エノコログサ2021-09-01

2021-09-01 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので写真の日。今日はエノコログサである。

前回は、
やまもも書斎記 2021年8月25日
露草
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/08/25/9414973

この八月の気候は、ちょっとおかしい。暑かったかと思うと、長雨が続いた。雨がおわったら、急に残暑が厳しくなっている。最高気温が、34℃とかになる日が続いている。それも、予報を見ると、ようやく終わりになるようだが。

こう暑いと、カメラを持って外に出ようという気にならないでいる。ここしばらく、いつもの散歩道を歩いていない。写した写真は、我が家の駐車場の空き地のものである。

エノコログサなど、珍しい草花ということはない。しかし、この姿を目にするようになると、秋の気配を感じる季節になったかと思う。鳴く蝉の声が、つくつくほうしをよく耳にするようになっている。

何故か、今年は、我が家の百日紅の花がほとんど咲かなかった。来年はどうなるだろうか。杜鵑草は、もうじき咲きそうになっている。また、萩の花もそろそろである。暑さがおさまったらカメラと三脚を持って見てこようかと思う。九月になると、彼岸花が気にかかるときでもある。たぶん、今年も同じように咲くだろうかと思っている。

エノコログサ

エノコログサ

エノコログサ

エノコログサ

エノコログサ

エノコログサ

Nikon D500
TAMRON SP 90mm F/2.8 Di MACRO 1:1 VC USD

2021年8月31日記

追記 2021年9月8日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年9月8日
ギボウシ
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/09/08/9420898

映像の世紀プレミアム(4)「英雄たちの栄光と悲劇」2021-09-02

2021-09-02 當山日出夫(とうやまひでお)

映像の世紀プレミアム(4) 英雄たちの栄光と悲劇

これも月曜日の放送を録画しておいて、翌日の朝に見た。この回も見たかと思うのだが、それはそれとして、再放送の続きで見ている。

この回でとりあげていたのは「英雄」。「映像の世紀」は、あるい意味で「英雄」の世紀であったのかもしれない。映像というメディアによって「英雄」がつくられていく。それを作るのは、メディアであると同時に、世の中の多くの人びとである。

最初に登場していたリンドバーグなどは、まさにメディアの作りあげた「英雄」だろう。そして、その生涯も、また興味深い。ヒトラーのドイツに加担することになる人生も、また、人びとによって作りあげられた「英雄」ならではのことかとも思う。

いろいろと興味深いシーンがあったが、一つだけあげるとするならば、幻となったケネディ大統領のスピーチ。その暗殺という事件のため、日米の衛星中継の最初のニュースが、まさにその暗殺事件の報道になってしまったことは、知られていることであろう。このとき、何事もなければ、アメリカから放送されるはずだった、ケネディのスピーチ映像が、印象に残る。

そして、もう一つ印象的だったのが、ケネディとルメイの会話。核戦争につきすすもうとするルメイに対して、ケネディは躊躇の立場である。(結果的には、このときのケネディの判断が良かったことになるのだが。)

このような番組の場合、何が映っているかということも気になるが、同時に何を映さないかということも気になる。ケネディは、キューバ危機を救った「英雄」としてあつかってあったようだが、同時に、ベトナム戦争の泥沼化についても、責任なしとはしないであろう。このことにまったく触れないのは、すこしどうかなという気がした。

そして、見終わって感じることの一つとして、女性が登場していないことがある。「英雄」をテーマに編集して、なぜ女性が出てこないのだろうか。放送は、二〇一七年。たしかに、女性については、別に特集してとりあげているのだから、ということもあるのかもしれない。しかし、「英雄」をとりあげるなかで、女性が出てこないというのも、ちょっと気にかかる。

個人的な思いでとして覚えているのは、力道山。その生きていた時代、テレビで見たのを覚えている。たしかに、今から思い出してみるならば、力道山は、日本の戦後高度成長経済の時代の「英雄」であった。(この力道山の生涯を追ってみるならば、これはこれでいろいろと興味深いところがあるはずだが。)

