『天国でまた会おう』ピエール・ルメートル/平岡敦(訳)2021-08-21

2021-08-21 當山日出夫(とうやまひでお)

天国でまた会おう

天国でまた会おう

ピエール・ルメートル.平岡敦(訳).『天国でまた会おう』(上・下)(ハヤカワ文庫).早川書房.2015
https://www.hayakawa-online.co.jp/shopdetail/000000013044/
https://www.hayakawa-online.co.jp/shopdetail/000000013050/

出たときに買って、積んであった本である。取り出してきて読んでおくことにした。というのは、この続編『炎の色』(上・下)につづいて、『我らが痛みの鏡』(上・下)が、今年になって刊行になったことがある。三部作の完結ということらしい。これは読んでおきたいと思って読んでみることにした。

作者のピエール・ルメートルは、多くの日本の読者がそうであるかと思うが、『その女アレックス』で名前を知った。その作風、あるいは、作家としての実力はわかっているつもりである。

この『天国でまた会おう』を読んで、思うことを記すならば、次の二点ぐらいになるだろうか。

第一には、第一次世界大戦とその後のフランスの物語であること。

日本にいて、日本の小説など読んでいると、第一次世界大戦というとどうもなじみがない。が、西欧においては、世界史的な大事件である。『失われた時を求めて』でも、第一世界大戦のことは大きくあつかわれている。

この小説を読んで、ヨーロッパでは、二〇世紀の初めに、第一次世界大戦があり、フランスはドイツと戦争をしていたのだ……という歴史では知っている知識を、鮮やかにイメージすることになる。

私が、この小説を読んで思ったのは、NHKの「映像の世紀」のいくつかのシーンである。第一次世界大戦は、映像資料が多く残されている、近代になってからの戦争である。そして、それが、欧米の人びと、社会に与えた影響は、計り知れないものがある。

第二には、一級の犯罪小説であること。

『天国でまた会おう』は、いくつかの犯罪をあつかっている。兵士の墓地にかかわることであったり、また、兵士の顕彰記念碑の建立であったり……まさに、戦争ということがあったからこそ、おこりえたかもしれない、犯罪……それも詐欺……の物語である。

ここは、ミステリ作家(といっていいだろう)ピエール・ルメートルならではの、ストーリーの巧みさがある。ミステリ、あるいは、冒険小説として読んでも、十分に堪能できるだけの作品になっている。

以上の二つのことを思ってみる。

この小説、続編として、さらにフランスを舞台にして、歴史大河小説のように続いていくようだ。つづけて楽しみに読むことにしようと思う。

2021年8月18日記

『おかえりモネ』あれこれ「離れられないもの」2021-08-22

2021-08-22 當山日出夫(とうやまひでお)

『おかえりモネ』第14週「離れられないもの」
https://www.nhk.or.jp/okaerimone/story/week_14.html

前回は、
やまもも書斎記 2021年8月15日
『おかえりモネ』あれこれ「風を切って進め」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/08/15/9410166

モネは、ようやく気象キャスターになるようだ。

この週の見どころとしては、次の二点を思ってみる。

第一に、モネの父親と菅波のこと。

モネと菅波がいるところに、故郷から父親がやってくる。祖父の牡蠣が品評会で金賞になったとのことである。

ともあれ、ここで、父親の耕治と菅波は顔をあわせる。このシーンが、なんともコミカルであった。といって、モネと菅波の間に何があったというのでもない。ただ、洗濯が終わるまでの時間に蕎麦屋に行っていただけのことである。

が、耕治は菅波に対して、娘をよろしくと言ってしまう。これは、ひょっとすると早とちりであったのかもしれない。が、菅波としては、モネのことを思っているようでもある。

このあたり、上京してきた父親と娘と菅波の関係が、絶妙なタッチで描かれていた。

第二に、朝岡と気象情報のこと。

朝岡には、苦い思い出があった。以前、大雨の気象情報を伝えていたが、しかし、水害の被害が出てしまった。どうすればよかったのか、朝岡は悩むことになる。

朝岡は、会社を訪ねてきたモネの父親と話す。なぜ、人はその土地から離れようとしないのか。土地への愛着か。それとも、その土地にすむ人とのかかわりか。この問いは、あるいは、これからのモネの気象予報士としての仕事にも関わってくることなのかもしれない。

