二〇二二年に読みたい本のことなど ― 2022-01-01
2022年1月1日 當山日出夫(とうやまひでお)
今年(二〇二二)に読みたい本のことなど書いてみる。
昨年末から、谷崎潤一郎を読んでいる。『少将滋幹の母』『盲目物語』など、中公文庫で刊行になっている。これは、中央公論新社版の「全集」をもとに、新しく文庫につくったものである。これなど読んでいると、谷崎潤一郎の作品を読んでみたくなっている。谷崎潤一郎は、若いころに一通りは読んだ作家である。その後、あまりしたしむことなく時が過ぎてしまって、今にいたっている。「全集」を買って読もうという気は起こらないのであるが、文庫本で出ている範囲ぐらいで、読みなおしてみたい。
まとめて読みなおしておきたい作家としては、川端康成や三島由紀夫などがある。これも「全集」ということではなく、今手にはいる文庫本の範囲ぐらいで、読み直しておきたい。昨年、読もうと思っていたのだが、読むことなく終わってしまった。
読んでおきたい作家としては、森鷗外がある。今、普通に手に入る文庫本の範囲は読んでいる。が、これをこえてさらに読んでおきたい。岩波版の「全集」は若いときに買って持っているのだが、しまったままである。
夏目漱石も、新しい岩波版の「全集」は持っているのだが、これも古い一七巻本の旧版の「全集」で読みなおしておきたいと思う。本文校訂の方針がちがっている。昔、高校生のころに読んだ本である。昔を思い出しながら読んでみたいと思う。
それから、持ってはいるのだがあまり手を出さずにいるのが、岩波の「日本思想大系」。全巻そろいである。これもぼちぼちと読んでいきたい。
次年度から、家を出るのが減る。教える仕事が少なくなる。無理に、もう増やそうとも思わない。時間をつくって、本を読みたいと思う。「思想大系」や「古典大系」(新・旧)、「古典集成」など、持ってはいるが読んでいない本が多い。これから、文学……思想や歴史などをふくめて……を、読むことに時間をつかいたいと思う。
考えなければならないこととしては、やはり「古典」ということがある。なぜ「古典」を読むのか。「古典」とは何か。浅薄な古典不要論が横行しがちな世の中にあって、自分自身で「古典」を読むことの意味を考えていきたい。
「古典」を読むことと、身近な草花の写真を撮ること、これをこの年も続けることができたらと思っている。
2022年1月1日記
今年(二〇二二)に読みたい本のことなど書いてみる。
昨年末から、谷崎潤一郎を読んでいる。『少将滋幹の母』『盲目物語』など、中公文庫で刊行になっている。これは、中央公論新社版の「全集」をもとに、新しく文庫につくったものである。これなど読んでいると、谷崎潤一郎の作品を読んでみたくなっている。谷崎潤一郎は、若いころに一通りは読んだ作家である。その後、あまりしたしむことなく時が過ぎてしまって、今にいたっている。「全集」を買って読もうという気は起こらないのであるが、文庫本で出ている範囲ぐらいで、読みなおしてみたい。
まとめて読みなおしておきたい作家としては、川端康成や三島由紀夫などがある。これも「全集」ということではなく、今手にはいる文庫本の範囲ぐらいで、読み直しておきたい。昨年、読もうと思っていたのだが、読むことなく終わってしまった。
読んでおきたい作家としては、森鷗外がある。今、普通に手に入る文庫本の範囲は読んでいる。が、これをこえてさらに読んでおきたい。岩波版の「全集」は若いときに買って持っているのだが、しまったままである。
夏目漱石も、新しい岩波版の「全集」は持っているのだが、これも古い一七巻本の旧版の「全集」で読みなおしておきたいと思う。本文校訂の方針がちがっている。昔、高校生のころに読んだ本である。昔を思い出しながら読んでみたいと思う。
それから、持ってはいるのだがあまり手を出さずにいるのが、岩波の「日本思想大系」。全巻そろいである。これもぼちぼちと読んでいきたい。
次年度から、家を出るのが減る。教える仕事が少なくなる。無理に、もう増やそうとも思わない。時間をつくって、本を読みたいと思う。「思想大系」や「古典大系」(新・旧)、「古典集成」など、持ってはいるが読んでいない本が多い。これから、文学……思想や歴史などをふくめて……を、読むことに時間をつかいたいと思う。
考えなければならないこととしては、やはり「古典」ということがある。なぜ「古典」を読むのか。「古典」とは何か。浅薄な古典不要論が横行しがちな世の中にあって、自分自身で「古典」を読むことの意味を考えていきたい。
「古典」を読むことと、身近な草花の写真を撮ること、これをこの年も続けることができたらと思っている。
2022年1月1日記
「倫敦の山本五十六」 ― 2022-01-02
2022年1月2日 當山日出夫(とうやまひでお)
NHK 倫敦の山本五十六
https://www.nhk.jp/p/ts/18JMJ8GR29/?cid=jp-timetable-modal-programofficial
太平洋戦争開戦八〇年ということで、NHKが製作したドラマ。かなり力を入れて作ったものである。昨年の一二月三〇日の放送。録画しておいて、年が明けてからゆっくりと見た。
見て、いや、それ以前に、このドラマを放送するということを知ったときから、思うことなのだが、どうして、ドキュメンタリーにせずに、ドラマにしたのであろうか。そうすべき必然性がどこにあるのだろうか。
ドラマに作ることによって、より実感のわくものとして、山本五十六という人、そのロンドン軍縮会議でのふるまいが、見るものに伝わってくることは確かである。