また、ゲバラの写真をかかげる若者たちのシーン。同じ画面に映っていたのは、毛沢東だった。これについて、何も語るところはなかったが、しかし、毛沢東も、ある時代には「英雄」の一人だったといっていいのではないだろうか。誰を「英雄」と見なすかも、時代によって変わってくる。

そして、まったくの蛇足で書いてみるならば……二〇世紀最大の「英雄」は、なんといってもヒトラーかもしれない。

2021年8月31日記

プロジェクトX「男たちの復活戦 デジタルカメラに賭ける」2021-09-03

2021-09-03 當山日出夫(とうやまひでお)

プロジェクトX 男たちの復活戦 デジタルカメラに賭ける

前回は、
やまもも書斎記 2021年8月27日
プロジェクトX「チェルノブイリの傷 奇跡のメス」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/08/27/9415872

放送があったのは、二〇〇二年。わずか二〇年ほど前のことなのだが、時の流れの変化を感じる。

カシオを舞台にした、デジタルカメラ開発の物語であった。だが、そのカシオは、もうデジタルカメラを作っていない。そもそも、コンパクトデジタルカメラというものが、市場から姿を消してしまったといってもよい。生き残っているのは、高機能のデジタル一眼カメラということになっているが、これも近年では、移り変わりが激しい。

たった二〇年である。その間に、フィルムカメラが無くなり(厳密には、一部で生き残っているのだが)、デジタルカメラの時代になった。そのデジタルカメラも、コンパクトカメラは、スマホに市場を奪われて撤退してしまっている。一眼カメラも、ミラーレスが主流になろうしている流れのなかで、メーカのシェアも大きく変わってきている。

カメラの歴史も、いくつかの革新的技術があった。AEがあり、AFがあり、そして、デジタル化である。カメラもまた、戦後の時代において、多くの人びとの生活とともにあった。その時代を記録するとともに、その時代を反映するものとしてのカメラであり、その技術でもあった。

「写真」というものに何を求めるのか、あるいは、カメラという機械にどんな魅力があるのか、これは、まさに時代とともにあったというべきであろう。そして、これからの新しい時代に、どんな「写真」の時代を迎えることになるのだろうか。

また、余計なこととしてはであるが……番組の中で映っていた、秋葉原の電気店街の光景が、今となっては懐かしいものの一つになってしまっている。秋葉原の街もまた時代とともに変わっていく街なのである。

2021年9月1日記

追記 2021年9月10日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年9月10日
プロジェクトX「ワープロ 運命の最終テスト」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/09/10/9421840

『人質の朗読会』小川洋子2021-09-04

2021-09-04 當山日出夫(とうやまひでお)

人質の朗読会

小川洋子.『人質の朗読会』(中公文庫).中央公論新社.2014(中央公論新社.2011)
https://www.chuko.co.jp/bunko/2014/02/205912.html

続きである。
やまもも書斎記 2021年8月31日
『余白の愛』小川洋子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/08/31/9417426

小川洋子の文学の特質が十分に現れている作品だと感じる。

思うことを書けば、次の二点になるだろうか。

第一には、ささやき、といっていいだろうか。小川洋子の作品は、大声で何かを高らかに叫ぶという雰囲気のものではない。そうではなく、ひそやかな小声のささやきに、ひっそりと耳を傾ける、そんな雰囲気がある。

第二には、ユーモアである。短篇集であるが、読んでいて思わず微笑んでしまうようなところがいくつかある。小川洋子というのは、現代において、そこはかとないユーモアのある作品の描ける作家だと思う。

以上の二点のようなことを思って見る。

そして、思うことは、小川洋子は、小説という形式で物語ること……あえて極言すれば、嘘をついて人を楽しませること……このことを、楽しんで小説を書いているのではないだろうか。これが、昔の価値観でいうならば、狂言綺語ということになるのだろうが。