以上の二点が、この週で印象に残っていることなどである。

ところで、モネのおばあちゃんは、牡蠣が食べられてしまったせいなのか、今度は、木の芽に生まれ変わったようだ。とにかく、モネの側にいることにはかわりはない。

次週、未知が東京にやってきていろいろと起こるようである。また、コサメちゃんと傘イルカくんも、登場するようだ。楽しみに見ることにしよう。

2021年8月21日記

追記 2021年8月29日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年8月29日
『おかえりモネ』あれこれ「百音と未知」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/08/29/9416515

『やさしい訴え』小川洋子2021-08-23

2021-08-23 當山日出夫(とうやまひでお)

やさしい訴え

小川洋子.『やさしい訴え』(文春文庫).文藝春秋.2004(文藝春秋.1996)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167557027

続きである。
やまもも書斎記 2021年4月26日
『シュガータイム』小川洋子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/04/26/9370993

小川洋子の作品を見つくろって読んでいっていこうとして、ふと途中で、山田風太郎の明治小説を読むことになった。それも、筑摩版に収録の作品は読みきったので、ふたたび小川洋子にもどることになった。

読後感としては、透明な充足感といっていいのであろう、非常に満ち足りた気持ちになる小説である。

チェンバロの物語である。主な登場人物は、私と、チェンバロの製作をする男性と、その傍らにいる女性、この三人である。といって、三角関係を描いた作品ではない。そのような感情の交錯があってもいいような設定なのだが、作品ではそうなっていない。三人は、それぞれのいる立場で、その人生を生きている。そして、それは、常にチェンバロとともにある。

なぜ、小川洋子はチェンバロという楽器を題材に選んだのだろうか。

チェンバロといっても、その実物の演奏を聴いたことはない。昔聞いた、ラジオのFM放送で耳にしたことを記憶しているぐらいである。が、その繊細な音色は印象にのこるものである。

この小説を読みながら、常にチェンバロの音色がどこからとなく聞こえてくるような感じがしてならない。(たぶん、このような読後感は、多くの読者がいだくのではないだろうか。まさに、チェンバロという題材があっての小説である。)

ひょっとして、小川洋子は、チェンバロという楽器のことが最初にあって、この小説を書いたのではないだろうかとも思えてならない。

COVID-19で居職の生活を送っている。そのなかで、小川洋子の作品を読むと、満ち足りた時間をすごすことができる。これから、残りの作品を読んでいきたいと思う。

2021年5月27日記

追記 2021年8月31日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年8月31日
『余白の愛』小川洋子
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/08/31/9417426

『青天を衝け』あれこれ「篤太夫、帰国する」2021-08-24

2021-08-24 當山日出夫(とうやまひでお)

『青天を衝け』第25回「篤太夫、帰国する」
https://www.nhk.or.jp/seiten/story/25/

前回は、
やまもも書斎記 2021年8月17日
『青天を衝け』あれこれ「パリの御一新」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/08/17/9411326

今の我々は明治維新の結果を知っている。薩長新政府が樹立され、幕府は敗れ去ることになる。が、このことも、歴史の渦中にあっては、いったいこれからどうなるのか分からない時代でもあったのだろう。

その明治維新の渦中を描いていたのが、この回であったといっていい。特に、平九郎。幕府軍の側として戦い、壮絶な最期をとげることになる。

これまで、明治維新は、大河ドラマなどで幾たびも描かれてきたところであるが、特に幕府の側……強いていえば、敗れ去った側……の視点から、時代の激動を描いたものは、あまりなかったかと思う。ステレオタイプなものの見方かもしれないが、旧弊な幕府に対して、文明開化をかかげる新政府軍という図式である。どうしても、幕府の方が悪者になってしまいかねない。

敗れ去った側から明治維新を描いたといえば、以前のドラマでは『八重の桜』が思い浮かぶ。今回の『青天を衝け』では、江戸幕府のなかに視点を設定して、明治維新を描いている。

ところで、日本に帰ってきた栄一は、これからどうすることになるのだろうか。史実のうえでは、一時期、新政府に仕えるということなのだが、その後、民間の経済人として生きていくことになる。栄一の目には、新しい時代の、新しい経済の姿が、見え始めているのかもしれない。武士の時代ではない、近代の市民社会と経済という立場で歴史に臨むことになるのかと思う。

