『砂の女』安部公房/新潮文庫2022-07-11

2022年7月11日 當山日出夫

砂の女

安部公房.『砂の女』(新潮文庫).新潮社.1981(2003.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/112115/

安部公房は、若いときから名前は知っている作家ではあったが、特にその作品を手に取るということなく過ぎてしまってきた。まずは、代表作とでもいうべき『砂の女』を読んでみることにした。(今年は、三島由紀夫を読もうと読み始めたのだが、途中で脇道にそれてしまっている。こんなきままな読書もあっていいだろう。三島由紀夫も続けて読んでいきたい。)

全編、寓意に満ちた小説である。だが、難解という印象ではない。しかし、ではこの小説にどのような意味があるのかとなると、はたと困る。

ストーリーは単純である。ある男が主人公。昆虫採集の旅に出て、砂のなかの穴に落ちてしまう。そこには、家と女がいた。そこから脱出しようとこころみる男。だが、部落の人びとはそれを容易にはゆるさない。様々な手段をつくして脱出を試みるのだが、最終的に男は、砂の中で生きていく、あるいは、外の世界からすれば行方不明になるという結末である。

そう長くもない小説であるが、一息に読んでしまった。この作品は、人間にとって生きる環境、社会とは何か、自由とは何か、共同体とは何か……様々な、根源的で文学的な問いかけが含まれている。そして、それに対して、答えを出すということにはなっていない。寓意は、寓意のまま結末を迎える。

砂とは何だろうか。徒労というべき砂掻きという行為ははたして何か意味があるのだろうか。そこにいる女、これは男にとって他者であるのだが、他者である人間とともにあることの意味は何なのか。

安部公房は、一九九三年に亡くなっている。三〇年ほど昔のことになる。『砂の女』を読んで思うことは、まったく古びた印象が無いことである。月並みな言い方になるが、ようやく時代が安部公房に追いついてきたとでも言うことができよう。その多くの作品は、文庫本などで読める。これから、手にしてみようと思う。

2022年6月9日記

『最後の大君』スコット・フィッツジェラルド/村上春樹(訳)2022-07-12

2022年7月12日 當山日出夫

最後の大君

スコット・フィッツジェラルド.村上春樹(訳).『最後の大君』.中央公論新社.2022
https://www.chuko.co.jp/tanko/2022/04/005502.html

この作品、「ラスト・タイクーン」の名前の方が有名かもしれない。村上春樹は、新しく訳を出すにあたって、旧来のタイトルとはちょっと違った付け方をする。これは、区別のためということもあるのだろう。

「ラスト・タイクーン」は、若いとき、映画化されたのを見たのを憶えている。どんな映画だったかさっぱり憶えていない。ただ、撮影所が洪水になって、何かセットが流れてきて、それに人がつかまっていたかなと、かすかに記憶にある程度である。

村上春樹の訳のフィッツジェラルドは、これまでにいくつか読んできた。『最後の大君』も、フィッツジェラルドを村上春樹が訳したということで、とにかく読んでみることにした。

思うところは、次の二点ぐらいだろうか。

第一に、映画。

ハリウッドが舞台である。そこでの映画製作の実際がどんなだったか、どんな人びとがどんな役割分担で、どんな仕事をしていたのか……このあたりが興味深い。これは、この本の読み方としては、本来の筋ではないことは分かっている。しかし、今になって、この小説を読むと、歴史的な興味関心で読んでしまうところがどうしてもある。

第二に、小説として。

文学とは、つまりは文体であると言ってもいいのなら、まさしく、この小説は文学である。どの登場人物、シーンもいい。魅力的な人物であり、また、その時代的背景をそこはかとなく感じさせる。未完の小説なのだが、その不十分さを感じさせない。読みながら、フィッツジェラルドの世界に入り込んで行く。そして、それを十分に堪能できる村上春樹の訳である。

これを読んだら、村上春樹訳の、他のフィッツジェラルドの作品を読みなおしてみたくなった。

以上の二点が、読んで思うことである。

この作品は、ある時代のある人びとの生活感覚を確かにとらえており、そして、それが普遍的なところにつながっている。

2022年6月10日記

錦木2022-07-13

2022年7月13日 當山日出夫

水曜日なので写真の日。今日は錦木の花である。

前回は、
やまもも書斎記 2022年7月6日
カラスノエンドウ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/07/06/9506499

我が家の庭に、錦木の老木がある。図鑑などで見ると、秋に紅葉する葉を愛でるとあるのだが、我が家の錦木は色づくことがない。そのかわりに赤い実をつける。また、初夏のころには、花が咲く。花はとても小さい。ちょうど五月の連休のころに咲く。近年は、その季節になると庭に出て観察するようにしている。

