アナザーストーリーズ「三島由紀夫 最後の叫び」2022-04-11

2022年4月11日 當山日出夫(とうやまひでお)

金曜日の夜の放送。録画しておいて、翌日の朝にゆっくりと見た。

三島由紀夫を読み始めている。若いころに、主な作品は読んだ作家である。その自決のとき、私は中学生だった。ニュースを憶えている。が、文学作品として三島由紀夫を読むのは、大学生になってからであった。そのころ手にはいる文庫版の作品のいくつかを読んだ。

今年になって、谷崎潤一郎、川端康成と読んできた。新潮文庫版で読むことを基本としている。次は、三島由紀夫を読もうと思っている。「花ざかりの森」などから、読み始めているところである。

はっきりいって、三島由紀夫という作家については、よく分からないというのが正直なところでもある。文学、芸術として、非常に優れた作品を残した作家であったことは確かだろう。だが、その最期の事件を知っていると、どうも、その残した作品とちくはぐな印象が残ってしまう。市ヶ谷に向かう前の作品として、「豊饒の海」がある。これは、これまでに二度ほど読んでいるのだが、小説としては、途中で破綻していると思わざるをえないところがある。「豊饒の海」は謎である。

テレビを見て、久々に三島由紀夫の声を聞いた。テレビを見ていても、確かに三島由紀夫にとって、市ヶ谷の事件は自分の人生をかけたものであったことは分かるのだが、今一つ理解できないところもある。

三島由紀夫という作家は、非常に緻密な思考のできる人間だと思っている。どのエッセイであったか、刑事訴訟法の魅力について語ったものがある。このような思考のできる人間が、その最期にあのような事件となることが、考えれば考えるほど理解できないのである。

だが、三島由紀夫は行動を選んだということなのかもしれない。

これから順番に三島由紀夫の作品を読んでいきたいと思う。

2022年4月9日記

『鎌倉殿の13人』あれこれ「都の義仲」2022-04-12

2022年4月12日 當山日出夫(とうやまひでお)

『鎌倉殿の13人』第14回「都の義仲」
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/story/14.html

前回は、
やまもも書斎記 20220年4月5日
『鎌倉殿の13人』あれこれ「幼なじみの絆」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/04/05/9478842

この回で描いていたのは、いくつもの対立。

朝廷と武家。

歴史学用語で言うならば、王権と軍事権門ということになるのだろうか。後白河院と、平家、源氏は、かたや対立しながらも、それぞれの存在意義を求めて、歴史のなかで生きていくことになる。

源氏と平家。

このドラマでは、一方的に平家は悪である。ちょっとこのあたりは単純化しすぎなような気もしないではないが、武士においては、今は源氏と平家の対立の抗争の時代である。

頼朝と義仲。

源氏の中にあっても、一つということではない。頼朝と義仲は、対立することになる。この回では、義仲追討のために義経が出発するところまでを描いていた。

源氏の御家人たち。

鎌倉殿(=頼朝)のもとにいる御家人は、すべて頼朝の命にしたがって忠誠をつくすものばかりではない。頼朝に従わない御家人の反乱の動きがある。

以上のような、各種の対立抗争をはらんで、一つの時代を、群像劇として描いているのがこのドラマかもしれない。

ところで、このドラマにおいては、策士というべき人物が出てくる。後白河法皇、頼朝、また、北条義時も、またこの時代における策士であるのだろう。(結果として、義時の北条氏が時代を生きのびることにはなる。)

ところで、この回は、木曽義仲を描いた回でもあった。義仲のふるまいは、『平家物語』に出てくる。田舎者の典型とでもいうべきであろうか。このドラマでは、確かに地方の田舎者にはちがいないが、武勇にたけた武人としての側面を強く描いていた。これはこれとして、一つの義仲の描き方なのだと思う。

時代の大きな変わり目にあって、源氏の人びと、鎌倉の御家人たち、それから、義時はどのように生きていくことになるのであろうか。続きを楽しみに見ることにしよう。

2022年4月11日記

追記 2022年4月19日
この続きは、
やまもも書斎記 2022年4月19日
『鎌倉殿の13人』あれこれ「足固めの儀式」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/04/19/9483058

山茱萸2022-04-13

2022年4月13日 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので写真の日。今日は山茱萸である。

前回は、
やまもも書斎記 2022年4月6日
沈丁花
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/04/06/9479121

