『青年茂吉』北杜夫 ― 2021-10-18
2021-10-18 當山日出夫(とうやまひでお)
北杜夫.『青年茂吉-「赤光」「あらたま」の時代-』(岩波現代文庫).岩波書店.2001(岩波書店.1991)
https://www.iwanami.co.jp/book/b256000.html
『静謐』を読んだ。そして、『楡家の人びと』を読んだら、北杜夫の他の作品も読んでおきたくなった。
やまもも書斎記 2021年9月7日
『静謐』北杜夫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/09/07/9420414
やまもも書斎記 2021年9月20日
『楡家の人びと 第一部』北杜夫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/09/20/9425149
やまもも書斎記 2021年9月27日
『楡家の人びと 第二部』北杜夫
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/09/27/9427366
やまもも書斎記 2021年10月4日
『楡家の人びと 第三部』北杜夫
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/10/04/9429290
この斎藤茂吉のことを書いた四部作のことは知っていたが、なんとなく手をつけずに過ぎてしまっていた。近代短歌というものに、さほどの関心がなかったことも起因するかと思う。だが、北原白秋や斎藤茂吉などは、近代の文学において重要な位置をしめるとは思っていた。
また、近年のことだが、「古典」というものについて考えている。日本の「古典」の代表として『万葉集』などあるわけだが、いにしえより「古典」であったということはない。『万葉集』が「古典」になったのは、近代以降のことであるといってもいいだろう。そこに重要な役割を果たしているのが、アララギ派の歌人たちである。
さて、斎藤茂吉は『万葉集』をどう読んでいたのか、どのテキストで読んだのか、このあたりも興味のあるところである。
ともあれ、四部作を読んでおくことにした。
読み始めてであるが……これは、面白いと思ったのが正直なところである。斎藤茂吉の評伝としても秀逸であると感じる、それと同時に、北杜夫のユーモアと品のある文章がいい。
第一冊目を読んで思うこととしては、次の二点ぐらいを書いておきたい。
第一には、評伝として。
基本的に、斎藤茂吉の若いときからの評伝という形をとっている。それはそのとおりなのだが、書き手は、北杜夫である。斎藤茂吉の次男である。その子どもの目から見た斎藤茂吉の姿が描かれる。
斎藤茂吉もそうであったが、北杜夫も精神科医である。その観点から、父親を観察している。斎藤茂吉という人物は、非常に頑固で強引な面もあった一方で、同時に、非常に繊細な面ももちあわせていたという。このあたりのことが、著者(北杜夫)の個人的な回想のかたちで、随所に出てくる。これが、興味深い。
第二には、北杜夫の書いたものとして。
これを読むと、『楡家の人びと』の楡基一郎という人物は、斎藤茂吉の養父である紀一をモデルにしていることがよくわかる。そして、『楡家の人びと』に出てくる基一郎の人物像や、病院でのエピソードなどは、かなり実際のことをふまえて書いてあるとわかる。
これは、むしろ『楡家の人びと』などの北杜夫の文学を理解するうえで、貴重な資料、証言として読むことができるものである。
まず、以上の二点ぐらいが、第一冊目を読んで思うことなどである。
つづけて、二冊目を読むことにしたい。
2021年9月21日記
https://www.iwanami.co.jp/book/b256000.html
『静謐』を読んだ。そして、『楡家の人びと』を読んだら、北杜夫の他の作品も読んでおきたくなった。
やまもも書斎記 2021年9月7日
『静謐』北杜夫
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やまもも書斎記 2021年9月20日
『楡家の人びと 第一部』北杜夫
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やまもも書斎記 2021年9月27日
『楡家の人びと 第二部』北杜夫
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/09/27/9427366
やまもも書斎記 2021年10月4日
『楡家の人びと 第三部』北杜夫
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/10/04/9429290
この斎藤茂吉のことを書いた四部作のことは知っていたが、なんとなく手をつけずに過ぎてしまっていた。近代短歌というものに、さほどの関心がなかったことも起因するかと思う。だが、北原白秋や斎藤茂吉などは、近代の文学において重要な位置をしめるとは思っていた。
また、近年のことだが、「古典」というものについて考えている。日本の「古典」の代表として『万葉集』などあるわけだが、いにしえより「古典」であったということはない。『万葉集』が「古典」になったのは、近代以降のことであるといってもいいだろう。そこに重要な役割を果たしているのが、アララギ派の歌人たちである。
さて、斎藤茂吉は『万葉集』をどう読んでいたのか、どのテキストで読んだのか、このあたりも興味のあるところである。
ともあれ、四部作を読んでおくことにした。
読み始めてであるが……これは、面白いと思ったのが正直なところである。斎藤茂吉の評伝としても秀逸であると感じる、それと同時に、北杜夫のユーモアと品のある文章がいい。
第一冊目を読んで思うこととしては、次の二点ぐらいを書いておきたい。
第一には、評伝として。
基本的に、斎藤茂吉の若いときからの評伝という形をとっている。それはそのとおりなのだが、書き手は、北杜夫である。斎藤茂吉の次男である。その子どもの目から見た斎藤茂吉の姿が描かれる。
斎藤茂吉もそうであったが、北杜夫も精神科医である。その観点から、父親を観察している。斎藤茂吉という人物は、非常に頑固で強引な面もあった一方で、同時に、非常に繊細な面ももちあわせていたという。このあたりのことが、著者(北杜夫)の個人的な回想のかたちで、随所に出てくる。これが、興味深い。
第二には、北杜夫の書いたものとして。
これを読むと、『楡家の人びと』の楡基一郎という人物は、斎藤茂吉の養父である紀一をモデルにしていることがよくわかる。そして、『楡家の人びと』に出てくる基一郎の人物像や、病院でのエピソードなどは、かなり実際のことをふまえて書いてあるとわかる。
これは、むしろ『楡家の人びと』などの北杜夫の文学を理解するうえで、貴重な資料、証言として読むことができるものである。
まず、以上の二点ぐらいが、第一冊目を読んで思うことなどである。
つづけて、二冊目を読むことにしたい。
2021年9月21日記
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