花はたくさん見えるのだが、秋になって赤く色づくものは少ない。このところ、錦木に花が咲くと、五月の連休で初夏の感じがすると思うようになってきている。

写した写真は、四月のうちに取り置きしたもののストックからである。

庭に出ると、紫陽花の花もそろそろ終わりだろうかという感じになってきている。桔梗の白い花が、もうじきしたら咲くだろうか。

錦木

錦木

錦木

錦木

錦木

錦木

Nikon D500
SIGMA APO MACRO 150mm F2.8 Ex DG OS HSM

2022年7月12日記

映像の世紀バタフライエフェクト「太平洋戦争 “言葉”で戦った男たち」2022-07-14

2022年7月14日 當山日出夫

映像の世紀バタフライエフェクト 「太平洋戦争 “言葉”で戦った男たち」

7月11日の月曜日の放送。録画しておいて、翌日の朝にゆっくりと見た。

日本文学、日本語学の立場からして、戦後の日本文学の研究、英訳などの領域で、太平洋戦争中の、アメリカ軍の日本語教育が大きく影響しているということは、常識的に知られていることではあると思っている。サイデンステッカーやキーンのような人びとが、もとは米軍の日本語士官であったことはよく知られていることだろう。だが、彼らについて、その実態や、具体的にどのような活動があったかということについては、まだまだ研究は未開拓であると言っていいかもしれない。

この意味では、この回の特集は、私の専門とする日本語学の領域にも、いくぶんはかかわってくることになる。そのこともあって、興味深く思って見た。

印象に残っているのは、やはりテニアンの学校のことである。この学校のことについては、以前の「映像の世紀」シリーズのなかのどこかで取り上げていたと記憶する。

占領した日本統治下にあったテニアンにおいて、日本語の学校を作ったこと、そこで、日本語での教育のみならず、民主的な教育が行われていたことは、記憶されていいことだと思う。

ともあれ、これからの日本語学という研究の領域において、(日本語を母語としない人びとにたいする)日本語学習ということは、重要な意味を持ってくることになる。(その反面、国語教育という分野が徐々に手薄になってきているうらみはあるのだが。)このような観点から見ても、太平洋戦争中の米軍による日本語教育の実態の研究ということは、重要な意味がある。ここは、これからの研究に期待したところである。

ところで、この回の特集とはあまり関係の無いことなのだが……太平洋戦争中の記録映像として、米軍の残したものにカラー撮影のものがある。まさに戦場を写し取っている。その先に無辜の市民がいることがわかっていながら、火炎放射器で炎を吹きかけるシーンなど、記録として見るからこそなんとか見てはいられるが、かなり残酷なシーンである。戦争というものの悲惨さを実感する場面がいくつかあった。

川端康成の「美しい日本の私」は、若いときに読んだ文章である。最近になってからも手にして読んでみた。ノーベル文学賞の受賞講演であることは知っていたが、そのスピーチを、実際には英訳でサイデンステッカーが読んだということは、この番組で知った。

2022年7月12日記

『けものたちは故郷をめざす』安部公房/新潮文庫2022-07-15

2022年7月15日 當山日出夫

けものたちは故郷をめざす

安部公房.『けものたちは故郷をめざす』(新潮文庫).新潮社.1970(2018.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/112103/

『砂の女』につづけて読んだ。そのせいか、相反することを思う。

第一に、リアリズム小説として。

この作品に描かれた、太平洋戦争、大東亜戦争の後の満州での逃避行は、かなり作者の体験に基づくとことがかなりあるらしい。そののような知識で読むせいか、満州の荒野の逃避行は、鬼気迫るものがあると感じる。フィクションを交えてはいるのだろうが、その描写の根底には、作者の満州での体験があってのことなのだろうと思う。

第二に、寓話として。

非常にリアルな描写があるのだが、全体として、どことなく寓話的である。なるほど悲惨な場面が多い。だが、それを描く作者の目は冷静である。全編を通じてどことなく空想の世界のような雰囲気もないではない。あるいは、この小説の物語全体を通じて、なんとなく夢のなかのできごとのような印象を感じるところもある。

このような寓意を感じさせる作品というのが、安部公房の持ち味なのだろうと思うことになる。

以上の二つのことが、読んで感じることである。

戦後の満州での逃避行ということ、私などは、『朱夏』(宮尾登美子)を思い出してしまう。これは、著者の体験に裏付けられた小説である。この安部公房の作品は、かなり雰囲気はちがうが、戦後の満州でいったいどのようなことがあったのか、あまり文学的に残っているものはないのかもしれない。(ただ、これは私が知らないということもあるのだろうが。)

