『ちむどんどん』あれこれ「悩めるサーターアンダギー」2022-05-01

2022年5月1日 當山日出夫(とうやまひでお)

『ちむどんどん』第3週「悩めるサーターアンダギー」
https://www.nhk.or.jp/chimudondon/story/week_03.html

前回は、
やまもも書斎記 2022年4月24日
『ちむどんどん』あれこれ「別れの沖縄そば」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/04/24/9484411

この週で、暢子は自立することを決意する。といって、具体的に何をどうするということまで考えていないようであるが。

女だから、女のくせに……というせりふは、今となっては過去のものである(はずである)。このドラマの時代、実際に沖縄の地方ではどうだったのだろうとは、少し思うところがある。しかし、本土復帰を前にして、暢子は、女性であることから自立しようとする。

考えてみれば、私は、暢子とほぼ同じ世代の人間ということになる。沖縄返還は、私が高校生のときのことだった。そのころ、書店では、『第二の性』を手にしたこともある。買って読むということはなかった。が、その書名、またその著者であるボーボワールのことは、大学生になってから、何度となく目にしたものである。(今では、どう読まれているだろうかと思うのだが。)

気になっていたことが二つある。

第一には、豚のアベベである。この週では登場しなかった。もう食べられてしまって、この世にいないということなのだろうか。あれから何度もお正月があったはずだから、お正月の御馳走になったということかとも思う。あるいは、暢子の家の借金のために売られたのかもしれない。

第二には、比嘉の家の借金。家を建てたりして、かなりの借金があったはずだが、これはどう解決したのだろうか。母の優子の働きだけで、無事に切り抜けることができたのだろうか。

が、ともあれ、比嘉の家族はそれぞれに生きていくことになりそうである。今のところ、このドラマは、家族の物語として進行している。

次週も料理をめぐってドラマは展開するようだ。楽しみに見ることにしよう。

2022年4月30日記

追記 2022年5月8日
この続きは、
やまもも書斎記 2022年5月8日
『ちむどんどん』あれこれ「青春ナポリタン」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/05/08/9488621

『大塩平八郎 他三編』森鷗外/岩波文庫2022-05-02

2022年5月2日 當山日出夫(とうやまひでお)

大城平八郎

森鷗外.『大塩平八郎 他三編』(岩波文庫).岩波書店.2022
https://www.iwanami.co.jp/book/b603065.html

今年は、森鷗外の没後一〇〇年である。岩波文庫では、新刊がいくつか出る。『ウィタ・セクスアリス』については、すでに書いた。

やまもも書斎記 2022年4月16日
『ウィタ・セクスアリス』森鷗外/岩波文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/04/16/9482074

鷗外の歴史小説はちょっと敷居が高い印象があるのだが、しかし、読んでみると非常に面白い。その面白さは、基本的に次の相反する二点のことにあると思う。

第一に、その冷静で端正な文章である。

鷗外の文章は、みなそうだといっていいのだろうが、きわめて折り目正しい、きちんとした、無駄のない簡潔な文章である。装飾過多という印象ではない。その端正な文章で、淡々と昔あった歴史的なことを語る。その語り口の冷静さが、一つの魅力である。

第二、一方でその小説がドラマチックであること。

文章は端正なのだが、しかし、そこで語られる内容は、きわめてドラマチックである。あるいは、壮絶なドラマであるといってもいいだろうか。それは、時として非常に残酷で凄惨であったりもする。

この相反するともいえる、二つの要素が渾然となったのが、鷗外の歴史小説なのである、と今の私は思っている。

鷗外の歴史小説については、歴史そのままなのか、歴史ばなれなのか……このことがよく言われる。これはこれとして非常に興味深い議論だとは思うのだが、ただ、一人の読者として、現代において読むならば、要するに、鷗外の歴史小説は面白いのである。確かに、部分的に、史実にこだわってやや難解な、あるいは、煩瑣とも感じるところがある。しかし、その細かな歴史的記述の背景にあるのは、ダイナミックな人間のドラマである。その人間のドラマに、ひかれるところがある。

2022年5月1日記

『鎌倉殿の13人』あれこれ「助命と宿命」2022-05-03

2022年5月3日 當山日出夫(とうやまひでお)

『鎌倉殿の13人』第17回「助命と宿命」
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/story/17.html

前回は、
やまもも書斎記 2022年4月26日
『鎌倉殿の13人』あれこれ「伝説の幕開け」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/04/26/9484980