短篇集であるが、その設定が興味深い。どこか世界の辺鄙なところを旅していた日本人旅行客たち。それが、反政府勢力のテロリストに襲われて、人質となる。人質となった人びとが、順番に、自分の過去の印象深い思い出を語っていくという、大きな枠組みが用意されている。一見すると、非常に悲惨な状況なのだが、そのような雰囲気は微塵もない。むしろ逆に、どこかのサロンで思い出話をしているような印象さえある。

このような状況設定で小説を書く、この企みの面白さが群をぬいている。冒頭に、人質という状況説明があるのだが、その設定で読むからこそ、各作品の面白さがきわだってくるといえるだろうか。いや、読み方によっては、この上なく残酷な小説であるといってもよいかもしれない。

特に印象に残る小川洋子の一冊といっていいだろう。

2021年5月31日記

追記 2021年9月13日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年9月13日
『刺繍する少女』小川洋子
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/09/13/9422715

『おかえりモネ』あれこれ「若き者たち」2021-09-05

2021-09-05 當山日出夫(とうやまひでお)

『おかえりモネ』第16週「若き者たち」
https://www.nhk.or.jp/okaerimone/story/week_16.html

前回は、
やまもも書斎記 2021年8月29日
『おかえりモネ』あれこれ「百音と未知」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/08/29/9416515

この週はかなりシリアスな展開であったといえるだろう。

思うこととしては、次の二点ぐらいだろうか。

第一に、故郷の島の若者たち。

りょーちんとモネは、新宿で会う。そして、モネの住まいする銭湯につれてくる。そこに、仙台から仲間たちもやってくる。久々に東京で再会することになった、島の若者たち。

だが、そこに故郷をなつかしむというような感情はない。みな、それなりに震災を経験している。そのことを、口に出して語ることは、これまであまり無かったようだ。それを、久しぶりに集まった仲間のなかの話しとして、それぞれに自分の思いを語り始めることになる。

高校を卒業してしばらくのころの若者たちである。子どもの時代から、大人の時代へとかわっていく時期でもある。子どものころの幼さを懐かしむ気持ちもある一方で、これから先、大人として生きていくことへの不安もあるようだ。ここのところの微妙に揺れうごく心情を、このドラマの脚本は、見事に描いているといえるだろう。

それから、りょーちんは、モネのことを頼りにしようとする。しかし、それをモネはこばむ。モネとしても、りょーちんのことが心配でないわけはない。だからといって、素直にりょーちんの気持ちを受け入れることはできない。

第二に、菅波のこと。

コインランドリーで、モネと菅波が会う。菅波は、登米の診療所に専念しようかという。それを聞いて、モネは、菅波と離れたくないという気持ちを語ることになる。そして、二人は、抱き合うことになった。

以上の二点ぐらいが、この週で印象に残っているところであろうか。

結局、この週までの展開では、モネは、りょーちんではなく菅波の方にかたむいていくということになるようだ。りょーちんは故郷に帰り、菅波も診療所におもむくとすると、東京に残ることになるモネは、これからどうすることになるのだろうか。

また、妹の未知も、島に帰って行った。未知は、りょーちんのそばにいるという。百音と未知の姉妹の関係も、微妙である。

さて、この週では、天気予報のことは出てこなかった。コサメちゃんと傘イルカくんの出番は無かった。次週は、天気予報のこともでてくるようだ。気象予報士としてのモネの成長を描くことになるのだろうか。楽しみに見ることにしよう。

2021年9月4日記

追記 2021年9月12日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年9月12日
『おかえりモネ』あれこれ「わたしたちに出来ること」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/09/12/9422414

NHK「芥川賞・直木賞の舞台裏」2021-09-06

2021-09-06 當山日出夫(とうやまひでお)