しかし、その一方で、新発掘された史料とはいったいどういうものであるのか、どこにあってどういう経緯で発見されたのか、そこから、何が分かるのか、そして、その史料によって、歴史の見方がどう変わることになるのか……この肝心な点が、ぼやけてしまうことはいなめない。
どうでもいいことかもしれないが、半藤一利ももう亡くなってしまったことだし、ドキュメンタリーするということを、諦めたのかもしれない。
また、どうして、山本五十六という人物を描くとき、その私生活をふくめて、全人格的に描きたくなるのだろうか。純粋に、軍人としての活動に限って描き、評価するということをしないのだろうか。(これは、これまで多く書かれてきた書物や映画などについてもいえることだと思う。)やはり、山本五十六という人物は、その全人格を描きたくなる魅力があるということなのかもしれない。
脚本、演出で疑問に思った点もある。日本からの電報を、山本五十六は、ロンドンの街中で受け取って読んでいた。これは、おそらくありえない。軍事、外交の機密電報である。しかるべく大使館なりで、暗号を解読したものを読んだはずである。(ひょっとすると、その暗号電報も、傍受解読されていたかもしれないのだが。)
さらに思ったどうでもいいこととしては、東京国立博物館を、このところテレビなどでよく目にするように思う。
ともあれ、ロンドン軍縮会議が日本の歴史に何をもたらしたのか、考えるきっかけになるドラマであったとは思う。
2022年1月1日記
NHK 倫敦の山本五十六
https://www.nhk.jp/p/ts/18JMJ8GR29/?cid=jp-timetable-modal-programofficial
太平洋戦争開戦八〇年ということで、NHKが製作したドラマ。かなり力を入れて作ったものである。昨年の一二月三〇日の放送。録画しておいて、年が明けてからゆっくりと見た。
見て、いや、それ以前に、このドラマを放送するということを知ったときから、思うことなのだが、どうして、ドキュメンタリーにせずに、ドラマにしたのであろうか。そうすべき必然性がどこにあるのだろうか。
ドラマに作ることによって、より実感のわくものとして、山本五十六という人、そのロンドン軍縮会議でのふるまいが、見るものに伝わってくることは確かである。
しかし、その一方で、新発掘された史料とはいったいどういうものであるのか、どこにあってどういう経緯で発見されたのか、そこから、何が分かるのか、そして、その史料によって、歴史の見方がどう変わることになるのか……この肝心な点が、ぼやけてしまうことはいなめない。
どうでもいいことかもしれないが、半藤一利ももう亡くなってしまったことだし、ドキュメンタリーするということを、諦めたのかもしれない。
また、どうして、山本五十六という人物を描くとき、その私生活をふくめて、全人格的に描きたくなるのだろうか。純粋に、軍人としての活動に限って描き、評価するということをしないのだろうか。(これは、これまで多く書かれてきた書物や映画などについてもいえることだと思う。)やはり、山本五十六という人物は、その全人格を描きたくなる魅力があるということなのかもしれない。
脚本、演出で疑問に思った点もある。日本からの電報を、山本五十六は、ロンドンの街中で受け取って読んでいた。これは、おそらくありえない。軍事、外交の機密電報である。しかるべく大使館なりで、暗号を解読したものを読んだはずである。(ひょっとすると、その暗号電報も、傍受解読されていたかもしれないのだが。)
さらに思ったどうでもいいこととしては、東京国立博物館を、このところテレビなどでよく目にするように思う。
ともあれ、ロンドン軍縮会議が日本の歴史に何をもたらしたのか、考えるきっかけになるドラマであったとは思う。
2022年1月1日記
『車輪の下で』ヘッセ/松永美穂(訳) ― 2022-01-03
2022年1月3日 當山日出夫(とうやまひでお)

ヘッセ.松永美穂(訳).『車輪の下で』(光文社古典新訳文庫).光文社.2007
https://www.kotensinyaku.jp/books/book45/
この作品、なんとなく読まずにきてしまった作品である。いや、読まなかったというのは正確ではない。たしか、中学だか、高校だかの国語の教科書に、その一部が採録されていたのを、なんとなく覚えている。しかし、全編を読むということなく終わってしまった。
光文社古典新訳文庫で、新しい訳がでているので読んでみることにした。この作品は、他にもいくつかの訳が今でも刊行になっている。どれで読んでもいいようなものかもしれないのだが、ここは、一番新しい訳で読んでみようと思った。
教養小説である。主人公はハンス。学校の勉強はできる。試験をうけて、神学校に入学することになる。しかし、そこで挫折を味わうことになる。故郷に帰って、職人の道を選ぶ。職人として仕事を覚え始めるのだが……という展開。
この歳になって、この作品を読んでみると、まあ生きていくというのはいろいろと大変だよな、というような感慨が思い浮かぶ。これが、若いとき、高校生ぐらいのときに、この本を読んでいれば、また違った感想をいだいたにちがいない。だが、もう私も若くはない。それどころか、老人の範疇に入るようになってしまった。その目で、このような、若い時代のことを描いた文学を読むと、何かしら新鮮な気持ちになったりもする。これもまた、読書の楽しみかもしれない。
読んで思うこととしては、この作品は、自然の風景描写が実にいい。季節の移り変わりを、きわめて丁寧に描いている。また、釣りをする場面があるのだが、これが面白い。(ただ、私自身は、釣りはしない生活であるのだが。)
2021年12月10日記
