映像の世紀プレミアム「オリンピック」2021-07-12

2021-07-12 當山日出夫(とうやまひでお)

映像の世紀プレミアム オリンピック 激動の祭典

去年の放送を、オリンピック開催を前にして(たぶん、このまま開催になるのだろうが)、再放送であった。最初の放送があったのは、昨年の六月。二〇二〇年の東京オリンピックが中止と決定してからのことになる。編集は、昨年のうちのものなのだが、今年の視点から見ても、いろいろと考えることが多い。

第一に、オリンピックと政治。

ベルリン、幻の一九四〇年東京、モスクワ、ロサンゼルス……これらの大会は、きわめて政治色の強いものであった。政治とオリンピックは、切り離すことができないことが、歴史を振り返れば見えてくる。

その意味では、逆説的になるが、メキシコシティ大会における、黒人差別への抗議行動は、現在の価値観からは、許容されるべきことになることになる。今回のオリンピックでも、たしか、ある程度の政治的意志の表明は許容する、という方針になっていたはずである。

第二に、オリンピックと商業主義。

このところに、この番組ではあまり踏み込むことがなかったが、ロサンゼルス大会をきっかけにして、オリンピックの商業主義が始まった。そして、そのきっかけになるのが、テレビ放送であり、そのテレビ中継がはじめておこわれたのが一九六四年の東京大会であるというのも、なんとなく皮肉に思えてくる。東京大会、それから、その次のメキシコシティ大会ぐらいまで、オリンピックの精神……特にアマチュアリズムが、強くいわれていたことはなかったかと記憶する。

今回の、東京でのオリンピックに多くの人びとが批判的なのは、特にその商業主義に対してである。

以上の二点を思ってみるのだが、その他、いろいろと思うところはある。

オリンピックの歴史を映像で振り返るとき、これは、日本で作った番組だからということもあるのだが、ベルリン大会のマラソン金メダリストの孫基禎を大きくとりあげてあった。このような視点からは、ヨーロッパの国々おける、植民地、あるいは、旧植民地をふくめて考えていいかもしれないが、本国以外の出身の選手を、どう遇してきたか、これはこれとして、さまざまに考えるべき問題点となるだろうと思う。

私の記憶にある範囲でいうならば、ミュンヘン大会のテロ事件のことにふれなかったのは、ちょっと残念な気がしないでもない。まさに、オリンピックが国際政治の舞台であるからこそ、おこった事件であったはずである。

レニ・リーフェンシュタールと、記録映画「オリンピア」のことは、オリンピックの歴史と直接は関係ないかもしれないが、著名なできごとの一つである。いや、見方によっては、オリンピックの政治性を最も体現している、一つのできごとであったのかもしれない。政治性をまったくはなれた、純粋な記録映画というようなものがあり得るのであろうか。(そういえば、今回の東京でのオリンピックの記録映画の監督は、河瀬直美である。どのような記録映画が作られることになるのだろうか。)

そして、今の時点で、再放送を見て思うことは……昨年、オリンピックの中止が決まったとき、「完全な形での開催」を目指すということがいわれた。では、オリンピックの「完全な形」とはいったいどんなものなのだろうか。昨年からのCOVID-19をめぐる一連の動きのなかで、歴史を振り返って、改めて考えるべきことのように思えてならない。

おそらくは、ただ国内外からたくさんの観客が入ればそれで「完全な形」といいいかねない安直な発想を、歴史をかえりみることによって、考えべきなのであろう。

2021年7月11日記