そして、この『けものたちは……』を読んで感じることは、人間にとっての自由とは何か、自分の意志で行動するということはどういうことなのか、この世界のなかで自分はどんな存在なのか、根底から問いかける視点があることが重要だろう。それが、冬の満州での逃避行という極限状況をリアルに描くなかで、通奏低音として響いている。

2022年6月15日記

『どうにもとまらない歌謡曲』舌津智之/ちくま文庫2022-07-16

2022年7月16日 當山日出夫

どうにもとまらない歌謡曲

舌津智之.『どうにもとまらない歌謡曲-七〇年代のジェンダー-』(ちくま文庫).筑摩書房.2022(晶文社.2002)
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480438218/

二〇〇二年に晶文社から刊行。それに、加筆訂正を加えてちくま文庫で出したものである。

タイトルにあるとおり一九七〇年代の歌謡曲を主にあつかっている。私は、一九五五年(昭和三〇)の生まれであるので、七〇年代の歌謡曲というと、そのほとんどをリアルタイムで知っている。テレビで見たり、ラジオで聞いたりである。

読んで思うことは多くあるが、二点ばかり書いておく。

第一に、ジェンダー論として。

タイトルのとおり、この本は、七〇年代の歌謡曲をジェンダーの視点、方法論で分析している。読んでなるほどと思うところが多い。(ただ、いくぶん牽強付会、そこまで深読みしなくてもいいのではと感じるところが、まったく無いわけではないのだが。)が、ともかく、文化的な事象をジェンダー論で分析するとどういうことが見えてくるのか、そのお手本のようなところがある。これは、これとして、非常に興味深い。

第二に、日本語学の観点から。

日本語学の分野で、特に計量国語学では、歌謡曲の歌詞分析というテーマが伝統的にある。とはいえ、最近の研究動向にはうといので、近年の研究の傾向がどうなっているのかは、知らないのだが。

この本で指摘してあることのいくつかは、日本語学の観点か見て重要である。歌謡曲の歌詞の表記論は、耳で聴くことがメインであるはずの歌謡曲が、なぜ表記にこだわりを見せるのか、面白い。また、歌謡曲のメロディと日本語のアクセントのことについては、日本語論としても考えるべき重要なテーマである。

以上の二点のことを思ってみる。

ともあれ、この本は、七〇年代歌謡曲ということに範囲を絞ってはいるのだが、「歌謡文学」の研究という方向、あるいは、その研究の可能性を示している。ポピュラーな芸能であることもあって、歌謡曲は、時代の流れのなかにあり、そして、時としては時代の行く末を暗示するようなところもある。この本を読むと、まさに二〇世紀になって日本の社会のなかでおこっている様々なことが、七〇年代にさかのぼって考えることができることに気づかされる。「歌謡文学」というこれからの新しい研究テーマを示しているということでも、この本は非常に価値がある。

2022年6月15日記

『ちむどんどん』あれこれ「渚の、魚てんぷら」2022-07-17

2022年7月17日 當山日出夫

『ちむどんどん』第14週「渚の、魚てんぷら」
https://www.nhk.or.jp/chimudondon/story/week_14.html

前回は、
やまもも書斎記 2022年7月10日
『ちむどんどん』あれこれ「黒砂糖のキッス」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/07/10/9507613

特にこのドラマが駄作だとは思っていないのだが、今一つ面白くない。いや、普通に見ていれば、それなりに楽しめるドラマになってはいる。ただ、朝ドラは、ここしばらく出来のいい作品が続いていたので、どうしても比較して考えてしまうということもあるのかとも思う。

暢子、愛、和彦、智……この四人であるが、結局、和彦と愛は一緒になることはなく、別れた。愛は、パリに行くことになった。まあ、このあたりの展開は、予想のつくところではある。

よく分からないのが、暢子と智。角力に勝ったらプロポーズするということになっていた。結果的には、暢子は智を受け入れない。ここしばらくは、仕事(料理)の方を選択するということである。まあ、暢子にしても、愛にしても、結婚か仕事かという選択において、仕事を選んだ女性ということにはなる。

しかし、その仕事を選択するにいたる過程が、今一つ説得力を持って描かれているとは感じられない。

ドラマであるから、特に誰に共感するということは無くてもいいのかもしれない。そうはいっても、登場人物の心の動きと行動に、説得力がないといけないと思う。このドラマに不足しているのは、その説得力だろう。そこを、無理に想像力でおぎなおうとすると、不満が生じることになる。

さて、次週は、母の優子の再婚話しである。沖縄に舞台が移って物語は展開するようだ。どうなるか楽しみに見ることにしよう。

2022年7月16日記

追記 2022年7月24日
この続きは、
やまもも書斎記 2022年7月24日
『ちむどんどん』あれこれ「ウークイの夜」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/07/24/9511603