https://www.kotensinyaku.jp/books/book45/
この作品、なんとなく読まずにきてしまった作品である。いや、読まなかったというのは正確ではない。たしか、中学だか、高校だかの国語の教科書に、その一部が採録されていたのを、なんとなく覚えている。しかし、全編を読むということなく終わってしまった。
光文社古典新訳文庫で、新しい訳がでているので読んでみることにした。この作品は、他にもいくつかの訳が今でも刊行になっている。どれで読んでもいいようなものかもしれないのだが、ここは、一番新しい訳で読んでみようと思った。
教養小説である。主人公はハンス。学校の勉強はできる。試験をうけて、神学校に入学することになる。しかし、そこで挫折を味わうことになる。故郷に帰って、職人の道を選ぶ。職人として仕事を覚え始めるのだが……という展開。
この歳になって、この作品を読んでみると、まあ生きていくというのはいろいろと大変だよな、というような感慨が思い浮かぶ。これが、若いとき、高校生ぐらいのときに、この本を読んでいれば、また違った感想をいだいたにちがいない。だが、もう私も若くはない。それどころか、老人の範疇に入るようになってしまった。その目で、このような、若い時代のことを描いた文学を読むと、何かしら新鮮な気持ちになったりもする。これもまた、読書の楽しみかもしれない。
読んで思うこととしては、この作品は、自然の風景描写が実にいい。季節の移り変わりを、きわめて丁寧に描いている。また、釣りをする場面があるのだが、これが面白い。(ただ、私自身は、釣りはしない生活であるのだが。)
2021年12月10日記
『人間の絆』(上)サマセット・モーム/金原瑞人(訳)/新潮文庫 ― 2022-01-04
2022年1月4日 當山日出夫(とうやまひでお)

サマセット・モーム.金原瑞人(訳).『人間の絆』(上)(新潮文庫).新潮社.2021
https://www.shinchosha.co.jp/book/213030/
新潮文庫で、モームの『人間の絆』の新しい訳本が出たので読んでいる。まず上巻である。
モームについては、新潮文庫や岩波文庫などの短篇集をこれまで読んだ。実に巧みな短編作家であると感じる。『月と六ペンス』も近年になって読んでいる。
『人間の絆』は、昔、岩波文庫だったかと思うが、読みかけて中断してしまった作品である。新潮文庫の新しい本が出たので、これで再び読んでみることにした。
上巻まで読んで思うことは、やはりストーリーの運びのたくみさである。最初、英国で主人公が生まれるあたりの記述は、その社会的背景、宗教や教育についての風習などになじみがないせいか、ちょっと読みづらいと感じるところがある。しかし、フィリップは成長して、学校を去り、ドイツに行き、次は、フランスに行き画家になろうとする。画業に挫折して、英国もどり今度は医者になろうとする。
なんとも、移り変わりの激しい生き方であることか……と思って読むのだが、あまり退屈することなく、上巻を読み進んでしまった。
これは、「教養小説」ということらしのだが……ジャパンナレッジで見てみると、概ねそのように書いてあるのだが……どうも、フィリップは、成長しているようには見えない。様々な人生の紆余曲折があるのだが、それをフィリップはどこかさめたような目で自分自身を見ているところがある。強いていえば、フィリップは、あまり素直な人格でない。
また、フィリップはあるとき信仰を捨てている。これは、英国での教会で生いたちということを考えてみるならば、かなり大胆な人生の選択である。
だが、このあたりの主人公の造形が、この小説の面白さなのであろうとも思う。
そして、興味深いのは、パリでの画家を目指しているころの描写。なるほどその当時のパリの画家、あるいは、画家をめざす人びとはこんなふうに生活して、こんなことを考えていたのかと、いろいろと面白い。芸術の世界である。最終的には、才能があるかどうか……ここのところを、自分でどう自覚するかにかかっている。
英国で医者になろうとするところで、ある女性に恋する。それも、結果的にふられるというところで、上巻はおわる。つづけて、下巻を読むことにしよう。
2021年11月28日記
https://www.shinchosha.co.jp/book/213030/
新潮文庫で、モームの『人間の絆』の新しい訳本が出たので読んでいる。まず上巻である。
モームについては、新潮文庫や岩波文庫などの短篇集をこれまで読んだ。実に巧みな短編作家であると感じる。『月と六ペンス』も近年になって読んでいる。
『人間の絆』は、昔、岩波文庫だったかと思うが、読みかけて中断してしまった作品である。新潮文庫の新しい本が出たので、これで再び読んでみることにした。
上巻まで読んで思うことは、やはりストーリーの運びのたくみさである。最初、英国で主人公が生まれるあたりの記述は、その社会的背景、宗教や教育についての風習などになじみがないせいか、ちょっと読みづらいと感じるところがある。しかし、フィリップは成長して、学校を去り、ドイツに行き、次は、フランスに行き画家になろうとする。画業に挫折して、英国もどり今度は医者になろうとする。
なんとも、移り変わりの激しい生き方であることか……と思って読むのだが、あまり退屈することなく、上巻を読み進んでしまった。
これは、「教養小説」ということらしのだが……ジャパンナレッジで見てみると、概ねそのように書いてあるのだが……どうも、フィリップは、成長しているようには見えない。様々な人生の紆余曲折があるのだが、それをフィリップはどこかさめたような目で自分自身を見ているところがある。強いていえば、フィリップは、あまり素直な人格でない。