この木の花は、春先に咲く。冬のまだ寒い時期に、つぼみが割れて中から黄色い花が見える。それが、あたたかくなると、外に飛び出すようにして開く。黄色い花が、一杯になる。

毎年、冬のときから観察している。この花が開くころには暖かくなるだろうかと思って見ている。

掲載の写真は、先月のうちに撮っておいたものからである。写真に撮ろうと思うと、ちょっと難しい。あちらこちらに花が伸びているので、どこにピントを合わせて撮っていいか迷う。

外に出てみると、地面には菫の花が咲いている。蒲公英の黄色い花もある。藤の花がそろそろ咲きそうになってきた。

山茱萸

山茱萸

山茱萸

山茱萸

山茱萸

山茱萸

Nikon D500
TAMRON SP 90mm F/2.8 Di MACRO 1:1 VC USD

2022年4月12日記

追記 2022年4月20日
この続きは、
やまもも書斎記 2022年4月20日
藪椿
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/04/20/9483360

映像の世紀バタフライエフェクト「アインシュタイン 科学者たちの罪と勇気」2022-04-14

2022年4月14日 當山日出夫(とうやまひでお)

映像の世紀バタフライエフェクト「アインシュタイン 科学者たちの罪と勇気」

この番組でとりあげられていたテーマとしては、二つ。アインシュタインからはじまる。一つは、原子力のこと。もう一つは、金融のこと。

これまで、「映像の世紀」シリーズは、核開発については何度も取り上げられてきたと憶えている。答えは簡単ではない。原子爆弾の開発は、正しかったことなのか。アインシュタインは、晩年にこれに否定的であった。だが、世界の趨勢として、原爆などの大量破壊兵器の存在を抜きに、もはや平和を語れないことは確かだろう。

ただ、この番組で触れていなかったことは、原子力発電などのことがある。これは、時間の関係もあって、あえて触れることはしなかったのかもしれない。

そして、もう一つ、金融商品の理論的開発と、コンピュータの利用である。金融市場の破綻ということを、これまで人類は繰り返してきている。にもかかわらず、リスクを避ける金融取引の可能性を考える動きは止まらない。(これは、これまでの「映像の世紀」シリーズでは登場して来なかったテーマである。)

これは、核開発に歯止めをかけることができないのと同様に、金融市場へのAIの利用という流れも止めることは不可能なのかもしれない。しかし、その先に人類の幸福があるかどうかは、分からないとすべきだろう。

平凡な感想になってしまうのだが……科学者の社会的責任ということに、つきるのだろう。この場合の科学者というなかには、狭義の自然科学、いわゆる科学技術の分野にとどまらず、広く人文学、社会科学をふくめて、人間の知的営み、その本質にかかわる問題だともいえる。

ところで、日本の古典文学の分野で、近年話題になっている、「古典は本当に必要なのか」という議論。これも、広い意味では、人間の知的営みについてどうあるべきなのか、あるいは、人間とは何であるのかの認識と関係した議論であると、私は思う。歴史や文化についての問いかけもまた、これからの人間社会がどうあるべきかということの鏡像であるにちがいない。人文学にかかわるからといって、その社会的責任からのがれることはできないと思っておく必要があるかと思った次第である。

2022年4月12日記

『ベルリンは晴れているか』深緑野分/ちくま文庫2022-04-15

2022年4月15日 當山日出夫(とうやまひでお)

ベルリンは晴れているか

深緑野分.『ベルリンは晴れているか』(ちくま文庫).筑摩書房.2022 (筑摩書房.2018)
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480437983/

この文庫本には、特設のHPもある。
https://www.chikumashobo.co.jp/special/berlin/

知ってはいたが、なんとなく読みそびれていて、文庫本が出たので読んでみることにした。世評の高い作品であるとは思っていた。読んで思うこととしては、傑作といっていいだろう。

舞台設定は、一九四五年のベルリン。ヒトラーのドイツが敗れて、連合軍、それから、ソ連軍に占領されているとき。ドイツ人少女のアウグステの数奇な冒険物語、という感じで展開する。ミステリの分野にはいる作品であり、また第二次大戦終結後のベルリンを舞台にした小説でもある。

第二次大戦で敗れることになったナチス・ドイツ。その陥落のシーンは、「映像の世紀」などで目にしている。しかし、そこにいたるまでの戦闘がどのようなものであったか、さらには、敗戦後のドイツで人びとがどのように暮らしていたのか、このあたりのことになると、ほとんど知識がない。せいぜい『独ソ戦』を読んだぐらいである。