ブラタモリ「能登半島」2022-07-18

2022年7月18日 當山日出夫

土曜日の放送、これも録画しておいて翌日の朝にゆっくりと見た。

能登半島には行ったことがある。修学旅行だった。もう半世紀以上も前のことになる。さっぱり憶えていない。

ただ、千枚田は見たかと記憶している。

常々不審に思っていることなのだが、どうして、日本の人びとは、千枚田を作ってまで米作ということにこだわったのか。日本人は米を作ってきた人びとであるというのは、確かにそのような一面もあるにはちがいないが、一面では思い込みであることもあるのかもしれない。(このあたりは、近年の歴史学においてどのように考えられているのだろうか。)

どう考えても、千枚田は、効率が悪い。そこまでして米作を行った理由というものを考えることがこれから必要になってくるのかもしれない。

塩田は、以前のNHKの朝ドラ『まれ』で登場していた。だいたいどんなふうに作るのかは、知っていたつもりでいたが、興味深かったのは、製塩には大量の薪を必要とすること。海があって、かつ、薪を簡単に調達できるところ、そして、(番組では語っていなかったが)その流通ルートが必要になる。はたして、能登半島で作られた塩は、どのような販売ルートで消費されていたのだろうか。そして、それが、その地域の経済活動とどうかかわっていたのか、気になるところではある。

2022年7月17日記

『鎌倉殿の13人』あれこれ「鎌倉殿と十三人」2022-07-19

2022年7月19日 當山日出夫

『鎌倉殿の13人』第27回「鎌倉殿と十三人」
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/story/27.html

前回は、
やまもも書斎記 2022年7月5日
『鎌倉殿の13人』あれこれ「悲しむ前に」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/07/05/9506203

対立と分断の鎌倉である。

第一に御家人たち。

北条と比企の対立が、ここに来て表面化してきている。御家人たちも、どっちにつくかでその立場の選択を迫られている。(これは、この後、比企は滅ぼされるということになるのだが。)

第二に頼家と御家人たち。

御家人たちは、一三人合議体制ということで鎌倉幕府を支えていこうとこる。一方、頼家は、御家人のことを信用しないときっぱりと言ってしまう。そして、自分の近習たちをそばで使うことになる。こんなふうに言ってしまっていいものなのかと思ったが、どうだろうか。(頼家は非業の最期となるはずだが、このあたりをどう描くだろうか。)

第三に鎌倉と朝廷。

後鳥羽上皇は鎌倉のことを見下しているようだ。すくなくとも武士の世になってしまうことを歓迎しているようではない。(このドラマの最終盤になるはずの承久の乱をどうえがくか、このあたりから伏線となるのだろう。)

以上、様々な対立と分断を描いた回であった。

さて、頼家の前に、一三人の御家人が勢揃いしていたシーンがあったが、これは、歴史学上はどうなのだろうか。実際に、一三の合議体制が機能していたのではないというのが、一般的な理解かと思っているのだが、どうなのだろうか。

選挙で一回休みがあって、これから後半になる。次回以降の展開を楽しみに見ることにしよう。

2022年7月18日記

追記 2022年7月26日
この続きは、
やまもも書斎記 2022年7月26日
『鎌倉殿の13人』あれこれ「名刀の主」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/07/26/9512145

綿毛2022-07-20

2022年7月20日 當山日出夫

水曜日なので写真である。今日は綿毛である。

前回は、
やまもも書斎記 2022年7月13日
錦木
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/07/13/9508544

四月の写真の撮りおきのストックからである。タンポポの綿毛である。

タンポポの黄色い花が咲いていると思って見ていると、それがいつのまにか綿毛になっている。その過程を観察してみたいと思いながら、いまだにはたせないでいる。

ともあれ、綿毛というものは、写真になる。というよりも、写真、それも、接写の写真で写してみたくなるものである。毎年同じように撮っているのだが、それでも、どこにピントを合わせて、どのような構図で撮るか、いろいろと工夫することになる。

このときは、丸い全体像ではなく、部分的なところに焦点をあててみた。

庭に出ると、百日紅の花が咲きはじめている。露草の花ももうじきさくだろうかというところである。梅雨が早く終わって、それからとても暑くなって、さらにもう一回雨の多い日がつづいている。

綿毛

綿毛

綿毛

綿毛

綿毛

Nikon D500
TAMRON SP 90mm F/2.8 Di MACRO 1:1 VC USD

2022年7月19日記

追記 2022年7月27日
この続きは、
やまもも書斎記 2022年7月27日
小手毬
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/07/27/9512433