また、フィリップはあるとき信仰を捨てている。これは、英国での教会で生いたちということを考えてみるならば、かなり大胆な人生の選択である。
だが、このあたりの主人公の造形が、この小説の面白さなのであろうとも思う。
そして、興味深いのは、パリでの画家を目指しているころの描写。なるほどその当時のパリの画家、あるいは、画家をめざす人びとはこんなふうに生活して、こんなことを考えていたのかと、いろいろと面白い。芸術の世界である。最終的には、才能があるかどうか……ここのところを、自分でどう自覚するかにかかっている。
英国で医者になろうとするところで、ある女性に恋する。それも、結果的にふられるというところで、上巻はおわる。つづけて、下巻を読むことにしよう。
2021年11月28日記
追記 2022年1月6日
この続きは、
やまもも書斎記 2022年1月6日
『人間の絆』(下)サマセット・モーム/金原瑞人(訳)/新潮文庫
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/01/06/9453860
この続きは、
やまもも書斎記 2022年1月6日
『人間の絆』(下)サマセット・モーム/金原瑞人(訳)/新潮文庫
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/01/06/9453860
梅の冬芽 ― 2022-01-05
2022年1月5日 當山日出夫(とうやまひでお)
今年も水曜日は写真の日。今日は、梅の冬芽である。
前回は、
やまもも書斎記 2021年12月29日
椿
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/12/29/9451600
家のまわりから花がなくなっている。山茶花の花が咲いていたのだが、ほとんど散ってしまっている。ここしばらくは、冬の草花である。
写したのは梅の冬芽。今年になって最初の撮影として撮ってみた。冬になってから見てみると、例年どおりに冬芽が見える。かなりの老木なので、そんなに鮮やかに花が咲くということはない。だいたい、ニュースなどで梅の開花の便りを目にするようになって、しばらくしてから花が咲く。紅梅である。
この木も毎年同じように写している。今年は、SIGMAの150ミリマクロを使ってみることにした。昨年買ったレンズである。朝の明るくなってしばらくしてからの時間帯で写してみたのだが、もう少し明るくなってからの方がよかったのかもしれない。明るさが十分でないこともあって、そんなに速いシャッターが切れない。いくつか写したうちから適当に選んだものである。
年がかわったので、今年になってから写した写真ということにしようかと思っている。しばらくは晴れの日がつづくようなので、時間があればカメラを持って外に出ることにしようかと思う。
今年も水曜日は写真の日。今日は、梅の冬芽である。
前回は、
やまもも書斎記 2021年12月29日
椿
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/12/29/9451600
家のまわりから花がなくなっている。山茶花の花が咲いていたのだが、ほとんど散ってしまっている。ここしばらくは、冬の草花である。
写したのは梅の冬芽。今年になって最初の撮影として撮ってみた。冬になってから見てみると、例年どおりに冬芽が見える。かなりの老木なので、そんなに鮮やかに花が咲くということはない。だいたい、ニュースなどで梅の開花の便りを目にするようになって、しばらくしてから花が咲く。紅梅である。
この木も毎年同じように写している。今年は、SIGMAの150ミリマクロを使ってみることにした。昨年買ったレンズである。朝の明るくなってしばらくしてからの時間帯で写してみたのだが、もう少し明るくなってからの方がよかったのかもしれない。明るさが十分でないこともあって、そんなに速いシャッターが切れない。いくつか写したうちから適当に選んだものである。
年がかわったので、今年になってから写した写真ということにしようかと思っている。しばらくは晴れの日がつづくようなので、時間があればカメラを持って外に出ることにしようかと思う。
Nikon D500
SIGMA APO MACRO 150mm F2.8 EX DG OS HSM
2022年1月4日記
『人間の絆』(下)サマセット・モーム/金原瑞人(訳)/新潮文庫 ― 2022-01-06
2022年1月6日 當山日出夫(とうやまひでお)

サマセット・モーム.金原瑞人(訳).『人間の絆』(下)(新潮文庫).新潮社.2021
https://www.shinchosha.co.jp/book/213031/
続きである。
やまもも書斎記 2022年1月4日
『人間の絆』(上)サマセット・モーム/金原瑞人(訳)/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/01/04/9453316
上巻につづけて下巻を読んだ。途中、ちょっと中断して読んだことになるのだが、すんなりと最後まで読んだ。
やはりモームは、短編作家だと思う。これは長編小説という形になっているのだが、フィリップをとりまく人物が入れ替わり立ち替わり登場しては消えていく。その登場人物たちとフィリップのかかわりは、それぞれに短編小説的な面白さがある。
全編にわたって登場してフィリップの人生とかかわる人間は、そう多くない。が、なかで魅力的なのは、上巻の終わりの方で登場してきた女性、ミルドレッドである。強いていえば、悪女ということになるのかもしれないが、どことなく憎めない魅力がある。