ドラマの放送の方は、またまたしばらくお休みである。これは残念だがいたしかたない。その間、『論語と算盤』を、積んである本のなかから取り出してきて読んでおこうかという気になっている。放送再開を楽しみにまつことにしよう。

2021年8月23日記

追記 2021年9月14日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年9月14日
『青天を衝け』あれこれ「篤太夫、再会する」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/09/14/9423160

露草2021-08-25

2021-08-25 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日は写真の日。今日は露草である。

前回は、
やまもも書斎記 2021年8月18日
ユウゲショウ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/08/18/9411609

露草の花の時期はわりと長い。おおむね七月から八月のころになるだろうか。

我が家の家の周囲、ちらほらと露草を見ることができる。写したのは、我が家の駐車場のすみに咲いているものである。

だいたい、朝起きて、夜が明けたころ、あるいは、朝ドラが終わってから、カメラと三脚を持って家を出る。ここしばらくは、露草を写すか、あるいは、ギボウシを写すかである。

露草の写真を撮るのはちょっと苦労する。地面の近く、低いところに咲いているので、三脚を最低の高さに設定する。写すときは、だいたい片膝を地面について支えないと、ファインダーがのぞけない。

露草の写真を撮ると、どれも似たようなものになってしまう。が、これはこれでいいかと思って、写真を撮っている。露草の花も、遠目には青い小さな花であるが、接写してみると、複雑な形をしている。

どうやら今年は、庭の百日紅の紅い花が咲かずにおわってしまいそうな感じである。白い花の方が少し咲いているぐらいだろうか。そろそろ、萩の花が咲く季節をむかえることになる。杜鵑草の花もこのところ注意して見るようにしている。

露草

露草

露草

露草

Nikon D500
TAMRON SP 90mm F/2.8 Di MACRO 1:1 VC USD
TAMRON SP AF 180mm F/3.5 Di MACRO 1:1

2021年8月24日記

追記 2021年9月1日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年9月1日
エノコログサ
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/09/01/9418053

映像の世紀プレミアム(3)「世界を変えた女たち」2021-08-26

2021-08-26 當山日出夫(とうやまひでお)

映像の世紀プレミアム (3) 世界を変えた女たち

月曜日の放送を録画しておいて、翌日に見た。再放送であるが、最初の放送のとき、見たようにも覚えているが、さだかではない。(「映像の世紀」「新・映像の世紀」と同じ映像が繰り返し使われることが多いので、見たことがあるような気になってしまうことがある。)

この回でとりあげていたのは、女性たち。二〇世紀、女性の社会進出、それから、歴史の転換点にいた女性たちのことを描いていた。

見て感じることは、やはり、二〇世紀という時代を通じて、女性の権利は確かに確立してきたのであるという実感である。そして、そこに大きな役割を果たすことになるのが、なんといっても戦争である。第一次世界大戦、第二次世界大戦と、男たちが戦場に行っている間、銃後をささえ、また、自らも最前線におもむいた女性たちがいた。

番組中で引用されていたのが、『戦争は女の顔をしていない』。買って持っている本である。これは、取り出してきて読んでおきたいと思う。(ちょうど、NHKの「100分de名著」でも取り上げることになった本でもある。)

番組の最後にとりあげていたのが、マララ・ユスフザイ。そして、ちょうど今、アフガニスタンでは、タリバンの政権掌握という事態になっている。邦人、関係者救出のために自衛隊機が派遣されるということが、ちょうどニュースになっている。

アフガニスタンが、再びタリバン政権となって、そこで、女性の人権や教育はどうなるのだろうか。国際社会の大きな流れのなかで、もはや後戻りすることは基本的にありえないことではないのだろうが、しかし、今後のことはまったく不透明としかいいようがない。

二一世紀になっても、女性の問題が解決したということはない。国際社会のなかにおいて、今後、ますます重要な課題になっていくのだろうと思う。

さて、映像の世紀プレミアムも、再放送がしばらく続くようである。次回も録画を予約しておくことにした。つづけて見ることにしよう。

2021年8月24日記

プロジェクトX「チェルノブイリの傷 奇跡のメス」2021-08-27

2021-08-27 當山日出夫(とうやまひでお)

プロジェクトX チェルノブイリの傷 奇跡のメス

続きである。
やまもも書斎記 2021年8月19日
プロジェクトX「日米逆転!コンビニを作った素人たち」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/08/19/9412591