義時も、権力の側の人間になった。

この回で印象にのこることとしては、次の二点。

第一に、歴史。

冒頭のところで、義経が、一ノ谷の合戦の鵯越のことに関連して、あれは事実とは異なるが、そう言われるならそのようにしておけばよい、歴史はそうやって作られていくのである……このような意味のことを言っていた。さりげない部分であるが、このドラマにとっては重要なことかと思う。

言うまでもなく、『鎌倉殿の13人』は、フィクションである。が、ある程度の史実をふまえた歴史ドラマである。その虚実皮膜の間に、ドラマとしての面白さがある。が、一方で、このようなドラマで描くことによって、多くの人びとの歴史への意識が作られていくということもあるにちがいない。このことに、このドラマは、非常に意図的であるともいえようか。あるいは、三谷幸喜の脚本が、歴史ドラマとは何であるか、意識しているところと言ってもいいだろうか。

第二に、権力。

この回においては、義高は殺されることになる。そこにあったのは、権力というものである。鎌倉殿、頼朝が、権力のトップにあり、敵対するものを排除していくダイナミズムが描かれていたといっていいのではないだろうか。このような権力のあり方を描く歴史ドラマを好まないということもあるだろう。だが、このドラマは、前述のように、歴史をどう描くかということに意識的である。ただ、ドラマの時代背景として歴史があるのではない。歴史はどうであったかを、ドラマで表現しようとしている、そう思っていいのかもしれない。

そして、歴史の流れとしては、この後、鎌倉殿である頼朝は死に、二代目の頼家、三代目の実朝と、非業の最期を迎えることになる。権力は、北条氏に移り、義時がそれを握ることになる……だろうと思う。源氏の棟梁として君臨し、御家人を支配する権力とは、その内部においてどのようであったのか、このドラマは描くことになるのだろう。

以上の二点が、この回を見て思ったことなどである。

それから、どうでもいいことかもしれないのだが、どうも京の後白河院の部分で、セットがショボい。あるいはこれは、鎌倉の頼朝や北条の館を作るのに予算を使ってしまって、後白河院の方に回ってこなかったとも思える。たぶん、実際の京の院は、もっと豪勢なものだったろうと想像してみる。

次回は、壇ノ浦の合戦になるようだ。どのような義経の活躍を描くことになるのか、楽しみに見ることにしよう。

2022年5月2日記

追記 2022年5月10日
この続きは、
やまもも書斎記 2022年5月10日
『鎌倉殿の13人』あれこれ「壇ノ浦で舞った男」

オオイヌノフグリ2022-05-04

2022年5月4日 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日は写真の日。今日はオオイヌノフグリである。

前回は、
やまもも書斎記 2022年4月27日
木瓜
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/04/27/9485293

身近にある草花のなかで、一番季節を感じる花かもしれない。冬が終わって、春になろうかというころ、地面を見ると青い小さい花が見える。オオイヌノフグリの青い花が、点々と地面に見えるようになると、もっとも春を感じるといってよい。

これは、先月の撮りおきのストックからである。もう我が家の藤の花も終わってしまっている。シャガの花も終わりである。庭の池のほとりを見ると、紫蘭の花が咲きかけている。世の中は連休であるようだが、今年度は仕事を整理して家にいることになったので、特にどうということもない。毎日、同じように外に出て花の咲くのを写真に撮っている。

オオイヌノフグリ

オオイヌノフグリ

オオイヌノフグリ

オオイヌノフグリ

オオイヌノフグリ

オオイヌノフグリ

Nikon D500
SIGMA APO MACRO 150mm F2.8 EX DG OS HSM

2022年5月3日記

追記 2022年5月11日
この続きは、
やまもも書斎記 2022年5月11日
雪柳
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/05/11/9489497

『午後の曳航』三島由紀夫/新潮文庫2022-05-05

2022年5月5日 當山日出夫(とうやまひでお)

午後の曳航

三島由紀夫.『午後の曳航』(新潮文庫).新潮社.1968(2000.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/105046/

若いときに読んだ作品である。そのころ、たしか、これは映画になった。日本映画ではない。フランスの映画だったかと思うが、今となっては定かではない。

読んだときの印象として憶えていることは、この作品の最後の一言が余計だと感じたものである。もし、私が小説家だったならば、最後の一言は書かない。あるいは、別のことばで終わりにしたい気がする。(さて、映画では、この最後はどのようなシーンで終わっているのだろうか。)