この小説の時代設定は、概ね一九世紀の終わりごろということなのだろう。ちょっと風俗的、歴史的に、今の日本で読んでわかりにくいところがないではない。特に、医者になろうとする主人公については、昔の英国の医者とはそのようなものだったのかと思って読むしかない。
そして、上下巻を読み終わって感じることであるが、この小説の主人公のフィリップは、どうもあまりいい人というわけではない。このことについては、文庫本の解説でも語られている。悪い人間ということではないのだが、決して善良な好人物という人物造形にはなっていない。
しかし、そのような登場人物を、怜悧な人間観察の目で描き出している作者の手腕は確かなものがある。
2021年12月8日記
https://www.shinchosha.co.jp/book/213031/
続きである。
やまもも書斎記 2022年1月4日
『人間の絆』(上)サマセット・モーム/金原瑞人(訳)/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/01/04/9453316
上巻につづけて下巻を読んだ。途中、ちょっと中断して読んだことになるのだが、すんなりと最後まで読んだ。
やはりモームは、短編作家だと思う。これは長編小説という形になっているのだが、フィリップをとりまく人物が入れ替わり立ち替わり登場しては消えていく。その登場人物たちとフィリップのかかわりは、それぞれに短編小説的な面白さがある。
全編にわたって登場してフィリップの人生とかかわる人間は、そう多くない。が、なかで魅力的なのは、上巻の終わりの方で登場してきた女性、ミルドレッドである。強いていえば、悪女ということになるのかもしれないが、どことなく憎めない魅力がある。
この小説の時代設定は、概ね一九世紀の終わりごろということなのだろう。ちょっと風俗的、歴史的に、今の日本で読んでわかりにくいところがないではない。特に、医者になろうとする主人公については、昔の英国の医者とはそのようなものだったのかと思って読むしかない。
そして、上下巻を読み終わって感じることであるが、この小説の主人公のフィリップは、どうもあまりいい人というわけではない。このことについては、文庫本の解説でも語られている。悪い人間ということではないのだが、決して善良な好人物という人物造形にはなっていない。
しかし、そのような登場人物を、怜悧な人間観察の目で描き出している作者の手腕は確かなものがある。
2021年12月8日記
『〈平成〉の正体』藤井達夫 ― 2022-01-07
2022年1月7日 當山日出夫(とうやまひでお)

藤井達夫.『〈平成〉の正体-なぜこの社会は機能不全に陥ったのか-』(イースト新書).イースト・プレス.2018
https://www.eastpress.co.jp/goods/detail/9784781651057
『代表制民主主義はなぜ失敗したのか』が面白かったので、同じ著者の本を読んでおくことにした。これは、少し前の刊行。2018年の刊行。平成三〇年になる。平成の最後である。
今(二〇二一)の時点から読んでみるならば、どれもごく普通に論じられることばかりである。が、非常に手際よく、今日の日本の社会や政治の状況、問題点などを、論点を整理して書いてある。現在の視点から見ても、なるほどと思うとことが多々ある。
目次を示してみるならば以下のとおり。
ポスト工業化と液状化する社会
ネオリベ化した社会の理想と現実
格差社会の「希望は戦争」
ポスト冷戦と強化される対米依存
五五年体制の終焉と挫折した政治改革
「日常の政治」からポスト平成を切り開く
また、最終章に、辻田真佐憲との対談「保守とリベラルは新しい「物語」をつくれるか?」をおさめる。
平成という時代は、三〇年ほどつづいた。それは、冷戦の終結からバブル経済の崩壊とともにスタートすることになった。今になってみれば、失われた三〇年というべき時代である。このあいだに、社会は変わった。いわく、グローバル化、デジタル化、格差、新自由主義……いくつかの、この時代を説明することばが登場してきている。そのことばのなかに翻弄されてきた時代であった。いや、今も、翻弄されている。
とにかく、平成の終わりの何年か、それは、安倍政権の時代ということになるが、この時代の空虚さを実感することになる。過去の一〇年ほど、この社会は、何を目指してきたということなのだろうか。そこに、COVID-19である。これほど、この日本の社会の、また、政治の、無力、無能ということを感じたことはなかった。
今の日本のおかれた状況を冷静に振り返ってみる意味でも、この本は価値のある本だと思う。
2021年12月17日記
https://www.eastpress.co.jp/goods/detail/9784781651057
『代表制民主主義はなぜ失敗したのか』が面白かったので、同じ著者の本を読んでおくことにした。これは、少し前の刊行。2018年の刊行。平成三〇年になる。平成の最後である。
今(二〇二一)の時点から読んでみるならば、どれもごく普通に論じられることばかりである。が、非常に手際よく、今日の日本の社会や政治の状況、問題点などを、論点を整理して書いてある。現在の視点から見ても、なるほどと思うとことが多々ある。
目次を示してみるならば以下のとおり。
ポスト工業化と液状化する社会
ネオリベ化した社会の理想と現実
格差社会の「希望は戦争」
ポスト冷戦と強化される対米依存
五五年体制の終焉と挫折した政治改革