この作品の良さは、まさに、戦後まもなくのベルリンという舞台設定にある。まだ、東西冷戦の前、ベルリンの壁のできる前。敗戦後の混乱の時代である。そこには、まだ、戦争の余韻が強く残っている。そして、それは、ヒトラーのドイツになるまえの時代から続くものとしての歴史の結果でもある。

この小説の魅力は、戦前からのドイツの人びとの暮らし、それから、敗戦の混乱のなかで、それでもたくましく生きていく人びと、これを巧みに描ききったところにある。なぜ、ヒトラーのドイツになったのか、ここはいろんな視点から論じることができるだろう。それを、この小説では、市井の市民の目から描いている。

それから、ミステリ、あるいは、冒険小説としての面白さ。一つの事件……殺人事件のようである……がおこる。その謎をめぐって、アウグステは、冒険をこころみる。いや、巻きこまれていく。そこに絡んでくるのは、ソ連軍である。(えてして、第二次大戦は、勝った側としては米英の視点から見ることが多いと思うのだが、この作品に登場するのはソ連軍である。このあたりが、この作品をより面白く、興味深いものにしている。)

ミステリとして読んだとき、ちょっと物足りないかなという気がしないではない。しかし、戦後まもなくのベルリンを舞台にした、ドイツ人少女の冒険物語として読むと、まさに類例を見ない、完成度の高さを感じる。

余計なことを考えてみるならば、敗戦後のベルリンを舞台にした小説が書けるということ、このこと自体が、一つの時代の変化を感じるところがある。ベルリンの壁が崩壊してからおよそ三〇年。確かに時代の流れがある。

さらに余計なこととしては、この作品には、日本人が登場しない。一九四五年のベルリンなら日本人がいてもおかしくはない。しかし、日本人が登場しないことに、なんら違和感がない。このような作品が書かれるようになったということ、このこと自体が、新しい時代になったということを感じさせる。

2022年4月14日記

『ウィタ・セクスアリス』森鷗外/岩波文庫2022-04-16

2022年4月16日 當山日出夫(とうやまひでお)

ウィタ・セクスアリス

森鷗外.『ウィタ・セクスアリス』(岩波文庫).岩波書店.2022
https://www.iwanami.co.jp/book/b600969.html

作品名は、現代仮名遣いに改めずにもとのままでよかったのではないだろうか。この作品、新潮文庫でも出ているが、これは、『ヰタ・セクスアリス』となっている。

今年は、鷗外の没後一〇〇年ということを知った。岩波文庫ではいくつかの作品を刊行するようだし、岩波新書でも一冊出るはずである。

そういえば、数年前、漱石の生誕一五〇年、没後一〇〇年のときには、「全集」が新しく刊行になったのだが、鷗外の場合、そこまでのことはないらしい。まあ、今から新しく「全集」が出ても、買おうかどうしようか迷うところではある。以前、若いときに買った「全集」もまだ持っている。しまいこんだままである。これも、取り出してきて読んでおきたい本である。

『ヰタ・セクスアリス』(やはり、こう書かないと落ち着かない)を読んで思うことは、次の二点であろうか。

第一に、その文章の端正さ。性にかんする記述が多い作品なのであるが、それを述べる文章は、まことに格調高い。端正な文章である。鷗外の文章として、非常に優れたものだとして読める。

第二に、風俗史的興味。この作品、おそらくは鷗外の自伝的要素をたぶんに含んだものであろうことは感じとれる。そして、読んでいくと、鷗外の生まれ育った時代、環境における、様々な風俗的、歴史的な興味がある。子供のころ、このような生活をしていたのか、若いころこんな勉強をしていたのか、その当時の人びとは、こんな暮らしをしていたのか……無論、このような興味で読むことは、この作品の本筋から外れた理解であることは分かる。しかし、鷗外も没後一〇〇年になり、歴史的に明らかに過去の人間になっている。その残した文章が、その時代を反映したものとして読まれるいことがあっても、それは一つの読み方であるにちがいない。

以上の二点のことを思ってみる。

読んで、文学的感銘を受けるという作品ではない(私の場合はであるが)。しかし、手にして非常に興味深い。何よりも、鷗外によってこのような作品が書かれていたこと、そして、この作品が発禁処分になったこと。そのような時代背景、歴史的背景を考えて読むと、やはり時代の流れというものを感じる。そして、鷗外がこのような作品を書いていたこと、このこと自体、日本の近代文学史において、特筆すべきことであると感じる。

