否定的だったのではない。アメリカなど、ドイツと、通商関係を通じて、深い利害関係にあった。簡単に、反ナチスということにはならない。

この意味では、日米の戦争が、どれほど具体的な利害関係にもとづくものであったのか、検証の必要があるだろう。アメリカは日本に否定的であった。だが、日本に対して、どのような権益の対立があったのか、これは、また別に問題として考えることになるだろう。

また、第二次世界大戦の終わりを、九月二日といっていたのが印象に残る。八月一五日としていなかった。九月二日は、日本が戦艦ミズーリにおいて降伏文書に調印した日である。

どうでもいいことかもしれないが、番組の最後、資料提供のなかに、靖国神社の名前があった。いったいどんな映像資料をつかったのだろうか。

それにしても、新・映像の世紀は、歴史に対して批判的である。この回の最後の台詞は、やはりこころに残る。ユダヤ人強制収容所で何が行われていたのか。戦後、ドイツ国民は見せられることになる。「知らなかった」。それに対してこたえる。「いや、あなたたちは知っていた」と。

これは、現代の世界の情勢についてもいえることだろう。独裁的な政権は、世界中に多くある。そして、そこで、何が行われているのか、その一部は、報道でも知ることができる。だが、表面上、国際協調、善隣友好の名のもとに、不干渉の立場をとることになる。

だが、歴史はかならず変わる。どのような方向に変わるかは分からないが、かならず変わる。第一次世界大戦、第二次世界大戦、冷戦、ベルリンの壁の崩壊……大きな歴史の変革を、人類は経験してきている。

これから、世界がどうなるかわからないが、ただ、それを「知らなかった」で済むことは、もはやない。グローバリズムとWEBが世界を覆っている時代である。何があっても、どこかで誰かが記録し、発信し、知ろうと思えば、いくらでも知りうる時代になってきている。

「知らなかった」とはいえない時代に生きていることを、つよく思う。

2021年7月1日記

追記 2021年7月9日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年7月9日
新・映像の世紀(4)「世界は秘密と嘘に覆われた~冷戦~」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/07/09/9396202

プロジェクトX「ロータリー47士の闘い」2021-07-03

2021-07-03 當山日出夫(とうやまひでお)

プロジェクトX ロータリー47士の闘い 夢のエンジン開発

前回は、
やまもも書斎記 2021年6月26日
プロジェクトX「炎を見ろ赤き城の伝説」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/06/26/9391619

ロータリーエンジンの存在は知っていたが、その車に乗ったという経験はない。

この番組は、二〇〇〇年のころである。バブル経済の崩壊ということはあっても、まだ、日本がそれなりの自信を持ち得た時代であったかと今から懐古することになる。ものづくりの国、日本……そのようなイメージが、根強く残っていた時代である。

その日本が作りだし、実用化にこぎつけたものの一つとして、ロータリーエンジンがあることになる。

たしかに、技術的にはある達成であったかもしれない。だが、今から振り返ってどうだろうか。量産され、市販車に多く搭載されるということはなく終わってしまった。今では、もうないに等しいといっていいだろう。(一部に、熱烈なファンが残っているようだが。)

この再放送とほぼ同時に報道されたのが、三菱電機による、製品検査データ不正の問題。時代としては、プロジェクトXの番組が放送された時代には、すでに不正はおこなわれていたことになる。

もはや、ものづくりの国は、すでに地に落ちていたといってもいいだろう。

戦後日本において、特に広島の街において、復興をかけたプロジェクトに人生をかけた技術者がいたことは、ほこりに思っていいことだろう。だが、その精神を、どこかで忘れてきてしまったということも、残念ながらあるとしか思えない。

個々の企業の問題ではなく、日本全体の問題だと思う。

単なる懐古ではなく、これからの日本と技術がどうあるべきか、いろいろと考えることになった。はっきりいって、ガソリンエンジンの自動車に未來はないだろう。電気自動車の時代になろうとしている。そこで、日本の技術がどういかせるのか、試練の時代というべきであろうか。

2021年7月2日記

追記 2021年7月10日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年7月10日
プロジェクトX「妻に贈ったダイニングキッチン」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/07/10/9396482

『おかえりモネ』あれこれ「サヤカさんの木」2021-07-04

2021-07-04 當山日出夫(とうやまひでお)

『おかえりモネ』第7週「サヤカさんの木」
https://www.nhk.or.jp/okaerimone/story/week_07.html

前回は、
やまもも書斎記 2021年6月27日
『おかえりモネ』あれこれ「大人たちの青春」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/06/27/9391945