「日常の政治」からポスト平成を切り開く
また、最終章に、辻田真佐憲との対談「保守とリベラルは新しい「物語」をつくれるか?」をおさめる。
平成という時代は、三〇年ほどつづいた。それは、冷戦の終結からバブル経済の崩壊とともにスタートすることになった。今になってみれば、失われた三〇年というべき時代である。このあいだに、社会は変わった。いわく、グローバル化、デジタル化、格差、新自由主義……いくつかの、この時代を説明することばが登場してきている。そのことばのなかに翻弄されてきた時代であった。いや、今も、翻弄されている。
とにかく、平成の終わりの何年か、それは、安倍政権の時代ということになるが、この時代の空虚さを実感することになる。過去の一〇年ほど、この社会は、何を目指してきたということなのだろうか。そこに、COVID-19である。これほど、この日本の社会の、また、政治の、無力、無能ということを感じたことはなかった。
今の日本のおかれた状況を冷静に振り返ってみる意味でも、この本は価値のある本だと思う。
2021年12月17日記
『戦中派不戦日記』山田風太郎 ― 2022-01-08
2022年1月8日 當山日出夫(とうやまひでお)

山田風太郎.『新装版 戦中派不戦日記』(講談社文庫).講談社.2002
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000202692
山田風太郎の原点である。
再読である。この「新装版」記載の書誌によると、1985年の旧版の『戦中派不戦日記』(講談社文庫)の「新装版」ということである。文字が大きくなっているのがわかる。以前に読んだことのあるのは、旧版の1985年版の『戦中派不戦日記』だったかと思う。
昨年(二〇二一)、山田風太郎の明治小説をまとめてよみかえした。『警視庁草紙』『幻燈辻馬車』などの一連の作品である。このとき、つづけて再読しておきたいと思ったのが、山田風太郎の『戦中派不戦日記』と『八犬伝』である。この冬休みの間(昨年のおわり)、『戦中派不戦日記』を読むことにした。
最初にこの本をよんだのは、1985年版だとすると、まだ私の若いころのことになる。その時に読んだ印象としては、さめた文語文の硬質な文体、その文章によって描き出される当時の世相と批判、それから旺盛な読書、といったところだろうか。
久しぶりに読みかえしてみて、基本的な印象はかわらない。戦中の記述が、文語文で書かれるのは、この文体でなければ書けないような、緊迫した精神状態であったことなのだろうと思う。
以前、読んだときに特に気にしなかったことがいくつかある。山田風太郎は、医学生として、目黒に住んでいた。昭和二〇年のことである。そのとき、昭和二〇年三月の東京大空襲を経験している。そのとき、目黒は被害にあわなかったのだが……空が明るくなって、目黒でも新聞が読めるほどであったとあった。いったいどれほどすさまじい空襲であったか、想像してみることになる。
また、目黒の空襲のことを描いてある。戦時中の目黒の空襲のときの様子は、向田邦子のエッセイで描写がある。(向田邦子のエッセイも、昨年、まとめて集中的に読みかえしたみた。)
私は、学生のころ、東京では目黒に住んでいたので、出てくる地名にはなじみがある。祐天寺、鳳神社など、歩いていく範囲にあった。その目黒の空襲のときのことが、この『戦中派不戦日記』にも詳しく書かれている。
私が、東京で暮らしていたころの目黒の街は、戦争の後に復興した街であったことになる。(なお、その当時、国電……いまではもうこんないい方しないが……の目黒駅の近くに、戦後の闇市の名残のような一角があったのを覚えている。)
それにしても、山田風太郎は、なんと冷静な目で時代のなりゆきを見つめていることかと、改めて感心する。医学生ということで、徴兵猶予になっていることもあったろう(だが、その将来は、軍医ということになっていた。)ほろびゆく日本、ほろびゆく東京、しかし、それでもしたたかに生きている人びとの姿、時代への批判のまなざし、これらが、硬質な文語文で活写されている。
もちろん、風俗資料として興味深い記述が多くある。戦時中の人びとのくらし、医学生の生活、疎開先での生活、闇市、混み合った列車、なるほどこれらは、その当時の目で見るならばこんなふうであったのかと、認識を新たにするところが多々ある。
そして、このような激動の時代をさめた目で見ることのできた山田風太郎だからこそ、その後の一連の明治小説が書かれることになったのだろう。価値観が大きく変転した時代のまっただなかを生きたことになる。それに翻弄されることになるのだが、しかし、どこか距離をおいて時代の動きを見ているところがある。山風太郎の戦争の体験は、明治小説のなかに投影されているといっていい。
この本は、貴重な記録でもある。読み継がれていってほしい本の一つである。
2022年1月7日記
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000202692
山田風太郎の原点である。
再読である。この「新装版」記載の書誌によると、1985年の旧版の『戦中派不戦日記』(講談社文庫)の「新装版」ということである。文字が大きくなっているのがわかる。以前に読んだことのあるのは、旧版の1985年版の『戦中派不戦日記』だったかと思う。
昨年(二〇二一)、山田風太郎の明治小説をまとめてよみかえした。『警視庁草紙』『幻燈辻馬車』などの一連の作品である。このとき、つづけて再読しておきたいと思ったのが、山田風太郎の『戦中派不戦日記』と『八犬伝』である。この冬休みの間(昨年のおわり)、『戦中派不戦日記』を読むことにした。