NHK 決戦!タイムリミット「芥川賞・直木賞の舞台裏」

ちょっと興味があったので録画しておいて、翌日に見た。

芥川賞・直木賞について、作家のみならず、出版社、書店、印刷、製本といったところまで密着しての構成になっていた。だが、賞を決める側の事情……文壇といってもいいのだろうが……についてふれることはなかった。

ただ、私自身としては、芥川賞・直木賞だからといって特に読むこともしないし、逆に、忌避することもない。まあ、今の時代、どのような作品が文学の世界にあるのか、確認する意味で、ここ近年は手にとるようにしている、という程度である。

これも、出版不況といわれる今日にあっては、大きなイベントということになる。書籍は商品であり、その生産(執筆)にたずさわる作家以外に、流通、小売りまで、ビジネスの視点から、考えてみることになる。が、これも、特に目新しい視点ということではない。

やや不満に感じた点を書いておけば、芥川賞の受賞作については、もうちょっと言及があってよかったのではないかと感じる。日本語を母語としていない作家、また、日本ではなく外国にいる作家、このような作家が、受賞する時代になっていることは、今日の日本における文学のあり方を考える上で、重要なポイントになるにちがいない。(これも、取材をこころみたが断られたというのなら、いたしかたないが。)

さらに書いてみるならば、今や街の書店は風前のともしび状態といってもいいだろう。特に、地方の書店は厳しい状況にある。(これは、番組でも取り上げられていたとおりだろう。)その一方で、オンライン書店の存在がある。しかし、番組では、オンライン書店のことについては、一切触れることがなかった。このあたり、番組の構成上、ちょっと物足りなく感じるところではある。

それから興味深いのが校閲の作業。芥川賞について、雑誌掲載から単行本にするとき、単にDTPのデータを流用すればいいというものではなく、改稿・校正の手が加えられていることになる。このあたりは、ではどのテキストが、受賞作のテキストなのか、という問題を生むことになるだろう。

さて、今回の芥川賞であるが、二冊買ってはあるのだが、まだ読んでいない。どちらもそう長い作品ではないのだが、いやそれだからこそ、ある程度時間に余裕のあるときに、いっきに読んでしまいたいという気になるので、ちょっと手をつけずに積んだままになっている。

後期の授業のはじまるまでにすこし時間がある。授業の準備もあるが(ひょっとしてオンラインになるかもしれないが)、今回の芥川賞の作品は読んでおきたいとおもっている。

2021年9月5日記

『静謐』北杜夫2021-09-07

2021-09-07 當山日出夫(とうやまひでお)

静謐

北杜夫.『静謐-北杜夫自選短篇集-』(中公文庫).中央公論新社.2021
https://www.chuko.co.jp/bunko/2021/08/207093.html

北杜夫の作品は、中学生のころから高校生のころにかけてよく読んだ。大学生になってからは、あまり手にしていない。

中公文庫で、新しく作品集が出たので読んでみた。自選短篇集とあるのだが、なるほど、北杜夫は短編小説においても、すぐれた才能を発揮していると感じる。

収録してあるのは、次の作品。

岩尾根にて
羽蟻のいる丘
河口にて
星のない街路
谿間にて
不倫

黄いろい船
おたまじゃくし
静謐

題材、テーマは多岐にわたるが、概ね著者の初期の作品をあつめてある。どれもいい。読んでいて、まさしく北杜夫の文学世界だなと感じるところがある。

印象に残ったのは、冒頭の「岩尾根にて」、それから、「死」であろうか。著者の高校生時代(松本高等学校)の登山体験、それから、父親の斎藤茂吉の死のことをあつかっている。(ただ、「死」については、このような作品を書くこと自体に、読者の好みが分かれるところかもしれないとは思うが。)