百音は、気象予報士になる気持ちを新たにしたようだ。

この週の見どころとしては、次の二点ぐらいだろうか。

第一に、朝岡のこと。

百音の森林組合に朝岡がやってくる。その朝岡は、百音にいう……何もできなかったと思っているのはあなただだけではありません、と。

この台詞は、朝ドラのなかでも名台詞として記憶されることになるのかもしれないと思う。テレビを見ている視聴者をふくめて多くの人びとが、なにがしか思っていることでもあろう。あのとき何もできなかった……この思いに、このドラマの脚本は、響いてくる。

この朝岡のことばに刺激されて、百音は、より一層、気象予報士への気持ちを新たにすることになる。

第二、百音のこと。

百音自身は、どうなのであろうか。今の森林組合の仕事は面白いし、やりがいも感じている。その一方で、気象予報士の仕事にも、ひかれるものがある。この気持ちのゆれうごきが、うまく表現されていたと思う。

最終的には、気象予報士の学校で、専門的に勉強することになったようだ。もう、中学校の理科のテキストのレベルを超えることができている。

以上の二点が、この週で印象に残ったことなどである。

それから、樹齢三〇〇年のヒバの木の伐採の一件が、印象深く描かれていた。林業という産業のもつ意味を、サヤカさんは、自らの生き方を通して、百音に語りかけているようだった。

次週、亀島で物語は展開するようだ。楽しみに見ることにしよう。

2021年7月3日記

追記 2021年7月11日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年7月11日
『おかえりモネ』あれこれ「それでも海は」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/07/11/9396852

『『失われた時を求めて』への招待』吉川一義2021-07-05

2021-07-05 當山日出夫(とうやまひでお)

『失われた時を求めて』への招待

吉川一義.『『失われた時を求めて』への招待』(岩波新書).岩波書店.2021
https://www.iwanami.co.jp/book/b583370.html

『失われた時を求めて』の訳本については、過去に読んでいる。吉川一義訳、鈴木道彦訳、それから、高遠弘美訳である。

やまもも書斎記 2018年11月1日
『失われた時を求めて』岩波文庫(1)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/11/01/8986844

やまもも書斎記 2020年8月15日
『失われた時を求めて』(1)第一篇「スワン家のほうへⅠ」プルースト/高遠弘美訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/08/15/9278710

筆者(吉川一義)は、岩波文庫版で、『失われた時を求めて』を訳した人ということになる。今では、すでに全巻完結している。三年前、私が読んだときには、途中までしか刊行されていなくて、残りの二冊を、集英社文庫版の鈴木道彦訳で読んだのだった。

全部を訳しおえて、ふりかえって、『失われた時を求めて』の読書案内、プルースト案内として書かれたものという位置づけになる。さっそく買って読んでみた。作品論、作家論として、よく書けている本だと思う。

第一章 プルーストの生涯と作品
第二章 作中の「私」とプルースト
第三章 精神を描くプルースト
第四章 スワンと「私」の恋愛心理
第五章 無数の自我、記憶、時間
第六章 「私」が遍歴する社交界
第七章 「私」とドレフェス事件および第一次大戦
第八章 「私」とユダヤ・同性愛
第九章 サドマゾヒズムから文学創造へ
第一〇章 「私」の文学創造への道

プルーストについての概略をふまえたうえで、その時代背景、社会的背景、風俗的背景、さらには、「私」をめぐる考察に及んでいる。

私が読んで面白かったのは、この作品中に出てくる「私」をめぐるいくつかの論考。『失われた時を求めて』は、単純な小説ではない。作者(プルースト)がいて、小説を書いている。その小説のなかに「私」が登場してくる。この「私」は、いったい何者なのか。何をしているのか。何をしようとしているのか。ある意味では、曖昧模糊としている。ここのところにするどく分析をこころみているあたりが、読みどころかと思って読んだ。

無論、『失われた時を求めて』に出てくる、同性愛や、ユダヤ人の問題、芸術論の問題など、題材とされているいくつかのことがらについての解説は、どれも興味深い。

私が、読んだ印象として思っていることは、『失われた時を求めて』は、単なる心理小説ではない。心理を描写する「私」の視点を、さらにメタな立場から見ている「作者」の目がある。このあたりが、この作品の難解さでもあり、面白さということになるのかとも思う。