このような感覚……読み終わって最後の一言が余計であると感じるところは、他の三島作品についてもある。『金閣寺』のラストは、私にはどうも好みにあわない終わり方になっている。さらに書けば、「豊饒の海」の『天人五衰』の終わり方も、今一つ納得いかないところがある。

このように思ってはみるのだが、しかし、歳をとってから改めて三島由紀夫の作品を再読していってみると、なるほど、このような小説の終わり方であってもいいのかという気にもなってくる。

『午後の曳航』であるが、小説の作り方としては、多重構造になっている。未亡人のまだ若い母親と船員との関係。そして、男の子供。基本的にこの三人の創り出すドラマ。

もう一つは、少年たち。ごく普通の少年なのだが、ちょっと変わっている。端的にいえば、まさに小説のなかに造形された「少年」なのである。大人の世界との亀裂。少年にとって、「少年」たちの世界は完璧でなければならない。それを壊すものは、排除されることになる。(これは、まさに「金閣寺」が焼かれなければならなかったことに通じるものなのだろう。)

この意味では、一つの観念……完璧であるべき世界をめぐる意識と行動、その結末としての破局、このように読むこともできるだろうか。

それはともかく、この小説を映画にしたくなる理由は、読んで分かるような気がする。

2022年5月1日記

「ふたりのウルトラマン」2022-05-06

2022年5月6日 當山日出夫(とうやまひでお)

NHK ふたりのウルトラマン
https://www.nhk.jp/p/ts/PN3P16XW6Y/

私は、一九五五年(昭和三〇)の生まれであるので、ちょうど放送のときテレビで見ていた世代になる。(ただ、その当時は白黒のテレビだったが。)

ウルトラQ、ウルトラマン、ウルトラセブン……これらは、ほとんど見てただろう。

だが、それをどう解釈するか、どのような意味があるかということは、小さいときには、考えもしなかった。それを考えてみるようになったのは、学生をすぎてからのことになる。

たしか、佐藤健志の本を読んでだったと憶えている。このあたり記憶で書いているので、どう不確かなのであるが。このように解釈していたかと思う。怪獣=ソ連、科学特捜隊=自衛隊、ウルトラマン=米軍……このような図式であった。東西冷戦の時代である。もし、共産党軍が日本に攻めてくるようなことがあったとして、自衛隊では防ぎきれない、それを助けてくれるのが、アメリカの軍隊である。

さて、このような解釈が正しいかどうか、今となっては、ちょっと割り切りすぎているような気もする。しかし、まったく的外れではないようにも思える。

とはいえ、ウルトラマンがある時代に生まれた作品であり、その時代のなかでどのように捕らえることができるのか、これはこれとして興味深い視点である。

ウルトラマンの製作に、金城哲夫という人物が関わったこと、そして、金城は沖縄の出身であることも、確か佐藤健志の本で知ったことである。

また、その監督をつとめた実相寺昭雄の名前を知ったのは、学生になってからのことだったろうか。子どものときは、なんとも思わずにみていたドラマであるが、しかし、思い出してみると、実に斬新な映像の演出であったと、記憶の片隅にある。

ところで、NHKのドラマである。沖縄復帰五〇年ということで作られたドラマである。そう思ってみることになるせいだろうが、確かに、ウルトラマンには、沖縄が影を落としている。かつて独立国であった琉球は、沖縄県として日本の支配下にはいり、戦後アメリカのもとにあった。そして、東西冷戦の時代であり、沖縄にはアメリカ軍が駐留している。このような時代背景を、いろんな意味で反映したところに、ウルトラマンの誕生があったことになる。

なぜウルトラマンは、地究にやってきて人類を助けるのか。どこからやってきたのか。そして、怪獣はなぜ、人類を襲うことになるのか。ただの特撮娯楽番組とはいいきれない、複雑な問題をそこに見出すことができる。

番組を見て思ったこととして、ウルトラマンは、ニライカナイの海の向こうからやってきた神であるのか……なるほど、このような解釈もできるのかと思った。番組中では、折口の名前がちょっと出てきていたが、ここは、折口信夫の説を解説するところがあってよかったようにも思える。

沖縄復帰五〇年の番組としては、異色の作品であると思うが、見ていろいろと考えるところがあった。

2022年5月5日記

『禁色』三島由紀夫/新潮文庫2022-05-07

2022年5月7日 當山日出夫(とうやまひでお)

禁色

三島由紀夫.『禁色』(新潮文庫).新潮社.1964(2002.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/105043/