2022年4月15日記

『ちむどんどん』あれこれ「シークワーサーの少女」2022-04-17

2022年4月16日 當山日出夫(とうやまひでお)

『ちむどんどん』第1週「シークワーサーの少女」
https://www.nhk.or.jp/chimudondon/story/week_01.html

新しい朝ドラの『ちむどんどん』を見ている。もうこれは習慣のようなものである。第一週は、BSで特別に朝の六時半から放送があったので、朝一番に見た。ただ、BSでは、土曜日のまとめ放送が無くなってしまうのが、残念である。

沖縄が舞台のドラマである。今年は、沖縄返還五〇年である。そのこともあって企画されたものかとも思う。沖縄が舞台というと、どうしても『ちゅらさん』を思ってしまう。『ちゅらさん』は、全部見たかと記憶している。岡田惠和の脚本であった。憶えていることとしては、沖縄を舞台としたドラマであったが、政治性をまったく感じさせないつくりになっていたことである。これは、ある意味できわめて政治的な作為でもある。あえて非政治的であることを意図することは、見方によってはすぐれて政治的な性格をおびる。ただ、『ちゅらさん』は、沖縄を特にそれと意識することなく描いていた。

しかしながら……第一週を見たところでは、このドラマが比較されるとすると、『ちゅらさん』よりも、『ごちそうさん』かもしれない。食べることが重要な意味を持ってくるドラマのようだ。

第一週を見て印象に残るのは、やはり沖縄の人びとの純朴な暮らしと、アメリカ統治下での生活であろうか。また、何よりも自然描写がきれいである。

さて、暢子の家族は、どのような過去があるのだろうか。借金を抱えて生活はそう楽ではないようだ。気になるのは、朝ドラでは、たいてい登場する家族のなかでの祖母あるいは祖父が登場していないことである。

また、見ていて興味深かったのは、昭和三九年のことでありながら、東京オリンピックのことに全く触れないことである。このとき、聖火は沖縄も走っている。だが、東京オリンピックにまったく触れることがないというのも、このドラマの作り方なのであろうと思う。

ドラマは、暢子の父親が倒れたところで終わっていた。次週以降、成長した暢子の登場ということになるようだ。沖縄を舞台にしてどのようなドラマが展開することになるのか、楽しみに見ることにしよう。

2022年4月16日記

追記 2022年4月24日
この続きは、
やまもも書斎記 2022年4月24日
『ちむどんどん』あれこれ「別れの沖縄そば」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/04/24/9484411

「雪国 -SNOW COUNTRY-」2022-04-18

2022年4月18日 當山日出夫(とうやまひでお)

このドラマも、川端康成没後五〇年ということなのかなとも思うが、NHKが力をいれて作ったドラマのようなので、録画しておいて翌日の朝にゆっくりと見た。

このような作りの「雪国」もあるのかな、というのがまずは思ったところである。

思うこととしては、次の三点ぐらいがある。

第一には、原作『雪国』をかなり忠実に映像化して見せたところ。

『雪国』は、これまでに何度か読みかえしたことのある作品である。今年になってからも読んでいる。

やまもも書斎記 2022年2月14日
『雪国』川端康成/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/02/14/9464074

特に原作とのかかわりで印象深いシーンが、冒頭近くにある、雪国の宿を再訪した島村と駒子が出会うところ。この場面は、このように映像化できるのか、と感心して見ていた。また、夜に酔って島村の部屋を訪れるシーンなど、興味深かった。

『雪国』のドラマ化としては、たくみに作ってあると感じさせるところがいくつかあった。

第二には、原作『雪国』には無い部分。ドラマで追加したところ。

特に、後半の、繭倉での火災の後の、駒子の視点からの部分。ここは、このドラマ、脚本のオリジナルである。普通の「雪国」なら、火災のシーンで終わるところである。それが、そこから、駒子に視点が切り替わって、これまでのところを、駒子の目から回想していく。これは、斬新な作り方であり、『雪国』とは、このような解釈で見ることもできるのかと、思ったところでもある。

えてして、『雪国』は、男性である島村の視点から読むことになる。それを、女性である駒子の視点から見ると、どのような物語になるのか、このところは実に興味深い。

第三には、原作『雪国』にあって、ドラマでは割愛されていたところ。

原作では、夏にも、島村はやってきている。その新緑のシーンが、小説では非常に印象的に描かれているのだが、このドラマでは、そのような場面が無かった。これは、冬にロケをして、雪の場面を取り込んでということになるので、夏の場面は撮れなかったということなのだろうと思う。