また、一九世紀から、二〇世紀初頭にかけての、フランスの風俗的な事情ということも、この作品を、分かりにくくしている要因かもしれない。「ココット」……吉川一義訳では「粋筋の女」であり、高遠弘美の訳では「高級娼婦」であるのだが……これが、いまひとつよくわからない。

同性愛の問題とか、サドマゾヒズムの問題、ユダヤ人のことなど、まさに、現代の社会のかかえる問題につながるところもある。

さて、もう一度『失われた時を求めて』を読みかえしてみようかという気にはなる。岩波文庫版では、すでに吉川一義訳で全巻揃う。(買って持っている)。高遠弘美訳の既刊分は読んだが、これが完結するまで待っていることもできないと感じる。

ちょっと身の周りの本の整理をして、再度、こんどはよりじっくりと、『失われた時を求めて』を読んでみたいと思っている。

2021年7月2日記

『青天を衝け』あれこれ「篤太夫、遠き道へ」2021-07-06

2021-07-06 當山日出夫(とうやまひでお)

『青天を衝け』第21回「篤太夫、遠き道へ」
https://www.nhk.or.jp/seiten/story/21/

前回は、
やまもも書斎記 2021年6月29日
『青天を衝け』あれこれ「篤太夫、青天の霹靂」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/06/29/9392680

栄一は、パリに行くことになった。

この週で印象に残っているのは、次の三点ぐらいだろうか。

第一に、慶喜。

慶喜は、ついに将軍となる。その慶喜に、栄一は謁見することになる。(さて、この当時の制度として、栄一の身分で将軍と直に話すことは、可能だったのか、このあたりの時代考証がちょっと気にはなるのだが。)ともあれ、慶喜は、栄一に、パリ行きを依頼することになる。その慶喜は、時代の流れが見えていたということになる。

この慶喜が、結果としては、最後の将軍となり、そして大政奉還になることは、今日の視点からは、もう分かっていることなのだが、そのあたりのなりゆきを、これからどう描いていくことになるのだろうか。

第二に、小栗上野介。

幕府の開明派を代表する人物として登場してきていた。これまでの、幕末、明治維新を舞台にした大河ドラマでは、そう大きく等上場することはなかったかと思うのだが、この『青天を衝け』では、重要な役割を与えられている。

討幕の側……この時点では薩長ということになるが……ではなく、幕府の方こそ文明開化を推し進める原動力になっていた、そう考えることができる。(もし、討幕ということにならず江戸幕府が続いていても、文明開化に向かって日本は動いただろうという感じで描いてあった。)

第三に、栄一。

慶喜に面会して、パリ行きを依頼されて、栄一は快諾することになる。ついさきほどまで、尊皇攘夷をいっていた人間も、変われば変わるものだが、この時のパリ行きの判断が、最終的には、その後の日本の経済の行く末を決める大きなポイントということになる。

以上の三点ぐらいが、印象に残っているところだろうか。

その他には、故郷に残してある妻の千代のことが、印象深かった。また、祐宮が明治天皇というところまできたが、この後、明治になってからの明治天皇の登場はあるだろうか。

さて、次週以降、いよいよパリ万博ということでドラマは展開するようだ。どのようなパリを描くことになるのか、楽しみに見ることにしよう。

2021年7月5日記

追記 2021年7月13日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年7月13日
『青天を衝け』あれこれ「篤太夫、パリへ」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/07/13/9397596

エゴノキ2021-07-07

2021-07-07 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので花の写真。今日はエゴノキである。

前回は、
やまもも書斎記 2021年6月30日
ニシキギ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/06/30/9392995

以前に撮影しておいたもののストックからである。

我が家から歩いて一〇分ほどのところにある木である。我が家から駅に行くときには、この側をとおる。地面にちらほらと白いものが見えるころになると、エゴノキの花が咲いていることになる。初夏の花である。

毎年、同じところに花が咲く。花が散って、地面がそこだけ白くなる。一週間から一〇日ほどの間、つづくだろうか。

今年も、自動車から、地面に散った花で白っぽくなっているのを目にして、あらためてカメラを持って歩いて出た。写真を撮るときは、基本的に歩いていくことにしている。持って行ったのは、180ミリ。エゴノキの花をとるには、このレンズでないとと思う。

白い花なので、現像処理のときに、露出を1/3アンダーに補正してある。それ以外は、特に手を加えてはいない。

今、クチナシの花が咲いている。紫陽花の花もまだ目にはいる。ギボウシの花は、終わってしまったようだ。キキョウがそろそろ咲きはじめるころかと思う。

エゴノキ

エゴノキ

エゴノキ

エゴノキ

エゴノキ

Nikon D500
TAMRON SP AF 180mm F/3.5 Di MACRO 1:1

2021年7月6日記

追記 2021年7月14日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年7月14日
綿毛
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/07/14/9397904