この回の放送は、素直に感動的な物語であったと思う。

チェルノブイリ原発事故の影響をうけた子どもたち、その甲状腺がんの手術のために日本から単身で現地に赴いた医師のものがたり。特に理想化することなく、淡々とその活動の様子を描いていた番組であるが、ヒューマニズム溢れるものになっていたと思う。

番組は、二〇〇三年の放送。その後、日本では、福島での原発事故のことがある。チェルノブイリのことは、他人事ではない。今でも、棄てられてしまったとしかいいようのない、街が多く存在する。(これも、きわめて長い目でみれば、事態は収束する方向にむかっているのかもしれないが、しかし先行きへの不安は拭いきれない状況である。)

ただ、NHKがこの時期にこの放送を再放送でもってきたというのも、いろいろ考えることがある。今、日本は、あるいは世界は、COVID-19によるパンデミックのまっただ中である。社会における医療のあり方が、さまざまな方面から問われている。

強いて、理想的な医師の活動を求めるということはないとしても、しかし、一般論として、社会のなかで医療がどのようであるべきか、歴史のなかで問われる時代になっていることは確かなことである。直接、今の状況と比べてどうこう言うことはないのだろうが、それでも、医師としてのあるべき姿を描くことで、現代にうったえかけるなにものかがあったように思える。

2021年8月25日記

追記 2021年9月3日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年9月3日
プロジェクトX「男たちの復活戦 デジタルカメラに賭ける」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/09/03/9418782

『怒りの葡萄』(上)ジョン・スタインベック/黒原敏行(訳)2021-08-28

2021-08-28 當山日出夫(とうやまひでお)

怒りの葡萄

ジョン・スタインベック.黒原敏行(訳).『怒りの葡萄 新訳版』(上)(ハヤカワepi文庫).早川書房.2014
https://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/310080.html

何十年ぶりかで読んでみた。昔読んだのは、中学生だったか、高校生だったか。大学生にはなっていなかったと思う。昔の文庫本で読んだ。

一九三〇年代のアメリカ。大恐慌の時代である。その時代は、同時に中西部の農村が干魃にみまわれた時代でもある。このあたりのことは、先日再放送で見た「映像の世紀」で見た。そのなかで、『怒りの葡萄』からの引用もあった。

昔読んだときの印象で覚えているのは、疲弊していく農村。そこから脱出する一家の自動車の旅。このあたりのことはうっすらと記憶にあったのだが、細部にわたって記憶していたということではない。

『怒りの葡萄』は、近代のアメリカ文学を代表する作品の一つであることは、今では文学史の知識として知っている。だいたいの文学史的な位置づけは分かって読みなおしてみたということなのだが……読んで、なるほどこれがアメリカの文学の一つのあり方かと思うところがある。

この作品の軸の一つになっているのは、近代への批判である。第一次世界大戦後の繁栄をきわめたアメリカ、だが大恐慌がおそう。そして、同時に農村も疲弊する。そこにやってくるのは、近代化された大土地所有と近代的な機械化された農業である。昔ながらの小規模農家は生きるすべを失ってしまう。

根底にある発想としては、いわゆる農本主義的な考え方があるといっていいのだろう。大地に根づいた人びとの生き方こそ、本来のものであるとする。それを近代という時代は打ち砕くことになってしまう。

文庫本は、上下二巻に作る。上巻を読み終えたところで、ジョード一家はようやくカリフォルニアにたどりつく。さて、これから、この人びとをどんな運命が待ち受けていることになるのか、続きを読むことにしよう。

2021年8月22日記

追記 2021年8月30日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年8月30日
『怒りの葡萄』(下)ジョン・スタインベック/黒原敏行(訳)
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/08/30/9416844

『おかえりモネ』あれこれ「百音と未知」2021-08-29

2021-08-29 當山日出夫(とうやまひでお)

『おかえりモネ』第15週「百音と未知」
https://www.nhk.or.jp/okaerimone/story/week_15.html

前回は、
やまもも書斎記 2021年8月22日
『おかえりモネ』あれこれ「離れられないもの」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/08/22/9413743