読んで感じるところろは、この作品集全体を通じてであるが、それぞれの作品に共通するある感覚……それを、私の感じ取ったところとしては、「品の良さ」とでもいえばいいだろうか。ことばをかえて「上品」と言いかえると、ちょっと違う。場合によっては、グロテスクになりかねないような題材をあつかっていても、どことなく、「品」がある。あるいは、余裕があるといってもいいかもしれない。そして、その余裕がもたらすものは、そこはかとないユーモアであり、叙情性である。

北杜夫の作品は、若くよりいくつか読んできているし、近年になってからも読んでいるものがある。ただ、この作品集は未読のものであった。著名な作品としては、「航海記」「青春記」なども、再読してみた。ここは、もう一度『楡家の人びと』を読んでおきたくなっている。(これは、数年前に久しぶりに読みかえしている作品なのだが、これもさらに読みかえしてみたいと思う。)

北杜夫の作品が好みという人にとっては、おすすめの一冊である。

2021年9月4日記

ギボウシ2021-09-08

2021-09-08 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので写真の日。今日はギボウシである。

前回は、
やまもも書斎記 2021年9月1日
エノコログサ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/09/01/9418053

紫色の花である。我が家には、庭に三~四株ある。毎年、八月のころに花をつける。九月になっても、まだ咲いている。

このごろ、朝起きて、まずこの花の写真をとるようにしている。朝の光で撮ると、太陽がまだのぼっていなかったり、曇っていたり、あるいは日が差していたり……光線の状態によって、微妙に色合いが変わってくる。毎日写していても、同じ色の写真にはならない。(これも、現像のときにホワイトバランスを調整すれば、同じようにできるのだが。)

掲載の写真は、同じ色合いになるようにと思って、太陽がのぼって明るくなったころに、まとめて写してみたものからである。

八月は花の種類が少ない。今年は、百日紅の花がほとんど咲かなかった。杜鵑草の花がもうじき咲きそうな感じになってきている。木槿をみると蕾が観察できる。これは、そろそろ花を咲かせるだろうと思う。

ギボウシ

ギボウシ


ギボウシ

ギボウシ

ギボウシ

ギボウシ

Nikon D500
TAMRON SP 90mm F/2.8 Di MACRO 1:1 VC USD

2021年9月7日記

追記 2021年9月15日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年9月15日
ニラ
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/09/15/9423535

映像の世紀プレミアム(5)「グレートファミリー 巨大財閥の100年」2021-09-09

2021-09-09 當山日出夫(とうやまひでお)

映像の世紀プレミアム(5) グレートファミリー 巨大財閥の100年

「映像の世紀」「新・映像の世紀」と再放送してきて、「映像の世紀プレミアム」も再放送がつづくようである。見たものもあるし、見逃したものもある。再放送が続くなら、これを機会に見てみようと思う。

グレートファミリーについては、以前の「新・映像の世紀」でも一回をつかって放送していた。「映像の世紀プレミアム」になって、そう大きく変わったということもないように思う。

とはいえ、新しく編集して変わったとことろしては、次の二点ぐらいがあるだろうか。

第一には、アメリカの凶作。以前の「新・映像の世紀」では、1930年代のアメリが中心であった。第一次世界大戦後の未曾有の繁栄と、そこにうまれた巨大企業。グレートファミリー。と同時に、その後の、アメリカ社会のことも描かれていたのを思い出す。農村を襲った凶作である。これは、スタインベックが『怒りの葡萄』で描いている。しかし、今回の「映像の世紀プレミアム」では、これは割愛されていた。

第二には、逆に、以前の放送にはなくて、今回の「映像の世紀プレミアム」で新しく加わった部分がある。それは、ヨーロッパのロスチャイルド家のこと。(確か、これは、以前の放送では、触れられていなかったかと記憶する。)

それから、第二次世界大戦後の新たな大企業、富豪。ヒルトンホテルのことや、海運王と呼ばれたオナシスのことなど。ジャックリーンも登場していた。

以上の二点ぐらい、新編集で異なるところはあるが、基本的なメッセージとしては、共通するものがあると感じる。

第一には、グレートファミリーは、今に続いていることである。アメリカの巨大企業は、その影響力を今にいたるまで保ち続けている。また、巨大企業は、軍事産業と不可分のものとしてあったことも、忘れてはならないことだろう。