『源氏物語を読む』高木和子2021-07-08

2021-07-08 當山日出夫(とうやまひでお)

源氏物語を読む

高木和子.『源氏物語』(岩波新書).岩波書店.2021
https://www.iwanami.co.jp/book/b583371.html

六月の岩波新書の新刊は、『失われた時を求めて』ついてと、『源氏物語』についてと、二冊出ることになったので、これは両方買って読むことに。(昔、若いころは、岩波新書は基本的に毎月全部読んでいた時期もあったのだが、さすがにそれも疲れてきたと感じるようになった。)

面白い本だともいえるし、あまり面白くない本だともいえる。

第一に、面白くないと感じる方から書いてみる。

要するに、この本は、『源氏物語』のあらすじなのである。桐壺からはじまって、夢浮橋まで、順番に巻をおって、その概要が延々と書いてある。はっきりいってこれは退屈である。

『源氏物語』なら、そのストーリーの概略は知っている。無論、現代の校注本でも読んでいる。小学館版、旧日本古典文学大系、新潮日本古典集成、新日本古典文学大系、岩波文庫など、いくつかのテクストで読んでいる。(岩波文庫については、新しく刊行の既刊分ということになるが。ただ、旧版でもページを繰ったことはある。)

また、上記の現代の校注本には、基本的に、その巻の概要が書いてある。まったくの白紙の状態から『源氏物語』を読むということはない。あらかじめどんなことが、この巻には書いてあるのか、どのような登場人物が出てくるのか、分かったうえで、では原文ではどう書いてあるのかを確認するというのが、現代の一般の『源氏物語』の読み方である。

これは、いわゆる「原文」(古文のまま)で読む場合。手っ取り早く現代語訳で読もうという人にとっては、また事情は異なるかもしれない。

ともあれ、岩波新書の一冊を使って『源氏物語』のあらすじを語るというのも、これはこれで、荒技だと感じる。

第二に、その一方で面白いと思う点。

あらすじを語りながら、ところどころに、現代の『源氏物語』研究の視点からのコメントが書いてある。その成立論であったり、王権論であったり、『源氏物語』研究における、主要な論点については、なにがしか言及があるといっていいだろう。(ただ、私は、『源氏物語』を専門にしているということではないので、現在の研究の動向にうといということは、どうしてもあるのだが。)

たぶん、『源氏物語』の研究に習熟しているいる研究者なら、ここは、あの人の説だなと思いながら読むことになるのだろうと思う。あるいは、これが、まだ学生で、これから『源氏物語』を読んでみようという人にとっては、あらかじめの予習として、今の研究では、このようなことが論じられているのだと知る手がかりにもなるだろう。

以上の、相反する二点のことを思ってみる。

どうでもいいことかもしれないが、この岩波新書における『源氏物語』の本文の引用は、小学館の新編日本古典文学全集によっている。岩波版の、新日本古典文学大系にはよっていない。一般の読者のことを考えるならば、小学館版のテクストが、現代ではもっとも標準的な『源氏物語』だから、これはこれでいいのかとも思う。

『源氏物語』もまた、読みなおしてみたくなっている。岩波新書で、この本を出したということは、岩波文庫版の『源氏物語』がそろそろ完結するのかとも思う。岩波文庫版でそろうようになったら、これはこれで、最初から読みなおしてみたい。

2021年7月2日記

新・映像の世紀(4)「世界は秘密と嘘に覆われた~冷戦~」2021-07-09

2021-07-09 當山日出夫(とうやまひでお)

新・映像の世紀(4) 世界は秘密と嘘に覆われた~冷戦~

続きである。
やまもも書斎記 2021年7月2日
新・映像の世紀(3)「時代は独裁者を求めた」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/07/02/9393663

この回は、冷戦の時代のこと。二〇一六年の放送である。

東西冷戦が終わったときのことは、私の記憶のうちにあることである。ベルリンの壁の崩壊は、家にいて、テレビで見ていたと覚えている。自分が生きているうちに、共産主義国家の崩壊ということがあろうとは、それまで思ってもいなかった。半ば呆然としてニュースを見ていたように思う。