この週は波乱の展開であった。いろいろあるが、まずは次の二点だろうか。

第一に、菅波のこと。

無事に中継キャスターをこなすことができた百音は、菅波と週末に会う約束をする。二人でサメを見にいくつもりだった。が、急な用事で、菅波はキャンセルになってしまった。さて、この二人のこれからはどうなるのだろうか。

第二、りょーちんのこと。

百音のところに、りょーちんがやってくる。だが、分かれた後、どうやら漁船にもどっていないらしい。そこに故郷の母から連絡がある。島で、りょーちんの母親の死亡届をどうするかをめぐって、いろいろあったらしい。父親は、そう簡単に、その死をうけいれようとしない。

以上、百音をめぐる二人の男性をめぐってこの週は展開していたといっていいだろうか。そして、そこにからんできているのが、百音と未知の姉妹の関係。未知は、りょーちんのことを思っている。だが、りょーちんは、百音からの電話には出るが、未知とは連絡をとろうとしない。未知は、百音に、屈折した感情をいだくことになる。

このドラマ、今は東京が舞台になっているが、故郷の島のことが、深く刻み込まれている。震災のいたでから、いまだに立ち直ることのできない父親。それを見守るしかない、永浦家のひとびと。震災の後、人びとがどのような思いをいだいて生きているのか、そこのところをじっくりと描いている。

ところで、次週は、コサメちゃんと傘イルカくんの登場はあるだろうか。気象キャスターとしての百音が、どんなふうに成長していくのかも、見どころの一つかと思っている。楽しみに見ることにしよう。

2021年8月28日記

追記 2021年9月5日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年9月5日
『おかえりモネ』あれこれ「若き者たち」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/09/05/9419681

『怒りの葡萄』(下)ジョン・スタインベック/黒原敏行(訳)2021-08-30

2021-08-30 當山日出夫(とうやまひでお)

怒りの葡萄(下)

ジョン・スタインベック.黒原敏行(訳).『怒りの葡萄 新訳版』(下)(ハヤカワepi文庫).早川書房.2014
https://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/310081.html

続きである。
やまもも書斎記 2021年8月28日
『怒りの葡萄』(上)ジョン・スタインベック/黒原敏行(訳)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/08/28/9416224

上巻に続けて読んだ。最初に読んだのは、数十年も前のこと。高校生ぐらいのときだったかと思うので、もうさっぱりと内容を忘れてしまっている。ただ、西をめざして自動車で旅をする一家のことが、うっすらと記憶にあるぐらいである。

下巻になって、ジョード一家は、カリフォルニアに到着する。そこでのキャンプ。それから、労働。労働といっても、割のいい仕事ではない。労働力があまっている。ジョード一家のような元農民が、大勢集まってきている。賃金は、安くにたたかれる。だが、それでも仕事があればいい方である。大農園での仕事をもとめて、一家はカリフォルニアを移動することになる。そこでの労働は、まさに下層労働力の搾取としかいいようのないものである。

この作品、一九三〇年代のアメリカの農村、カリフォルニアの大規模農園のことなどを、モデルにして描かれているといってよいのだろう。第一次世界大戦の後の繁栄と、それに続く大恐慌。農村の荒廃。そして、社会は、富裕層が富を独占するようになる。安価な労働力をこきつかって、あこぎな仕事を続けることになる。

描かれているのは、確かに近代のアメリカ社会の一面である。だが、ここに描かれている世界は、今の世界にも通じるものがあると感じる。

第一には、貧富の差である。富裕なものは、富を独占し、労働力は安価にこきつかわれる。これは、まさに今の国際社会のなかでおこっていることでもあるといえるだろう。

第二には、その中にあって感じるヒューマニズム。過酷な労働にあっても、また、災害にあっても、ジョード一家は生きていく。そこには、助け合いの精神がある。これも、今の国際社会のなかにあって、共感できることの一つだろう。

以上の二点のことなどを思ってみる。

アメリカの近代の一時代を描いたこの作品は、今日の国際社会のなかで普遍性を獲得するものになっているといっていい。これからも、この作品は、ヒューマニズムの物語として、読み継がれていくことになるのだろうと思う。

また、基本的に、章ごとに視点をきりかえる手法など、小説の作り方としても、かなり大胆なこころみの作品である。文学史的に、このような手法のことがどう位置づけられるのか、不案内なのだが、小説技法の面でも、興味深い作品であることは確かである。

2021年8月28日記