三島由紀夫の代表作である。が、これは若いときに読んだ作品ではない。名前は知っているが、なんとなく手にすることなく過ぎてきてしまった作品である。

読んでいろいろと思うことはあるが、二点ぐらい書いておく。

第一に、同性愛小説であること。

日本近代における、同性愛小説ということでは、まず名前の出る作品といっていいだろう。

近年の時代の流れのなかで、性の多様性ということがいわれる。このなかにあって、同性愛というものも、市民権を得てきているといっていいのだろう。だが、これは古今東西を通じて、まったくの禁忌であったということではない。

日本においては、古く古代、中世からひろく行われてきたことである。また、古代ギリシャにそれを求めることもできよう。このようなことは、この作品中にも言及がある。古くからの古典の継承としての同性愛である。

これについては、近現代の日本において、明確な文学の主題としては正面から扱われてはこなかったといえるだろう。とはいえ、まったくなかったわけではない。最近読んだ本、出た本としては、川端康成の『少年』がある。

やまもも書斎記 20220年4月9日
『少年』川端康成/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/04/09/9479936

『禁色』は、ほぼ全編、同性愛小説といってよい。日本文学のなかにおける同性愛小説の系譜のなかに、この作品を位置づけて考えることができる。

第二は、非常に観念的な小説であること。

おおむね三島由紀夫の作品はそうだといっていいと思うが、観念的である。リアリズムの小説とはちょっと違う。

『禁色』も、性というものを、美と精神、認識と行動、というような視点から見ている。読み進めていって、どこかで性というものを、非常に観念的にとらえていると感じる。観念的だからこそ、そこに、理想的な美を見出すことになるのかもしれない。

非常に観念的な小説であるといっても、しかし、それは読み進んでいくなかで感じることである。この小説のはじまりの部分は、ちょっと違う印象がある。第一章のあたりは、おそらく、性というものの深淵を描いた傑作といってよい。しかし、三島由紀夫は、この小説を連載するなかで、徐々に、理想の性という観念を描くようになる。その結果、人間の性というものの実相から、逆に遠ざかってしまっていくような印象を持ってしまう。

以上の二点のことを思う。

かなり大部な小説になるが、ほぼ一息で読んでしまった。だが、読んでいって感じたことであるが、雑誌連載にあたって、ちょっと都合良く話しのつじつまを合わせてしまっていると感じるところがちょっとある。あるいは、意図的にそのように小説の展開を考えたのかもしれない。

ところで、三島由紀夫は、プルーストを読んでいたのだろうか。このあたりは、三島由紀夫研究で明らかにされていることだろうと思うのだが、読みながらちょっと気になったところである。

それから、この作品で重要なのは、鏡である。三島由紀夫文学における鏡、鏡像とは何であるのか。これは、重要なキーであることを感じる。

2022年5月6日記

『ちむどんどん』あれこれ「青春ナポリタン」2022-05-08

2022年5月8日 當山日出夫(とうやまひでお)

『ちむどんどん』第4週『青春ナポリタン」
https://www.nhk.or.jp/chimudondon/story/week_04.html

前回は、
やまもも書斎記 2022年5月1日
『ちむどんどん』あれこれ「悩めるサーターアンダギー」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/05/01/9486403

暢子の家にもいろいろとあって、結果的には暢子は自分のやりたいことを見つけることになった。

料理部の助っ人として、産業まつりヤング大会で、山原そばを作ることになった暢子。しかし、アクシデントがあって、途中で料理を変更することになる。作ったのは、ナポリタンである。そして、優勝する。

どうもこのあたり、うまく話しが進みすぎている気がするけれども、これはこれでいいのだろう。試作、試食もしないで、いきなりナポリタンを提供するというのも、ちょっと無理があるようなのだが、いいとしようか。

それよりも、気になるのは、東京に行ってレストランで働きたいという暢子であるのだが、具体的にどうするということは、まったく白紙のままである。(まあ、普通に考えるならば、料理学校に行って、調理師になるというコースがあるのだけれど、どうなるのだろうか。)

本土復帰前の沖縄である。まだ、日本に自由に行ける時代ではない。これも、高校を卒業して、五月になれば本土復帰というスケジュールで考えることになるのかと思う。

ところで、比嘉家のきょうだいは、それぞれに苦労があるようだ。ネーネーの良子は、もうひとつ恋がはかどらなない。妹の歌子は、音楽の先生に追いかけられている。気楽なのは、ニーニーの賢秀であるが、どうやら詐欺師にひっかかったらしい。なけなしの960ドルは、どうなってしまうのだろうか。