最初にこの本をよんだのは、1985年版だとすると、まだ私の若いころのことになる。その時に読んだ印象としては、さめた文語文の硬質な文体、その文章によって描き出される当時の世相と批判、それから旺盛な読書、といったところだろうか。
久しぶりに読みかえしてみて、基本的な印象はかわらない。戦中の記述が、文語文で書かれるのは、この文体でなければ書けないような、緊迫した精神状態であったことなのだろうと思う。
以前、読んだときに特に気にしなかったことがいくつかある。山田風太郎は、医学生として、目黒に住んでいた。昭和二〇年のことである。そのとき、昭和二〇年三月の東京大空襲を経験している。そのとき、目黒は被害にあわなかったのだが……空が明るくなって、目黒でも新聞が読めるほどであったとあった。いったいどれほどすさまじい空襲であったか、想像してみることになる。
また、目黒の空襲のことを描いてある。戦時中の目黒の空襲のときの様子は、向田邦子のエッセイで描写がある。(向田邦子のエッセイも、昨年、まとめて集中的に読みかえしたみた。)
私は、学生のころ、東京では目黒に住んでいたので、出てくる地名にはなじみがある。祐天寺、鳳神社など、歩いていく範囲にあった。その目黒の空襲のときのことが、この『戦中派不戦日記』にも詳しく書かれている。
私が、東京で暮らしていたころの目黒の街は、戦争の後に復興した街であったことになる。(なお、その当時、国電……いまではもうこんないい方しないが……の目黒駅の近くに、戦後の闇市の名残のような一角があったのを覚えている。)
それにしても、山田風太郎は、なんと冷静な目で時代のなりゆきを見つめていることかと、改めて感心する。医学生ということで、徴兵猶予になっていることもあったろう(だが、その将来は、軍医ということになっていた。)ほろびゆく日本、ほろびゆく東京、しかし、それでもしたたかに生きている人びとの姿、時代への批判のまなざし、これらが、硬質な文語文で活写されている。
もちろん、風俗資料として興味深い記述が多くある。戦時中の人びとのくらし、医学生の生活、疎開先での生活、闇市、混み合った列車、なるほどこれらは、その当時の目で見るならばこんなふうであったのかと、認識を新たにするところが多々ある。
そして、このような激動の時代をさめた目で見ることのできた山田風太郎だからこそ、その後の一連の明治小説が書かれることになったのだろう。価値観が大きく変転した時代のまっただなかを生きたことになる。それに翻弄されることになるのだが、しかし、どこか距離をおいて時代の動きを見ているところがある。山風太郎の戦争の体験は、明治小説のなかに投影されているといっていい。
この本は、貴重な記録でもある。読み継がれていってほしい本の一つである。
2022年1月7日記
『カムカムエヴリバディ』あれこれ「第10週」 ― 2022-01-09
2022年1月9日 當山日出夫(とうやまひでお)
『カムカムエヴリバディ』第10週
https://www.nhk.or.jp/comecome/story/details/story_details_10.html
前回は、
やまもも書斎記 2021年12月30日
『カムカムエヴリバディ』あれこれ「第9週」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/12/30/9451845
るいの大阪での生活が本格的にはじまる。見ていて印象に残っていることとしては、次の二点ぐらいだろうか。
第一に、ジョーのこと。
なぞの宇宙人は、ジャズ喫茶でトランペットを吹いているジョーであった。ふとしたことでめぐりあった二人であるのだが、これからこのドラマの展開でどうなるのだろうか。
ジョーは、るいのことばを聞いて、すぐに岡山方言とわかったようだ。あるいは、ジョーは岡山になじみがあるのかもしれない。
第二に、On the Sunny Side of the Street のこと。
この曲は、ジョーにとって特別の曲であるらしい。だが、そのジョーから見て、この曲は、るいにとっては、すごく特別な曲であることになる。
るいは、確かにこの曲を聴いて、岡山での母の安子とのことを思い出すことになる。るいは、その母の思い出から逃れるために、岡山を離れて大阪にやってきた。しかし、ジョーの演奏する曲を聴いて、岡山のことを思い出してしまう。
以上の二点が、見ていて印象にのこったことである。
この週では、大阪の小さなクリーニング屋の日常、ジャズ喫茶、そして、街の人びとの様子、地蔵盆などが丁寧に描かれていたと思う。
次週、「命短し恋せよ乙女」となるらしいのだが、さて、もう弁護士の片桐は登場しないのだろうか。ちょっと気になる。次週も楽しみに見ることにしよう。
2022年1月8日記
『カムカムエヴリバディ』第10週
https://www.nhk.or.jp/comecome/story/details/story_details_10.html
前回は、
やまもも書斎記 2021年12月30日
『カムカムエヴリバディ』あれこれ「第9週」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/12/30/9451845
るいの大阪での生活が本格的にはじまる。見ていて印象に残っていることとしては、次の二点ぐらいだろうか。
第一に、ジョーのこと。
なぞの宇宙人は、ジャズ喫茶でトランペットを吹いているジョーであった。ふとしたことでめぐりあった二人であるのだが、これからこのドラマの展開でどうなるのだろうか。
