『細雪 下』谷崎潤一郎/新潮文庫2022-02-07

2022年2月7日 當山日出夫(とうやまひでお)

細雪(下)

谷崎潤一郎.『細雪 下』(新潮文庫).新潮社.1955(2011.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100514/

続きである。
やまもも書斎記 2022年2月5日
『細雪 中』谷崎潤一郎/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/02/05/9461416

『細雪』(上中下)を読み返すのは、何度目かになる。若い時にも読んでいる。また、映画(市川崑監督)も見ている。そのせいか、『細雪』を読んでいると、どうしても、吉永小百合や古手川祐子のイメージが、思い浮かんでしまう。

下巻は、戦後になって書かれた。上巻は、戦時中に発表して、発禁処分。中巻は、戦時中に執筆。戦後になって、こんどは、GHQの検閲があるなかで書かれたことになる。『細雪』は、今から振り返ってみるならば、当局による検閲のもとに執筆された作品である。

だが、下巻まで読み終わって感じることは、それぞれ成立の事情を異にする、上中下の巻であるが、『細雪』全体として、まとまりのある文学世界を構築していることである。やはり、これは、谷崎潤一郎ならではの仕事と言わざるをえない。

また、知られていることとして、谷崎潤一郎は、『細雪』の執筆にさきだって、『源氏物語』の現代語訳を行っている。『細雪』が、現代版の『源氏物語』とも称されるゆえんである。そのように思って読むとであるが、なるほど、『源氏物語』を訳した作家の手になる作品であると感じるところがある。

その第一は、屈折した心中思惟である。主に、幸子のこころのうちを描写することが、この小説は多いのであるが、その心中思惟の描写、ああでもこうでもない、ああしてみようかそれともこうしてみようか、いや、やはり別に考えてみると……と、いったりきたりしながら、綿々と考えていく心のうちを描写してある。これは、まさに、『源氏物語』を読んで感じるものに、通じるところがある。

その第二は、女中(お春)や婆やのことばなどである。基本的にこの小説は、幸子の視点から描かれる。第三人称視点をとらない。幸子の視点を超えたところの描写が、お春や婆やの台詞となって、延々と語られる。このあたり、『源氏物語』でいえば、「宇治十帖」に登場する弁のことを、思い出してしまう。

このようなことを思ってみる。

『細雪』が、基本的に幸子の視点から描かれるとはいっても、下巻まで読んでいくと、ところどころで、幸子を離れて第三人称視点に変わっているところがある。時々、雪子の描写になる。最後の下痢の部分は、幸子の視点をはなれて、雪子の描写になっている。

ところで、『細雪』は、ハッピーエンドの物語なのであろうか。そうとは思えない。この小説は、昭和一六年のはじめで終わっている。その後におこったことは、太平洋戦争とその敗北であり、GHQによる日本統治である。

東京にある渋谷の鶴子の家は、空襲で焼かれることになるだろう。幸子は、どうなるかわからない。おそらくは空襲の被害にあうかと思われる。雪子は、結婚はかなうかもしれないが、無事に幸せに生活できるということはないであろう。戦後の改革で華族という制度がなくなる。妙子も、その男性遍歴の結果がどうなるかわからない。

どう考えてみても、『細雪』はハッピーエンドの小説ではない。『細雪』に描かれた、阪神間の裕福な中流家庭の生活文化というものは、戦争で喪失するほかはない。この小説は、やはり喪失と哀惜の物語として読むことになるのだろうと思う。読み終わった充足感の後にくるものは、この小説で描かれた世界は、無くなってしまったものでしかない、という感慨でもある。

だが、その喪失感こそが、この作品を普遍的な文学作品たらしめている本質につながるものであることも確かなことだと思う。

2022年1月27日記