この時代、スパゲッティといえば、ナポリタンだったなあとも思う。すくなくとも、パスタということばは、それほど普及していなかったはずである。

次週、暢子は沖縄を離れることになるのだろうか。楽しみに見ることにしよう。

2022年5月7日記

追記 2022年5月15日
この続きは、
やまもも書斎記 2022年5月15日
『ちむどんどん』あれこれ「フーチャンプルーの涙」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/05/15/9490764

「世界サブカルチャー史 欲望の系譜 アメリカ理想の50s」2022-05-09

2022年5月9日 當山日出夫(とうやまひでお)

世界サブカルチャー史 欲望の系譜 アメリカ理想の50s
https://www.nhk.jp/p/ts/GLP33Y7513/episode/te/5R612YJ33Z/

二〇二二年五月七日の放送。録画しておいて、翌日の朝に見た。

面白かった。が、率直な感想としては、ちょっと内容を詰めこみすぎてあるかなという印象がある。第二次世界大戦後の世界を動かすことになる、アメリカ発のサブカルチャー、それは、二〇世紀の後半の歴史を大きく変えることになる。若者の反乱の時代であり、ベトナム戦争反対であり、またさらには、共産圏の崩壊ということにまでいたる。その流れのスタートを、アメリカの戦後五〇年代にもとめている。

映画とか、テレビとか、音楽とか……まさに、サブカルチャーのジャンルになるが……において、どのようなアメリカという国が描かれ、どのような生き方が理想とされ、そのなかで、若者たちの時代になって、何を生み出していったのか。

興味深かったことは、サブカルチャーを生み出した若者たちは旅に出た。一人で世界に出て行くことになる。これはこれでよく分かることなのだが、番組では、それは、西部劇に描かれた男たちのイメージと重ねて解説していた。これは面白い指摘である。自由で独立した人間の生き方を、新しい時代の若者がもとめた。しかし、それは、西部劇に見られる、ある意味で保守的なアメリカの人びとの生き方にならったものでもあった。

西部劇もまた、アメリカという国が、近代になって新たに作りだした「伝統」……番組ではこのような表現は使ってはいなかったが……であることも重要だろう。白人によるフロンティア開拓の物語としての西部劇である。

それから、紹介されていた映画などのいくつか、『ローマの休日』『真昼の決闘』『裏窓』など、どれも記憶にあるものだが、なるほどサブカルチャー史という歴史の文脈のなかにおいてみると、そのような解釈ができるのか、新鮮なおどろきもあった。

次週も録画しておいて見ることにしよう。

2022年5月8日記

『鎌倉殿の13人』あれこれ「壇ノ浦で舞った男」2022-05-10

2022年5月10日 當山日出夫(當山日出夫)

『鎌倉殿の13人』第18回「壇ノ浦で舞った男」
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/story/18.html

前回は、
やまもも書斎記 2022年5月3日
『鎌倉殿の13人』あれこれ「助命と宿命」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/05/03/9487006

圧巻の壇ノ浦であった。

壇ノ浦の戦いは、これまでドラマで多く描かれてきていると思うが、やはりこの『鎌倉殿の13人』における描き方は傑出したものといっていいだろう。スケールも大きく、また、細部においても細やかに作ってあったと思う。

ただ、できれば、知盛の最期のところを描いてほしかったという気がする。知盛の最期は、『平家物語』のなかでも特に印象に残るところの一つである。

そして、頼朝と義経の確執。権力を掌握するものとしての頼朝、軍事に秀でたものとしての義経。相携えて協力すればいいようなものかもしれないが、そこは、兄弟である。兄弟であるが故に、連携するということができないのだろう。権力者である頼朝としては、義経を許すわけにはいかない。

ただ、この回においては、義時は歴史の目撃者の立場に立っている。前回、権力の側にたつことになったことを描いていたが、源平の争乱のなかでは、ただ歴史の推移を見守るだけのようである。

ところで、見ていて気づいたことであるが、後白河院の御所において、丹後の局(鈴木京香)が座るとき、立て膝で座っていた。これは、歴史考証としては正しい。

次週以降、頼朝と義経のその後を描くことになるようだ。楽しみに見ることにしよう。

2022年5月9日記

追記 2022年5月17日
この続きは、
やまもも書斎記 2022年5月17日
『鎌倉殿の13人』あれこれ「果たせぬ凱旋」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/05/17/9491303