ジョーは、るいのことばを聞いて、すぐに岡山方言とわかったようだ。あるいは、ジョーは岡山になじみがあるのかもしれない。
第二に、On the Sunny Side of the Street のこと。
この曲は、ジョーにとって特別の曲であるらしい。だが、そのジョーから見て、この曲は、るいにとっては、すごく特別な曲であることになる。
るいは、確かにこの曲を聴いて、岡山での母の安子とのことを思い出すことになる。るいは、その母の思い出から逃れるために、岡山を離れて大阪にやってきた。しかし、ジョーの演奏する曲を聴いて、岡山のことを思い出してしまう。
以上の二点が、見ていて印象にのこったことである。
この週では、大阪の小さなクリーニング屋の日常、ジャズ喫茶、そして、街の人びとの様子、地蔵盆などが丁寧に描かれていたと思う。
次週、「命短し恋せよ乙女」となるらしいのだが、さて、もう弁護士の片桐は登場しないのだろうか。ちょっと気になる。次週も楽しみに見ることにしよう。
2022年1月8日記
追記 2022年1月16日
この続きは、
やまもも書斎記 2022年1月16日
『カムカムエヴリバディ』あれこれ「第10週」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/01/09/9454621
この続きは、
やまもも書斎記 2022年1月16日
『カムカムエヴリバディ』あれこれ「第10週」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/01/09/9454621
『自由と成長の経済学』柿埜真吾 ― 2022-01-10
2022年1月10日 當山日出夫(とうやまひでお)

柿埜真吾.『自由と成長の経済学-「人新世」と「脱成長コミュニズム」の罠-』(PHP新書).PHP研究所.2021
https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-85014-6
『人新世の「資本論」』への反論本である。昨年のうちにつづけて読んだものである。
やまもも書斎記 2021年12月20日
『人新世の「資本論」』斎藤幸平
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/12/20/9449350
やはり出るべくして出た反論本であるというべきか。読んで思うこととしては、次の二点ぐらいである。
第一に、『人新世の「資本論」』批判としては、至極まっとうな本であること。
世評としては、『人新世の「資本論」』は確かに高い。だが、この本の主張するところ、特に近未来への提言としては、荒唐無稽としかいいようがない。この批判としては、十分に首肯できる反論になっている。
第二に、しかし将来に限界はあるだろうということ。
限りなく成長する資本主義によってしか、今日の世界の問題は解決しないのだろうか。だが、ここで考えなければならないのは、地球環境というパイはすでに限界が見えてきていることではないかとも思う。今後の課題は、この限られたパイの分割、再配分のあり方と方法をめぐるものになっていくと思う。
以上の二点のことを考える。
『人新世の「資本論」』をただ荒唐無稽として退けるのではなく、その問題提起……特に地球環境の将来……については、十分に考慮しつつ、世界全体でバランスのとれた成長戦略を考えるべきときなのだろうとは思う。それに日本がどのように貢献できるかが問われている。いや、これは楽観的にすぎるかもしれない。どうすればこれからの国際社会のなかで日本が生き残れるかが、問題であるといった方がいいだろうか。
2022年1月9日記
https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-85014-6
『人新世の「資本論」』への反論本である。昨年のうちにつづけて読んだものである。
やまもも書斎記 2021年12月20日
『人新世の「資本論」』斎藤幸平
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/12/20/9449350
やはり出るべくして出た反論本であるというべきか。読んで思うこととしては、次の二点ぐらいである。
第一に、『人新世の「資本論」』批判としては、至極まっとうな本であること。
世評としては、『人新世の「資本論」』は確かに高い。だが、この本の主張するところ、特に近未来への提言としては、荒唐無稽としかいいようがない。この批判としては、十分に首肯できる反論になっている。
第二に、しかし将来に限界はあるだろうということ。
限りなく成長する資本主義によってしか、今日の世界の問題は解決しないのだろうか。だが、ここで考えなければならないのは、地球環境というパイはすでに限界が見えてきていることではないかとも思う。今後の課題は、この限られたパイの分割、再配分のあり方と方法をめぐるものになっていくと思う。
以上の二点のことを考える。
『人新世の「資本論」』をただ荒唐無稽として退けるのではなく、その問題提起……特に地球環境の将来……については、十分に考慮しつつ、世界全体でバランスのとれた成長戦略を考えるべきときなのだろうとは思う。それに日本がどのように貢献できるかが問われている。いや、これは楽観的にすぎるかもしれない。どうすればこれからの国際社会のなかで日本が生き残れるかが、問題であるといった方がいいだろうか。
2022年1月9日記
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