『伊豆の踊子』川端康成/新潮文庫2022-02-21

2022年2月21日 當山日出夫(とうやまひでお)

伊豆の踊子

川端康成.『伊豆の踊子』(新潮文庫).新潮社.1950(2003.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100102/

新潮文庫版の『伊豆の踊子』は、次の作品が収録してある。

伊豆の踊子
温泉宿
叙情歌
禽獣

「伊豆の踊子」は、これまで何度か読んだことがある。最初に読んだのは、高校生ぐらいのころだったろうか。読むたびごとに、いろいろと思うところのある作品である。

今回、読みかえしてみて感じることは、世の中の不条理とでもいうものである。

高校生(旧制)の「私」は、伊豆の旅先で、旅芸人の一行に出会う。そこには、少女がいた。踊子である。この少女との、数日の間のはかない交流を描いた作品である。一般には、ほのかな恋心、純情な気持ちの小説として読まれるのだろう。

「私」と「踊子」とは、港で分かれた後、再び会うことはないだろう。「私」が、島に旅行して「踊子」のもとに行くことはないにちがいない。永遠の別れである。

「私」と「踊子」とでは、身分が違う。この当時、大正の末期……この小説は大正一五年の作である……東京の一高の学生である「私」と、旅芸人の人々とでは、社会的な立場が決定的にことなる。身分といってもいいし、階級ともいえるだろう。現代のことばでは、社会的階層とでもいうべきだろうか。

所詮、結ばれるはずのない二人である。その交流のなかで印象的なのは「いい人」ということばである。どうしても別々に生きて行かざるをえない関係にあるからこそ、「いい人」ということばは、重みがある。

このような、身分、階級、階層の違いというものは、今の概念からすれば、社会の不条理である。その前にたちすくんで、どうすることもできない。しかし、時として、幸か不幸か、交わること、交流することがある。そのとき、人間は、ごく素直になるものなのかもしれない。「私」が、最後の船のなかでながした涙は、社会の不条理のすきまから漏れ出た、人間の心情に感動しているのである。

「私」の善意、「踊子」の純情さ、このようなものは、確かに貴重であるが、しかし、それでは社会の不条理をどうすることもできない。たまたま、「旅」という非日常の時空においてのみ、「私」はいい人たりうるというべきだろう。

このようなことを思ってみる。が、やはりこの作品にただよう叙情性は確かなものがある。それが「旅」という非日常の場面における虚構にすぎないと分かっていても、いや、それだからこそというべきか、「私」と「踊子」のあわい関係が、印象深いものとして残る。

2022年2月6日記

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
このブログの名称の平仮名4文字を記入してください。

コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/02/21/9466074/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。