第二には、今から一〇〇年前からあるグレートファミリー。それは、ある意味では、社会の分断と対立でもある。一部の富めるものと、そうではない多数のもの。この構図は、二一世紀の今日になっても変わらないといっていいだろう。いや、むしろ、その傾向は拡大しているといってもいいのかもしれない。

ざっと以上のようなことを思って見る。

グレートファミリーは、資本主義経済である以上、どうしても生じるものなのだろうか。が、その今日の世界にあって、アメリカ的な資本主義社会と異質な経済圏が生まれてもいる。一党独裁国家である中国の台頭であり、また、イスラム諸国の動きである。最近のうごきとしては、アフガニスタンの情勢が気になる。

グレートファミリーの象徴が、ニューヨークの世界貿易センタービルであったとするならば、それを標的とした二〇〇一年のテロは、新たな時代の幕開けであったのかもしれない。二一世紀になって二〇年あまり。その答えは、まだ分からないというべきであろうか。

2021年9月8日記

プロジェクトX「ワープロ 運命の最終テスト」2021-09-10

2021-09-10 當山日出夫(とうやまひでお)

プロジェクトX ワープロ 運命の最終テスト

前回は、
やまもも書斎記 2021年9月3日
プロジェクトX「男たちの復活戦 デジタルカメラに賭ける」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/09/03/9418782

この文章自体、ワープロで書いているといっていいだろう。日本語入力は、ATOKをつかっている。ただ、ワープロ(Wordなど)ではなく、エディタで書いている。使っているのは、Mery。(軽くて、日本語のちょっとした文章を書くのには重宝する。無料のエディタである。)

この番組は、二〇〇二年の放送。まだ、世の中に、ワープロ専用機というものがあった時代である。パソコン用のOSとしては、Windows98あたりが使われていたころになるだろうか。これも、Windowsのパソコンの普及とともに、ワープロ専用機が退場していくことになる。(今ではすっかり姿を消した。)

放送は、日本で最初のワープロとして商品化された、JW-10の開発の話し。

いろいろといいたいことはある。例えば、日本語を書くのに四八の仮名と五万字の漢字が必要というのは、問題がある。通常の日本語文を書くのに五万もの漢字は不必要であるといえるし、一方、仮名はただ四八あればいいというものではない。

だが、番組としては、これはこれでよくできていたと思う。今や、日本語とコンピュータをめぐっては、自然言語処理の問題として、さらには、AIをつかった言語情報処理の問題として、最先端の研究領域になっている。もはや、コンピュータのことを考えずに、言語のことを考えることはできない時代になっているといってよい。

コンピュータと言語をめぐる研究史はさまざまに記述することが可能であろうが、そのなかにあって、東芝のJW-10の開発の話しは、やはり、一つの時代を画するものであったといっていいのだろう。だが、その東芝をはじめとして、今では、もう「ワープロ」(ワープロ専用機)というものが姿を消してしまっている。

これは、日本語とコンピュータの歴史として考えることは無論であるが、その一方で、普通の人びとの生活誌として考えることも重要である。今では、スマホについても、日本語入力ということをぬきにしては、考えられない。また、ワープロの登場とそれ以前、また、文書データをデジタルで残せるようになって、どう社会が変わってきたのか。さまざまに考えるべき論点があるかと思う。

日本語学としては、言語生活史……今ではこのような概念自体がふるめかしいものになってしまっているが……における、デジタル機器の利用と影響、こんな視点から調査し論じることになるのかと思う。

2021年9月8日記

追記 2021年9月17日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年9月17日
プロジェクトX「薬師寺 幻の金堂・ゼロからの挑戦」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/09/17/9424232