夏の場面だったかと思うが……宿の畳の上で死んでいる虫の死骸をみて、生命ということに島村が思いをめぐらすところは、『雪国』という小説のなかでも、非常に強く印象に残る場面なのだが、これはなかった。それから、せっかくの雪の季節なのに、縮を雪に晒すところもなかった。

だいたい、以上の三点のことを思ってみる。

このドラマでも、「徒労」ということばが使われていた。『雪国』という小説のなかで、何度か登場してくることばである。まさに「徒労」であるからこそ、駒子という女性は魅力的であるというべきなのかもしれない。

これまで、『雪国』は何度かドラマ化されてきている。そのいくつかを見たかと憶えているのだが、今回のドラマは、特に印象に残るといっていいだろう。島村、駒子、葉子などについて、新たな人物像を示している。これは、新しい時代の「雪国」になっていると思う。

2022年4月17日記

『鎌倉殿の13人』あれこれ「足固めの儀式」2022-04-19

2022年4月19日 當山日出夫(とうやまひでお)

『鎌倉殿の13人』第15回「足固めの儀式」
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/story/15.html

前回は、
やまもも書斎記 2022年4月12日
『鎌倉殿の13人』あれこれ「都の義仲」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/04/12/9480918

この回で描いていたのは、権力というものだろう。

鎌倉殿に対して、御家人たちは謀反をたくらむ。しかし、それを頼朝はおさめてみせる。このあたりまでは、権謀術数のストーリーである。この回の面白さは、最後のところで、上総介を成敗するところにあるのだろう。

権力を権力たらしめるものは、いったい何だろうか。いろんな考え方があるにちがいない。忠誠心かもしれない、あるいは、恐怖かもしれない。または、主従の一体感であるのかもしれない。様々な思いがうずまく中心に、権力はある。頼朝は、鎌倉殿として権力者である。その頼朝に、結果として、御家人たちは、畏敬の念をいだくことになり、忠誠心をもち、同時に、自分の所領のために戦うことになる。

しかし、かわいそうなのは上総介である。何も悪いことはしていない。いや、頼朝に対して最も忠義のこころを持っていた一人ともいえよう。しかし、これも、鎌倉政権の権力の確立のためには、犠牲にならざるをえない。

そして、この回の脚本で巧みだと感じたのは、最後のところ。義時の子ども、後の北条泰時が生まれるところである。鎌倉幕府は、源氏は三代で終わる。頼朝が、鎌倉殿として掌握したはずの権力は、次には続かないことになる。これは、歴史の結果である。一方、北条氏の方は、義時から、その子の泰時を経て、鎌倉時代を通じて、執権として権力を持ち続けることになる。結果としては、権力を持ち続けることになるのは、北条氏の義時の方ということになる。

また、この回で描いていたのは、板東武者のエートスということでもあったかと思う。板東武者をしたがえる権力の頂点に立つことになる頼朝、さらには、実質的にその権力を継承することになるであろう義時、この権力ゆくすえはどうなるだろうか。このドラマは、これから先、源氏の断絶から、承久の乱までを描くことになるかと思う。時代の流れのなかで、義時は、どのような権力者になっていくのだろうか。続きを楽しみに見ることにしよう。

2022年4月18日記

追記 2022年4月26日
この続きは、
やまもも書斎記 2022年4月26日
『鎌倉殿の13人』あれこれ「伝説の幕開け」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/04/26/9484980

藪椿2022-04-20

2022年4月20日 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので写真の日。今日は藪椿である。

前回は、
やまもも書斎記 2022年4月13日
山茱萸
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/04/13/9481255

家のうちに咲く藪椿を写したものである。毎年、花の咲くころになると気をつけているのだが、なかなかその咲き始めを目にすることがない。地面に落ちた赤い花を見つけて、上を見上げて花の咲いていることを知ることになる。

先月のうちに写したものである。春めいてきて、まだ寒さが残っているかというころに咲く。木の高いところに咲くので、どうしても望遠レンズで撮ることになる。

今、ちょうど藤の花が咲きはじめたところである。シャガの花も咲いている。桜が終わって、次の花の季節になろうとしている。

藪椿

藪椿

藪椿

藪椿

藪椿

藪椿

Nikon D500
TAMRON SP 150-600mm F/5-6.3 Di VC USD G2

2022年4月19日記

追記 2022年4月27日
この続きは、
やまもも書斎記 2022年4月27日
木瓜
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/04/27/9485293