その後、旧共産圏国家の内情が明らかになってきたということがある。

私は、昭和三〇年(一九五五)の生まれである。冷戦の時代は、ものごころついてニュースなどに接するようになったときには、世界は、こんなものかと思っていた。記憶にある大きな出来事とえば、ケネディ暗殺のときのことぐらいからだろうか。

そして、この時代に生きてきたから覚えていることとしては、我が国においても、冷戦の時代は、共産主義を礼賛する声が、少なからずあったことである。共産主義こそが正義である、そういってもいい主張が、どうどうとまかりとおっていた。このことは、私は、忘れないでおこうと思っている。かつて、日本において、共産主義を礼賛していたメディアが、今ではどのようなことを語っているか、ニュースを見るとき、どうしても忘れることができない。

冷戦とはいっても、戦争がなかったわけではない。東西陣営の代理戦争というべきものはあった。その代表が、ベトナム戦争ということになる。このベトナム戦争のことについて、旧「映像の世紀」のときには、一回をつかってあった。

やまもも書斎記 2021年5月28日
映像の世紀(9)「ベトナムの衝撃」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/05/28/9382039

このときに思ったこと。再放送を見て感じたことは書いた。その目で見てみるならば、であるが、今回の「新・映像の世紀」では、以前、物足りなく思ったところが、十分に語られていたと思う。ベトナム戦争もまた、東西陣営の代理戦争であり、ベトナムの人びとにとってはアメリカもまた侵略者であった。そして、それに協力することになった日本の存在。

ただ、さら書いてみるならば、ベトナム戦争における、韓国と中国のことがまったく触れることがなかった。放送の時間がなかったといえば、それまでであるが、今の時点から、ベトナム戦争のことを振り返ってみるならば、アジアの諸国においてどうであったか、さらに広い視点から考えることになるだろうと思う。

まったく余計なこととしては、冷戦の時代、この時代背景をもとにして、多くのスパイ小説が書かれたということがある。生来のミステリ好きとしては、スパイ小説のいくつかも読んできている。そう思ってみると、この時代を舞台にして、今日の視点から、新たなエンタテイメントとしてのスパイ小説が書かれることもあるだろうかとも、思っている。

そして、この放送の最後に登場していたのは、オサマ・ビンラディンであった。ソ連のアフガニスタン侵攻と、それに対する、反ソ連勢力へのアメリカの援助……それが、結果的に、その後の歴史を動かすことになっていく。まさに、憎悪の連鎖である。

2021年7月6日記

追記 2021年7月16日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年7月16日
新・映像の世紀(5)「若者の反乱が世界に連鎖した」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/07/16/9398517

プロジェクトX「妻に贈ったダイニングキッチン」2021-07-10

2021-07-10 當山日出夫(とうやまひでお)

プロジェクトX 妻に贈ったダイニングキッチン

前回は、
やまもも書斎記 2021年7月3日
プロジェクトX「ロータリー47士の闘い」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/07/03/9394132

この番組のいいところの一つは、今の日本に普通にあるもの、普通の生活についての、その戦後生活誌という側面があることである。

この回でとりあげてあったのは、ダイニングキッチン。「DK」である。今の普通の住宅においては、ごく普通にあるものだろう。それがリビングと一緒になって、「LDK」の方が、より普通かもしれない。

だが、これも戦後のある時期、誰かが考えて始めたものであった。公団住宅の設計担当者の発案によって作られることになった。そして、同時にステンレスの流しも、町工場の職人の手になるものであった。おそらく、この番組ができていなければ、忘れられてしまったような人びとであったろうかと思う。

あるいは、台所の戦後史、とか、DKの発明、とか研究があるのかもしれないが、私は知らないままでいる。

おそらくは、昭和三〇年代あたりを境ににして、日本の人びとの生活は、その暮らしを軸に大きく変わってきたたということがいえるだろう。住宅しかり、働き方しかり。家電製品……冷蔵庫、炊飯器、洗濯機、テレビなど……の普及もあった。住宅の構造としては、DK、あるいは、LDKの普及ということになるのだろう。

番組は、二〇〇三年の放送。二一世紀になってすぐのころである。このころになると、戦後日本の人びとの生活が、このようなものとして安定した形をとるようになってきたのかと思う。その時点でふりかえってみて、今ある普通の暮らしの原点を探ってみる……ということに、この番組は結果的にはつながっていっている。(その後の生活に大きく変革をもたらしたものは、なんといってもインターネットだろうと思うが。)

2021年7月7日記

追記 2021年7月17日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年7月17日
プロジェクトX「オートフォーカスカメラ」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/07/17/9398803